第81話 言うなら、ひと言だけ
「第一条は」
「嘘を、つかないこと」
五日目の朝、ノエミの答えは、いちばん早かった。
訊き終わる前に、もう答えている。毎日同じことを訊かれて、毎日同じことを答える。五日目ともなれば、口が先に動く。
口が先に動く言葉は、内側を通らない。
◇
「今日で、終いですわ」
ヴィオレッタは、茶碗を置いた。
「第五条。言うなら、ひと言だけ」
ノエミが、扇を膝に置く。
この数日で、娘の座り方が変わっていた。背筋はもとからまっすぐだったが、いまは、そこに重さがある。軽く首を傾けただけで、部屋の空気が、そちらへ寄っていく。
◇
「黙って見て、理由を言わず、扇を一度鳴らす。そこまでやった女が、ひと言だけ口を開けば」
ヴィオレッタは、娘の目を見た。
「そのひと言は、部屋じゅうの耳に届きますの。誰も聞き漏らしません。誰もが、あとで思い返します。何と言ったのか。本当なのか」
◇
「本当なのか、と」
「ええ。黙っていた女のひと言は、皆が、何度も噛みますのよ。噛んで、味を確かめます。ひと言しかないから、隅から隅まで」
ヴィオレッタは、扇を開いた。
「ですから、そのひと言は、本当のことでなければなりませんわ。噛まれても、噛まれても、同じ味のするものでなければ」
◇
「第一条を、覚えておいでかしら」
「嘘を、つかないこと」
ノエミは、すらすらと答えた。
「覚えております」
覚えている、というのは、本当である。娘の内側に、ずれはない。
◇
ずれが立ったのは、そのあとである。
◇
――火曜日。
――ティエリ様が、あの女と、伯爵家の庭を歩いていたって。誰かが言ってた。
――あの女がそこで、わたくしのことを悪く言った。そういうことにすればいい。ひと言で、足りる。
ヴィオレッタは、扇を動かさない。
◇
覚えている、と娘は言った。
覚えていることと、守ることは、別のことである。娘は、そのことを、たぶん自分ではまだ分かっていない。分かっていないまま、第五条だけを、きれいに飲みこんでいる。
ひと言なら、誰もが聞く。誰もが聞くなら、ひと言で落とせる。
その先の、誰もが噛む、を、この娘は飲みこまなかった。
◇
「ヴィオレッタ様」
ノエミが、扇を胸に当てた。
「ひとつ、お訊きしてもよろしゅうございますか。授業のことではないのですけれど」
「どうぞ」
「ヴィオレッタ様は、嘘をおつきになったことが、一度も、ございませんの」
◇
マリアンヌが、茶を注ぐ手を止めた。
ヴィオレッタは、扇を閉じない。娘の顔を、そのまま見ている。
六つの年の、死の床がある。よくなりますわ、と言った口がある。その口で、いまもこうして話している。
「それは、授業料に入っておりませんわ」
◇
ノエミは、それ以上訊かなかった。
訊かずに、少しだけ目を細める。
――答えない。第二条。
――答えないってことは、あるんだ。ヴィオレッタ様にも、一度くらいは。
――一度くらいなら、悪女の作法のうち。
◇
ヴィオレッタは、自分で教えた第二条が、娘の内側で、ひとつの穴を埋めていくのを見ていた。
理由を言わなければ、相手は自分と戦うしかない。戦って、どれかを理由に決める。決めた理由が本当かどうかは、もう誰にも確かめられない。
この娘は、いちばん自分に都合のよい理由を選んだ。
◇
選ばせたのは、ヴィオレッタの沈黙である。
それでも、答えるつもりはなかった。答えれば、あの日の口が、もう一度開く。開いた口から出たものは、この娘の茶会の道具になる。
ヴィオレッタは、扇を一度だけ揺らした。
◇
「来週、ロシニョール伯爵夫人の茶会がございます」
ノエミが、話を戻した。
「ティエリ様も、アデライド様もおいでになります。……見ていて、くださいますか」
「招かれておりますもの。参りますわ」
◇
「何色を、着てまいりましょう」
「お好きになさい」
「黄色は、やめようと思いますの。成り上がりは、色の選び方で分かりますもの」
娘は、笑わずに言った。
自分を笑った言葉を、自分の口で言い直している。言い直して、もう痛くない顔をしている。
ヴィオレッタは、何色がよいとも言わなかった。授業料に、衣の色は入っていない。
◇
ノエミは立ち上がり、深く膝を折った。
五日前より、ずっと深い礼である。
「五日間、ありがとうございました。第一条から第五条まで、全部、覚えました」
「存じておりますわ」
覚えたことは、本当である。
◇
娘が帰ったあと、マリアンヌが、長椅子の脇に立った。
「お嬢様。あの方に、何か、申し上げなくてよろしいのですか」
「申し上げましたわ。五日のあいだ、毎日」
「ですが」
◇
「第一条は、一日目に教えましたの。二日目からは、毎朝、お訊きしましたわ」
ヴィオレッタは、窓の外を見た。
「毎朝、正しくお答えになりましたのよ。今朝は、いちばんお早かった」
◇
マリアンヌは、盆を胸に抱えたまま黙った。
黙って、主人の横顔を見る。見て、それから、思い切ったように口を開いた。
「お嬢様は、あの方に、嘘をつかせたいのでございますか」
「いいえ」
「では、なぜ」
◇
「つかせたくないから、毎朝お訊きしましたの」
ヴィオレッタは、扇を閉じた。
「それで足りないのでしたら、わたくしが何を申しても、足りませんわ。嘘をつく口を、人の口でふさぐことはできませんもの」
◇
ガルニエ商会の馬車が、今日も門を出ていく。
窓の中の娘は、振り返らない。膝の上の扇を、一度だけ、ぱちりと鳴らしたように見えた。
決めた、という音である。
「授業料は、前払いでいただいておりますわ」
ヴィオレッタは、それだけ言った。
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