第89話 どなたから、お聞きになりましたの
シャトラン侯爵夫人の広間には、前と同じ顔が揃っていた。
ボワシエ男爵夫人とソランジュは、今日も卓の端にいる。半月のあいだに、娘の頬は少し痩せていた。縁談の相手の家からは、まだ何の返事もないのだという。
◇
ヴィオレッタの隣は、今日も空いていた。
前の茶会で席を移った子爵家の令嬢は、今日ははじめから、いちばん遠い卓に札が置かれている。女主人が気をきかせたのであろう。
緑の衣の肩は、まっすぐであった。耳飾りも、左右どちらも同じように光っている。
◇
ドゥラージュ伯爵夫人は、今日も紺を着ていた。
「公爵令嬢様、お珍しい色ですのね。緑は、今年は」
向かいの令嬢が、扇の陰から言いかけた。
「古いですわね」
ヴィオレッタは、ドゥラージュ伯爵夫人の衣に目をやった。
「紺にいたしますと、どなたかと並んでしまいますもの」
くすりと、誰かが笑う。夫人の内側で、小さく舌打ちが鳴った。鳴ったきり、すぐに静まる。今日は、こんなことで腹を立てている暇はないのである。
◇
ドゥラージュ伯爵夫人は、茶が一巡するのを待っていた。
待っているあいだ、夫人の内側は、ずっと鳴っている。
――今日は、とびきりのがある。
――悪女の口から、本当です、と言わせてやる。
◇
はじめに出てきたのは、別の家の話であった。
ある子爵家の若奥様が、里帰りのたびに、実家の銀の匙を一本ずつ持ち帰っているという。袖口に匙の形が浮いていたのを見た者がいる、と夫人は言った。
卓のまわりで、扇が動く。その若奥様は、今日は来ていない。来ていない者の話は、軽く笑われて、すぐに流れていった。
夫人の内側には、その話への熱が少しもない。前置きなのである。
◇
「そういえば」
夫人が、こちらを向いた。
「公爵令嬢様、雷の晩は、お眠りになれないんですってね」
広間の扇が、ぴたりと止まった。
◇
肩ではなかった。耳飾りでもない。
ヴィオレッタは、茶碗を持ったまま、夫人の顔を見ていた。
◇
「窓が光ってから鳴るまでを、朝まで数えておしまいになるとか」
夫人は、楽しそうに続ける。
「髪を結わせながら、窓の外の雲ばかり、気になさっていたそうよ。王都の悪女様にも、可愛らしいところがおありですのね」
くすくすと、どこかで笑いが起きた。
◇
今日も、手で触れられそうな細かいところがついている。
窓の外の雲。髪を結わせながら。夫人の噂は、いつもこうして本当らしくなる。
誰かが、扇の陰から訊いた。
「本当ですの」
◇
「本当ですわ」
ヴィオレッタは、茶碗を置いた。
広間が、ざわめく。悪女が、自分の口で認めた。ドゥラージュ伯爵夫人の内側が、高く鳴る。
――ほら、ご覧なさい。
ヴィオレッタは、扇の陰で、ひとつ息をついた。
雷であった。髪結いの店である。三軒のうち、二軒は最後まで口を閉じていた。仕立屋は、母の肩のことを二十年黙っていた女である。宝飾屋は、知っていても言わないと言い切った老人である。
出てきたのは、鏡台の前からであった。
◇
ざわめきの中で、卓の端の娘が、小さく何か言った。
「……髪を、結わせながら」
ソランジュであった。
皆の目が、そちらへ流れる。娘は、自分の声に驚いたように口を押さえた。押さえたまま、母親の顔を見る。
◇
――首飾りを質に入れた朝。
――髪を結ってもらいながら、泣いてしまった。母様には言わないで、と言った。
娘の内側に、鏡台の前の朝が浮かんでいた。鏡台の上には、蓋をあけたままの空の箱が置いてある。
あの朝、娘のそばにいたのは、髪結いだけであった。
ボワシエ男爵夫人が、娘の顔を見ている。母様には言わないで、と娘が誰に言ったのか、母親にもいまは分かったのであろう。男爵夫人の扇が、膝の上で小さく震えていた。
◇
「わたくしも、ですわ」
別の令嬢が、扇を下ろした。
