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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第20章

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第89話 どなたから、お聞きになりましたの

シャトラン侯爵夫人の広間には、前と同じ顔が揃っていた。


 ボワシエ男爵夫人とソランジュは、今日も卓の端にいる。半月のあいだに、娘の頬は少し痩せていた。縁談の相手の家からは、まだ何の返事もないのだという。


   ◇


 ヴィオレッタの隣は、今日も空いていた。


 前の茶会で席を移った子爵家の令嬢は、今日ははじめから、いちばん遠い卓に札が置かれている。女主人が気をきかせたのであろう。


 緑の衣の肩は、まっすぐであった。耳飾りも、左右どちらも同じように光っている。


   ◇


 ドゥラージュ伯爵夫人は、今日も紺を着ていた。


「公爵令嬢様、お珍しい色ですのね。緑は、今年は」


 向かいの令嬢が、扇の陰から言いかけた。


「古いですわね」


 ヴィオレッタは、ドゥラージュ伯爵夫人の衣に目をやった。


「紺にいたしますと、どなたかと並んでしまいますもの」


 くすりと、誰かが笑う。夫人の内側で、小さく舌打ちが鳴った。鳴ったきり、すぐに静まる。今日は、こんなことで腹を立てている暇はないのである。


   ◇


 ドゥラージュ伯爵夫人は、茶が一巡するのを待っていた。


 待っているあいだ、夫人の内側は、ずっと鳴っている。


  ――今日は、とびきりのがある。


  ――悪女の口から、本当です、と言わせてやる。


   ◇


 はじめに出てきたのは、別の家の話であった。


 ある子爵家の若奥様が、里帰りのたびに、実家の銀の匙を一本ずつ持ち帰っているという。袖口に匙の形が浮いていたのを見た者がいる、と夫人は言った。


 卓のまわりで、扇が動く。その若奥様は、今日は来ていない。来ていない者の話は、軽く笑われて、すぐに流れていった。


 夫人の内側には、その話への熱が少しもない。前置きなのである。


   ◇


「そういえば」


 夫人が、こちらを向いた。


「公爵令嬢様、雷の晩は、お眠りになれないんですってね」


 広間の扇が、ぴたりと止まった。


   ◇


 肩ではなかった。耳飾りでもない。


 ヴィオレッタは、茶碗を持ったまま、夫人の顔を見ていた。


   ◇


「窓が光ってから鳴るまでを、朝まで数えておしまいになるとか」


 夫人は、楽しそうに続ける。


「髪を結わせながら、窓の外の雲ばかり、気になさっていたそうよ。王都の悪女様にも、可愛らしいところがおありですのね」


 くすくすと、どこかで笑いが起きた。


   ◇


 今日も、手で触れられそうな細かいところがついている。


 窓の外の雲。髪を結わせながら。夫人の噂は、いつもこうして本当らしくなる。


 誰かが、扇の陰から訊いた。


「本当ですの」


   ◇


「本当ですわ」


 ヴィオレッタは、茶碗を置いた。


 広間が、ざわめく。悪女が、自分の口で認めた。ドゥラージュ伯爵夫人の内側が、高く鳴る。


  ――ほら、ご覧なさい。


 ヴィオレッタは、扇の陰で、ひとつ息をついた。


 雷であった。髪結いの店である。三軒のうち、二軒は最後まで口を閉じていた。仕立屋は、母の肩のことを二十年黙っていた女である。宝飾屋は、知っていても言わないと言い切った老人である。


