第90話 申し上げたことは、ございませんわね
ソランジュが、卓の端からこちらを見ていた。
何か言いたそうな顔である。礼を言いたいのか、詫びたいのか、娘自身にも分かっていない。
ヴィオレッタは、娘のほうを見なかった。首飾りが質から戻るわけではない。止まった縁談が動き出すわけでもない。そこまで面倒を見るつもりは、はじめからなかった。
◇
茶会が果てて広間を出るとき、ボワシエ男爵夫人が、廊下の端で頭を下げた。
娘の肩を抱いている。頭を下げたまま、何も言わない。男爵夫人の内側には、質屋の帳場と、縁談の相手の家の門が、かわるがわる浮かんでいた。
ヴィオレッタは、会釈も返さずに通り過ぎた。
◇
玄関の手前で、シャトラン侯爵夫人に呼び止められた。
「公爵令嬢様。雷のこと、本当でしたのね」
「本当ですわ」
「わたくし、ファビアンは今日かぎりにいたします。ほかの皆様も、きっとそうなさるでしょう」
◇
「ファビアンは、口の堅い男ですわ」
侯爵夫人が、扇の手を止めた。
「では、どなたが」
「存じませんわ」
本当のことである。誰なのかは、まだ知らない。知っているのは、主ではないということだけであった。
◇
侯爵夫人は、しばらくヴィオレッタの顔を見ていた。それから、ゆっくりと扇を開いた。
「公爵令嬢様がそう仰るなら、そうなのでしょうね。嘘をおつきにならない方ですもの」
内側で、侯爵夫人は少しだけ悔しがっている。悪女の言うことを、王都でいちばん確かな言葉として扱わなければならないのが。
◇
二日後、ファビアンが屋敷へ来た。
ひとりであった。籠を抱えた弟子の娘は、いない。
長い指が、帽子のつばを握りしめている。茶会から二日で、髪結いの頬は少しこけて見えた。
「この二日で、お屋敷を七つ、断られました」
「でしょうね」
◇
「シャトラン侯爵家の執事から、茶会のことを伺いました。それで、店の者をひとりずつ呼んで、訊きました」
髪結いが、深く頭を下げる。
「ルイーズは、暇を出しました。ドゥラージュ伯爵家の侍女に、話をひとつ売るごとに銀貨を一枚もらっていたと申しました。ピンを渡しながら、ずっと聞いていたのだと」
◇
ヴィオレッタは、あの日の娘の内側を思い出していた。
ピンの順番と、窓の外の雲。あの娘は、雲を見ていたのである。主人の客が、何を気にしているのかを。
◇
内側に、それ以外のものは浮かんでいなかった。
悪いことをしていると思っている者は、口と内側がずれる。ずれれば、色が立つ。けれども、あの娘にはずれがなかった。聞いて、覚えて、売る。娘にとって、それはピンを順に渡すのと同じ、手の仕事だったのである。
ヴィオレッタの目は、ずれを見る目である。ずれのない者が何を売っているかまでは、見分けられない。
だから、三軒にひとつずつ、本当のことを置いたのであった。
◇
「その娘、どこへやりましたの」
「田舎へ帰しました。銀貨は、残っていたぶんを全部取り上げて、ボワシエ男爵家へ届けました。首飾りが戻るほどの額では、ございませんでしたが」
ヴィオレッタは、何も言わなかった。届けたのは髪結いの勝手である。止めることも、褒めることもない。
◇
ヴィオレッタは、鏡台の前に座った。
「では、このあいだの続きを、結ってくださいな」
ファビアンが、顔を上げる。
「お嬢様。あの日、途中でお帰しになったのは」
◇
「ひと筋、引っぱりましたでしょう」
「……はい」
「それだけですわ」
髪結いは、しばらく黙っていた。それから、櫛を取り出した。
今度は、ひと筋も引っぱらない。
◇
結いながら、ファビアンがぽつりと言った。
「あの日、ルイーズがピンを一本、渡し違えました」
「そう」
「雷のお話のときでございます。鼈甲を出すところで、銀を出しました。わたくしの指が、それで迷いました。あの娘が順を違えたのは、あれが初めてでございました」
ヴィオレッタは、鏡の中で、髪結いの手を見ていた。
ピンの順番を一度も違えたことのない娘が、あのときだけ違えたのである。雷の話に、耳を取られたのであろう。これは売れる、と手より先に耳が知った。
「それでも、ひと筋はひと筋ですわ」
「はい。わたくしの手でございますから」
◇
結い終わると、ファビアンは鏡の中のヴィオレッタに向かって言った。
「来週も、お呼びいただけますか」
「呼びますわ。王都でいちばん腕のいい髪結いですもの」
ヴィオレッタは、仕上がった髪に指をあてた。
「ほかの家が呼ばないのなら、わたくしの好きな日に、好きなだけ来られますわね」
◇
髪結いは、何か言いかけて、やめた。
内側で、ありがたいのか、ありがたくないのか、決めかねている。決めかねたまま、深く頭を下げて帰っていく。籠は、自分で抱えていた。
◇
ドゥラージュ伯爵家への招きは、その月のうちに、ひとつもなくなった。
払いの早かった三軒の店も、夫人の注文を受けなくなったという。マダム・オードランは、伯爵夫人のために取り置いていた紺の布地を、棚から下ろしたと聞く。ルグランの老人は、伯爵家から届いた手紙を、封も切らずに返したらしい。
◇
ファビアンを断った家は、ひと月もしないうちに、ひとつ、またひとつと戻ってきたという。王都に、あれより腕のいい髪結いはいないのである。ヴィオレッタの好きな日は、少しずつ取りにくくなった。
◇
ベルナールの話では、伯爵家は持参金の残りも、もう使い切ってある。
色をつけて払う金は、どこからも出てこない。払いのいちばん早かった家は、半月で、王都でいちばん払いの遅い家になった。
「銀器を、もう一揃い手放されるそうでございます」
「そう」
ヴィオレッタは、それ以上は訊かなかった。袖口に匙の形が浮いていたと、誰かが言いはじめるころであろう。
◇
月の終わりに、ボワシエ男爵家から書状が届いた。
差出人は、ソランジュである。ヴィオレッタは封を切らずに、盆に戻した。
「お読みにならないのですか」
「礼か、詫びでしょう。どちらでも、わたくしのすることは変わりませんもの」
マリアンヌは、黙って書状を引き出しにしまった。捨てなさい、とは言われていない。
◇
その晩、雷が鳴った。
窓が白く光る。ヴィオレッタは、寝台の上で目をあけたまま、数えはじめた。ひとつ、ふたつ、みっつ。
扉が、そっとあいた。
「お嬢様」
マリアンヌが、燭台を持って立っていた。
◇
「眠れないのでございましょう」
「申し上げたことは、ございませんわね」
「存じております」
侍女は、寝台の脇の椅子に腰を下ろした。燭台を、窓から遠い卓に置く。それきり、何も言わない。
窓が、また光った。ヴィオレッタは、もう数えなかった。
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