「縁談のお相手の名を、髪を結わせているときに、一度だけ口にしましたの。三日後には、茶会で皆様がご存じでしたわ」
また別の夫人が、眉をひそめる。
「わたくしの家の娘の、あのことも」
◇
広間のあちこちで、同じ顔が浮かびはじめた。
鏡台の前で、何を言ったか。誰がそばにいたか。仕立屋の前でも宝飾屋の前でもなく、髪を結わせているあいだに口にしたことばかりが、思い出されていく。
ヴィオレッタは、黙って見ていた。何ひとつ、言わなくてよかった。
ドゥラージュ伯爵夫人の内側が、少しずつ冷えていく。ほら、ご覧なさい、と鳴っていたところに、別の音が混じりはじめていた。
――なぜ、髪結いの話をしているの。
自分で足した細かいところが、自分の首を絞めている。夫人は、まだそのことに気づいていない。
◇
女主人の内側にも、鏡台の前の顔が浮かんでいた。
――去年の春。娘の持参金の額を、髪を結わせながら、夫への愚痴に混ぜて言った。
――翌週には、どこの茶会でも、その額が出ていた。
この家の女主人も、ファビアンに髪を結わせている。王都の女は、皆そうである。
◇
「ドゥラージュ伯爵夫人」
シャトラン侯爵夫人が、扇を閉じた。
「雷のお話、どなたから、お聞きになりましたの」
◇
ドゥラージュ伯爵夫人の顔から、色が引いた。
「どなたから、と申されましても。皆様が、噂を」
「皆様は、存じませんでしたわ」
侯爵夫人の声は、穏やかである。
「わたくしたち、今日はじめて、あなたのお口から伺いましたのよ。窓の外の雲のことまで」
◇
夫人の内側が、ばらばらに鳴っている。
――言えない。弟子の娘から買った、とは。
――言えば、ほかの話も、全部。
口がひらいて、また閉じる。言えば、首飾りの箱も、縁談の名も、全部が自分の買ったものになる。言わなければ、誰から聞いたのか分からない話を、見てきたように喋った女になる。
どちらにしても、同じことであった。
◇
黙っていても、夫人は落ちる。
けれども、それでは夫人は、髪結いの店がうっかり口を滑らせたのだと思って帰るだろう。誰に仕掛けられたのかも知らずに帰す気は、ヴィオレッタにはなかった。悪女に喧嘩を売ったのなら、悪女に負けたと知って帰るべきである。
ヴィオレッタは、扇を開いた。
「肩のことは、お聞きになりませんでしたのね」
ドゥラージュ伯爵夫人が、こちらを見た。
「耳飾りのことも」
◇
広間の誰も、何のことか分からない顔をしている。
分かったのは、夫人だけであった。夫人の内側で、何かがゆっくりと崩れていく。三つのうち、出てきたのはひとつだけ。残りの二つは、どこからも出てこない。
「わたくし、三軒のお店に、本当のことを、ひとつずつ申しましたの」
◇
ヴィオレッタは、それきり口を閉じた。
ドゥラージュ伯爵夫人は、しばらく座っていた。誰も、夫人に茶を注ぎ足さない。隣の夫人が、ほんの少し、椅子を引いた。
やがて夫人は立ち上がり、誰にも挨拶をせずに広間を出ていった。
扉が閉まるのを待って、シャトラン侯爵夫人が卓の皆を見渡す。
「今日のお話は、どなたも外でなさいませんように。わたくしの茶会から出る噂は、もう結構ですわ」
誰も、返事をしなかった。返事をしなくても、明日には王都じゅうが知っている。侯爵夫人も、それは分かって言っているのであった。
◇
近くの令嬢が、おそるおそる扇の陰から訊いてきた。
「公爵令嬢様。雷が、お怖いんですの」
「怖いのではありませんわ」
ヴィオレッタは、ぬるくなった茶を、ひと口だけ飲んだ。
「眠れないだけですの」
お読みいただき、ありがとうございました!
皆様にお願いです
ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に
応援していただけますと励みになります! よろしくお願いいたします(^^♪




