第83話 覚えたまま、なさいましたのね
回廊で、ヴィオレッタは娘に追いついた。
追いついた、と言っても、急いだわけではない。ノエミが柱の陰で足を止めていたのである。扇の骨が、一本、折れていた。
「ヴィオレッタ様」
娘の目は、濡れていない。
「なぜ、止めてくださらなかったのです。わたくしが何をするつもりか、お分かりでしたのでしょう」
◇
「全部、お出来になりましたわね」
ヴィオレッタは、問いには答えず、折れた扇を見た。
「黙って見るのも。理由を言わないのも。扇を一度だけ鳴らすのも。ひと言だけ口を開くのも。教えたとおり、全部」
◇
「……第一条だけ、忘れておりました」
ノエミが、小さく言った。
ヴィオレッタは、扇を開かない。
「いいえ」
◇
「覚えておいででしたわ。毎朝、いちばん早くお答えになりましたもの」
娘の唇が、震える。
「覚えたまま、なさいましたのね」
◇
ノエミは、何か言い返そうとした。
言い返す言葉の内側が、こちらには見えている。
――だって、ひとつくらいなら。ヴィオレッタ様だって、一度くらいは。
見えていて、ヴィオレッタは、それにも答えなかった。答えれば、この娘はまた、そこへ逃げこむ。
◇
「いま、忘れておりました、と仰いましたわね」
「……はい」
「それも、嘘ですわ」
ノエミの顔から、最後の色が引いていく。
広間で嘘をついて、回廊でもうひとつ。ひとつくらいなら、と思った嘘が、ひとつでは済まない。済ませようとすれば、もうひとつ要る。
「嘘は、強すぎますの。一日目に、申し上げましたわね」
◇
「……どうして」
娘の声が、ようやく崩れた。
「どうして、一日目に、もっと強く仰ってくださらなかったの」
「申し上げましたわ。五日のあいだ、毎朝」
ヴィオレッタは、静かに言った。
「毎朝、あなたがご自分のお口で、お答えになりましたのよ」
◇
ノエミは、それきり黙った。
黙ったまま、長いこと、折れた扇を見下ろしている。
「あのまま、お帰りになればよろしかったのよ」
ヴィオレッタは、言った。
「あなたは、もう勝っておいででしたもの。フロランスが目を逸らしたところで」
「……勝って、おりましたの」
「ええ。ティエリ様も、伯爵夫人も、あなたをご覧になっていましたわ。悪くない、というお顔で」
顔だけではない。内側も、そう言っていた。そこまでは、言わない。
◇
娘は、何か言おうとした。
言わずに、膝を折る。教えたとおりの、深い礼である。それから、回廊を歩いていく。
もう、急がない歩き方であった。急ぐ先が、どこにもなくなったのである。
◇
広間へ戻る途中で、アデライドが待っていた。
いつもの角度で、笑っている。笑顔の下の濁りは、今日はいつもより澄んで見えた。安堵の色である。
「ヴィオレッタ様。おかげさまで、助かりましたわ」
ヴィオレッタは、立ち止まった。
◇
黙って、娘を見る。
にらむのではない。ただ、見る。五日のあいだ、ノエミに教えた目である。
アデライドの笑顔が、少しずつ固くなっていく。
――なに。なんで、黙ってるの。
――火曜じゃない。言ったのは、土曜。ティエリ様が戻られた翌日。フロランスに言わせた。
◇
ヴィオレッタは、扇を開いた。
「火曜でなければ、何曜日でしたの」
◇
アデライドの笑顔が、そこで止まった。
後ろに、フロランスが立っている。その顔が、ゆっくりと、主のほうを向いた。
――土曜。わたしが言った。アデライド様が、言いなさいって。
――わたしだけ、今日、あんな目で見られて。
ヴィオレッタは、それきり何も言わずに、広間へ戻った。理由は、言わない。
◇
三日後、ガルニエ商会から使いが来る。
娘の縁談は、こちらから取り下げた。ついては、授業料の半分なりとも、お返し願えないか、という口上である。
「お断りいたしました」
ベルナールが報告に来たときには、使いはもう門の外にいた。
「前払いでございますので、と申し上げました。使いの者も、それ以上は何も」
金の話になると、この執事は誰より早い。
◇
「それと、もうひとつ」
ベルナールは、書付をめくった。
「ロシニョール伯爵家は、ティエリ様のご縁談を、もう一方も見送られたそうでございます」
「アデライドの」
「はい。フロランス嬢が、あちこちの茶会で話しておいでだとか。何を言うにも、ヴィルヌーヴの令嬢に言わされていた、と」
◇
隣の者に言わせて、自分は困ったように笑う。
言わせる者がいなくなれば、笑う顔だけが残る。残った顔に、もう誰も笑い返さない。
王都の茶会では、ああいう娘がいちばん長生きをする。長生きのこつは、隣の者の口を、最後まで自分のものにしておくことである。アデライドは、それをひとつだけ、しくじった。
◇
「お嬢様」
マリアンヌが、茶を注ぎながら言った。
「あの方、よい生徒でございましたね」
「ええ」
ヴィオレッタは、茶碗を取った。
「第一条のほかは」
◇
マリアンヌは、ポットを置いた。
「アデライド様も、ノエミ様も、落ちてしまわれましたね」
「落ちましたわね」
「お嬢様は、はじめに、知ったことではないと仰いました」
「申しましたわ」
ヴィオレッタは、茶を飲んだ。
「知ったことではございませんわ。今でも」
マリアンヌは、何も言わずに、少しだけ笑った。
◇
「ベルナール。ガルニエ商会から、扇を一本、取り寄せておきなさい。象牙の骨の、南の鳥のものを」
「お代は」
「授業料から、お払いなさい」
執事の眉が、わずかに動いた。
金庫から金貨が出ていく話になると、この執事はいつもより遅い。
◇
「どちらへ、お届けいたしましょう」
「ガルニエ商会の、ひとり娘へ」
「お手紙は、お付けになりますか」
「要りませんわ」
ヴィオレッタは、扇を閉じた。
ぱちり、と一度だけ鳴る。
「理由は、言わないものですもの」
◇
ベルナールが、一礼して下がっていく。
マリアンヌは、閉じた扉を見ていた。
届いた扇を開いて、あの娘は、ひと晩じゅう考えるであろう。なぜ、これが届いたのか。何がよかったのか、何がいけなかったのか。数え上げて、数え上げたどれもが理由に思えて、どれが本当の理由なのか、一生分からない。
楽師と同じ夜である。
ただ、楽師には、扇は届かなかった。
お読みいただき、ありがとうございました!
皆様にお願いです
ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に
応援していただけますと励みになります! よろしくお願いいたします(^^♪




