第82話 生け垣の向こうに、おりましたの
ロシニョール伯爵夫人の茶会は、秋薔薇の咲く庭に面した広間で開かれた。
ヴィオレッタが通されたのは、窓際の席である。少し離れたところに、伯爵家の三男ティエリが座っている。栗色の髪の、人のよさそうな青年であった。母親の伯爵夫人は、その隣で客を迎えている。
マリアンヌは、壁際に控えている。
◇
アデライドは、早くから来ていた。
淡い水色の衣に、真珠の耳飾り。いつもの角度で笑い、いつもの角度で首を傾けている。隣には、取り巻きのフロランスという令嬢がついていた。
フロランスは、よく喋る。喋るたびに、アデライドの顔を見る。見て、主人の眉が下がるのを確かめてから、もっと喋る。
◇
ノエミが入ってきたのは、茶が一巡したころである。
広間の話し声が、ふっと途切れた。
黄の衣ではない。深い葡萄色の、飾りの少ない衣である。手には、象牙の骨の扇。歩き方が、ゆっくりしている。急がない。誰の顔も探さない。
◇
「まあ」
誰かが、小さく言った。
「あれ、ガルニエの」
「まるで」
その先を、誰も口にしない。口にしなくても、皆が同じ名を思い浮かべている。窓際の席で、その名の持ち主は、黙って茶を飲んでいた。
衣の色を教えた覚えはない。葡萄色は、ヴィオレッタがいちばんよく着る色である。
◇
ノエミは、アデライドの向かいの席に腰を下ろした。
フロランスが、さっそく口を開く。
「まあ、ノエミ様。今日は、ずいぶん地味なお色ですこと。いつもの黄色は、お店に置いていらしたの」
アデライドが、困ったように眉を下げて笑った。いつもの手である。
――言わせておけばいい。笑うのは、皆さま。
◇
ノエミは、答えなかった。
答えずに、フロランスを見る。
にらむのではない。ただ、見ている。まばたきもせず、表情もなく、何を考えているのか外からは何ひとつ読めない顔である。眉は、寄っていない。
◇
フロランスの笑みが、少しずつ固くなっていく。
ひとつ、ふたつ、みっつ。広間のあちこちで、話し声がやむ。皆が、こちらを見ている。フロランスの目が泳ぎ、アデライドのほうへ助けを求めるように動き、それから、膝の上へ落ちた。
先に目を逸らしたのは、フロランスである。
◇
ノエミは、扇を閉じたまま、手のひらに一度だけ打ちつけた。
ぱちり。
湿っていない音であった。理由は、何も言わない。
◇
フロランスは、真っ赤になって黙りこんだ。
アデライドの笑顔が、ほんのわずか、揺れる。隣の娘に言わせて、自分は困ったように笑う。その手が、今日は使えない。言わせた娘が、黙らされてしまったのである。
――なに、この子。先月までは、一緒に笑っていたくせに。
◇
ティエリが、身を乗り出してノエミを見ていた。
――あの子、あんな顔をするんだ。
伯爵夫人も、見ている。扇の陰で、目を細めていた。
――悪くない。商家の娘でも、あれなら、家の中が締まる。
ふたりの内側が、同じほうへ傾いている。
◇
勝っている。
ヴィオレッタは、窓際で茶碗を置いた。
嘘はひとつもついていない。黙って見て、扇を一度鳴らしただけで、あの娘は、もう勝っている。
ここで、立ち上がって帰れば。
◇
ノエミは、立ち上がらない。
かわりに、アデライドのほうを向く。
――いまなら、皆が聞いてる。ひと言で、足りる。
娘の内側が、高く鳴っている。
壁際で、マリアンヌが目を伏せた。伏せたのは、見ていられないからである。何が起こるのかは、侍女には分からない。分からないまま、主人の顔色だけで、何かが起こると分かってしまう。
◇
「アデライド様」
静かな声であった。広間じゅうの耳が、そちらへ向く。
「先週の火曜、こちらのお庭で、ティエリ様に、わたくしのことを悪しざまに仰いましたわね。わたくし、生け垣の向こうにおりましたの」
◇
広間が、しんとする。
アデライドの顔から、血の気が引いた。
――言ってない。火曜は、言ってない。
その内側の声を、ヴィオレッタは聞いていた。
聞いて、扇を開かずにいる。
◇
黙って見ていた女が、ひと言だけ口を開いた。誰も聞き漏らしていない。誰もが、そのひと言を胸の中で噛んでいる。
先週の火曜。こちらのお庭。ティエリ様に。
噛んで、何人かが、同じところで首をかしげた。
「火曜……?」
「ティエリ様は、先週、たしか」
◇
「……火曜、ですか」
ティエリが、戸惑ったように言った。
「先週の火曜なら、僕は、父の領地におりましたよ。月曜から、狩りに出ておりまして。戻ったのは、金曜の晩です」
伯爵夫人が、扇を閉じた。
「ええ。この子は金曜の晩に、狩りの泥をつけたまま帰ってまいりましたわ」
◇
ノエミの顔が、白くなる。
――うそ。だって、庭を歩いてたって。
――誰が、言ってたんだっけ。
誰が言っていたのかは、娘自身も覚えていない。茶会の隅で、誰かが誰かに囁いていた噂のひとつである。
確かめなかった。確かめれば、言えなくなるかもしれない。言えなくなるのが、怖かったのである。
◇
広間の空気が、ゆっくりと裏返っていく。
さっきまで、皆が娘を見ていた。悪くない、という目で。同じ目が、いまも娘を見ている。ただ、目の中身が違う。
「生け垣の向こうに、と仰いましたわね」
伯爵夫人の声は、穏やかである。
「先週の火曜、わたくしの家の庭に、あなたをお招きした覚えはございませんけれど」
◇
広間の隅で、誰かが扇の陰から囁いた。
「嘘を、おつきになったの」
「公爵令嬢の真似をして、嘘を」
真似をしたのは、衣の色と、目と、扇である。嘘だけは、真似ではない。ヴィオレッタは、一度も教えていない。
それを知っているのは、この広間で三人だけである。
◇
ノエミは、何も言えなかった。
理由を言わないこと。黙って見ること。五日かけて覚えた作法が、いまは、娘の口をふさいでいる。言い訳をすれば、作法が崩れる。黙っていれば、嘘だけが残る。
どちらを選んでも、もう勝ちはない。
◇
娘は、扇を握りしめたまま立ち上がる。
立ち上がって、広間を見渡した。誰かひとりでも、目を逸らさずにいてくれる顔を探す目である。
五日前に、誰の顔も探さない歩き方を覚えた娘であった。
窓際で、ヴィオレッタだけが、目を逸らさずにいる。
ノエミは、その目からも目を逸らして、広間を出ていく。
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