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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第19章

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第81話 言うなら、ひと言だけ

「第一条は」


「嘘を、つかないこと」


 五日目の朝、ノエミの答えは、いちばん早かった。


 訊き終わる前に、もう答えている。毎日同じことを訊かれて、毎日同じことを答える。五日目ともなれば、口が先に動く。


 口が先に動く言葉は、内側を通らない。


   ◇


「今日で、終いですわ」


 ヴィオレッタは、茶碗を置いた。


「第五条。言うなら、ひと言だけ」


 ノエミが、扇を膝に置く。


 この数日で、娘の座り方が変わっていた。背筋はもとからまっすぐだったが、いまは、そこに重さがある。軽く首を傾けただけで、部屋の空気が、そちらへ寄っていく。


   ◇


「黙って見て、理由を言わず、扇を一度鳴らす。そこまでやった女が、ひと言だけ口を開けば」


 ヴィオレッタは、娘の目を見た。


「そのひと言は、部屋じゅうの耳に届きますの。誰も聞き漏らしません。誰もが、あとで思い返します。何と言ったのか。本当なのか」


   ◇


「本当なのか、と」


「ええ。黙っていた女のひと言は、皆が、何度も噛みますのよ。噛んで、味を確かめます。ひと言しかないから、隅から隅まで」


 ヴィオレッタは、扇を開いた。


「ですから、そのひと言は、本当のことでなければなりませんわ。噛まれても、噛まれても、同じ味のするものでなければ」


   ◇


「第一条を、覚えておいでかしら」


「嘘を、つかないこと」


 ノエミは、すらすらと答えた。


「覚えております」


 覚えている、というのは、本当である。娘の内側に、ずれはない。


   ◇


 ずれが立ったのは、そのあとである。


   ◇


  ――火曜日。


  ――ティエリ様が、あの女と、伯爵家の庭を歩いていたって。誰かが言ってた。


  ――あの女がそこで、わたくしのことを悪く言った。そういうことにすればいい。ひと言で、足りる。


 ヴィオレッタは、扇を動かさない。


   ◇


 覚えている、と娘は言った。


 覚えていることと、守ることは、別のことである。娘は、そのことを、たぶん自分ではまだ分かっていない。分かっていないまま、第五条だけを、きれいに飲みこんでいる。


 ひと言なら、誰もが聞く。誰もが聞くなら、ひと言で落とせる。


 その先の、誰もが噛む、を、この娘は飲みこまなかった。


   ◇


「ヴィオレッタ様」


 ノエミが、扇を胸に当てた。


「ひとつ、お訊きしてもよろしゅうございますか。授業のことではないのですけれど」


「どうぞ」


「ヴィオレッタ様は、嘘をおつきになったことが、一度も、ございませんの」


   ◇


 マリアンヌが、茶を注ぐ手を止めた。


 ヴィオレッタは、扇を閉じない。娘の顔を、そのまま見ている。


 六つの年の、死の床がある。よくなりますわ、と言った口がある。その口で、いまもこうして話している。


「それは、授業料に入っておりませんわ」


   ◇


 ノエミは、それ以上訊かなかった。


 訊かずに、少しだけ目を細める。


  ――答えない。第二条。


  ――答えないってことは、あるんだ。ヴィオレッタ様にも、一度くらいは。


  ――一度くらいなら、悪女の作法のうち。


   ◇


 ヴィオレッタは、自分で教えた第二条が、娘の内側で、ひとつの穴を埋めていくのを見ていた。


 理由を言わなければ、相手は自分と戦うしかない。戦って、どれかを理由に決める。決めた理由が本当かどうかは、もう誰にも確かめられない。


 この娘は、いちばん自分に都合のよい理由を選んだ。


   ◇


 選ばせたのは、ヴィオレッタの沈黙である。


 それでも、答えるつもりはなかった。答えれば、あの日の口が、もう一度開く。開いた口から出たものは、この娘の茶会の道具になる。


 ヴィオレッタは、扇を一度だけ揺らした。


   ◇


「来週、ロシニョール伯爵夫人の茶会がございます」


 ノエミが、話を戻した。


「ティエリ様も、アデライド様もおいでになります。……見ていて、くださいますか」


「招かれておりますもの。参りますわ」


   ◇


「何色を、着てまいりましょう」


「お好きになさい」


「黄色は、やめようと思いますの。成り上がりは、色の選び方で分かりますもの」


 娘は、笑わずに言った。


 自分を笑った言葉を、自分の口で言い直している。言い直して、もう痛くない顔をしている。


 ヴィオレッタは、何色がよいとも言わなかった。授業料に、衣の色は入っていない。


   ◇


 ノエミは立ち上がり、深く膝を折った。


 五日前より、ずっと深い礼である。


「五日間、ありがとうございました。第一条から第五条まで、全部、覚えました」


「存じておりますわ」


 覚えたことは、本当である。


   ◇


 娘が帰ったあと、マリアンヌが、長椅子の脇に立った。


「お嬢様。あの方に、何か、申し上げなくてよろしいのですか」


「申し上げましたわ。五日のあいだ、毎日」


「ですが」


   ◇


「第一条は、一日目に教えましたの。二日目からは、毎朝、お訊きしましたわ」


 ヴィオレッタは、窓の外を見た。


「毎朝、正しくお答えになりましたのよ。今朝は、いちばんお早かった」


   ◇


 マリアンヌは、盆を胸に抱えたまま黙った。


 黙って、主人の横顔を見る。見て、それから、思い切ったように口を開いた。


「お嬢様は、あの方に、嘘をつかせたいのでございますか」


「いいえ」


「では、なぜ」


   ◇


「つかせたくないから、毎朝お訊きしましたの」


 ヴィオレッタは、扇を閉じた。


「それで足りないのでしたら、わたくしが何を申しても、足りませんわ。嘘をつく口を、人の口でふさぐことはできませんもの」


   ◇


 ガルニエ商会の馬車が、今日も門を出ていく。


 窓の中の娘は、振り返らない。膝の上の扇を、一度だけ、ぱちりと鳴らしたように見えた。


 決めた、という音である。


「授業料は、前払いでいただいておりますわ」


 ヴィオレッタは、それだけ言った。



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