 出てきたのは、鏡台の前からであった。


   ◇


 ざわめきの中で、卓の端の娘が、小さく何か言った。


「……髪を、結わせながら」


 ソランジュであった。


 皆の目が、そちらへ流れる。娘は、自分の声に驚いたように口を押さえた。押さえたまま、母親の顔を見る。


   ◇


  ――首飾りを質に入れた朝。


  ――髪を結ってもらいながら、泣いてしまった。母様には言わないで、と言った。


 娘の内側に、鏡台の前の朝が浮かんでいた。鏡台の上には、蓋をあけたままの空の箱が置いてある。


 あの朝、娘のそばにいたのは、髪結いだけであった。


 ボワシエ男爵夫人が、娘の顔を見ている。母様には言わないで、と娘が誰に言ったのか、母親にもいまは分かったのであろう。男爵夫人の扇が、膝の上で小さく震えていた。


   ◇


「わたくしも、ですわ」


 別の令嬢が、扇を下ろした。


「縁談のお相手の名を、髪を結わせているときに、一度だけ口にしましたの。三日後には、茶会で皆様がご存じでしたわ」


 また別の夫人が、眉をひそめる。


「わたくしの家の娘の、あのことも」


   ◇


 広間のあちこちで、同じ顔が浮かびはじめた。


 鏡台の前で、何を言ったか。誰がそばにいたか。仕立屋の前でも宝飾屋の前でもなく、髪を結わせているあいだに口にしたことばかりが、思い出されていく。


 ヴィオレッタは、黙って見ていた。何ひとつ、言わなくてよかった。


 ドゥラージュ伯爵夫人の内側が、少しずつ冷えていく。ほら、ご覧なさい、と鳴っていたところに、別の音が混じりはじめていた。


  ――なぜ、髪結いの話をしているの。


 自分で足した細かいところが、自分の首を絞めている。夫人は、まだそのことに気づいていない。


   ◇


 女主人の内側にも、鏡台の前の顔が浮かんでいた。


  ――去年の春。娘の持参金の額を、髪を結わせながら、夫への愚痴に混ぜて言った。


  ――翌週には、どこの茶会でも、その額が出ていた。


 この家の女主人も、ファビアンに髪を結わせている。王都の女は、皆そうである。


   ◇


「ドゥラージュ伯爵夫人」


 シャトラン侯爵夫人が、扇を閉じた。


「雷のお話、どなたから、お聞きになりましたの」


   ◇


 ドゥラージュ伯爵夫人の顔から、色が引いた。


「どなたから、と申されましても。皆様が、噂を」


「皆様は、存じませんでしたわ」


 侯爵夫人の声は、穏やかである。


「わたくしたち、今日はじめて、あなたのお口から伺いましたのよ。窓の外の雲のことまで」


   ◇


 夫人の内側が、ばらばらに鳴っている。


  ――言えない。弟子の娘から買った、とは。


  ――言えば、ほかの話も、全部。


 口がひらいて、また閉じる。言えば、首飾りの箱も、縁談の名も、全部が自分の買ったものになる。言わなければ、誰から聞いたのか分からない話を、見てきたように喋った女になる。


 どちらにしても、同じことであった。


   ◇


 黙っていても、夫人は落ちる。


 けれども、それでは夫人は、髪結いの店がうっかり口を滑らせたのだと思って帰るだろう。誰に仕掛けられたのかも知らずに帰す気は、ヴィオレッタにはなかった。悪女に喧嘩を売ったのなら、悪女に負けたと知って帰るべきである。


 ヴィオレッタは、扇を開いた。


「肩のことは、お聞きになりませんでしたのね」


 ドゥラージュ伯爵夫人が、こちらを見た。


「耳飾りのことも」


   ◇


 広間の誰も、何のことか分からない顔をしている。


 分かったのは、夫人だけであった。夫人の内側で、何かがゆっくりと崩れていく。三つのうち、出てきたのはひとつだけ。残りの二つは、どこからも出てこない。


「わたくし、三軒のお店に、本当のことを、ひとつずつ申しましたの」


   ◇


 ヴィオレッタは、それきり口を閉じた。


 ドゥラージュ伯爵夫人は、しばらく座っていた。誰も、夫人に茶を注ぎ足さない。隣の夫人が、ほんの少し、椅子を引いた。


 やがて夫人は立ち上がり、誰にも挨拶をせずに広間を出ていった。


 扉が閉まるのを待って、シャトラン侯爵夫人が卓の皆を見渡す。


「今日のお話は、どなたも外でなさいませんように。わたくしの茶会から出る噂は、もう結構ですわ」


 誰も、返事をしなかった。返事をしなくても、明日には王都じゅうが知っている。侯爵夫人も、それは分かって言っているのであった。


   ◇


 近くの令嬢が、おそるおそる扇の陰から訊いてきた。


「公爵令嬢様。雷が、お怖いんですの」


「怖いのではありませんわ」


 ヴィオレッタは、ぬるくなった茶を、ひと口だけ飲んだ。


「眠れないだけですの」



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