第80話 黙って、見るのですわ
「第一条は」
「嘘を、つかないこと」
「宿題は」
「切りました」
ノエミは、腰を下ろすより先に答えた。
◇
昨日の夕方、帽子屋のロールが、いつものように絹の端切れを分けてもらいに来たのだという。ノエミは、店の奥から出ていかない。番頭に、今日からは定価でお売りなさい、とだけ言わせた。
ロールは、店先で長いこと立っていたらしい。
今朝になって、手紙が届いている。何か気に障ることをしたのなら謝りたい、と三枚にわたって書いてあった。
「お返事は」
「出しておりません」
◇
どうなったかだけを話せ、と言ってある。ノエミは、そのとおりに話した。どう思ったかは、ひと言も言わない。
言わない内側が、こちらには見えていた。
――三枚も書いてきた。茶会のことは、一行も書いてなかった。覚えてもいないんだわ。
――覚えていないなら、ずっと分からない。ずっと。
すり減った怒りのあとに出た芽が、ひと晩で、少し伸びている。
◇
「よろしいわ」
ヴィオレッタは、それだけ言った。
褒めもしない。咎めもしない。切るに足るかどうかは、この娘が決めたことである。
ノエミは、少しだけ物足りなさそうな顔になる。褒められると思っていた顔であった。
◇
三日目は、目の授業である。
相手役は、マリアンヌがつとめた。応接間の真ん中に立たされた侍女の前に、ノエミが立つ。
「黙って、見るのですわ」
ヴィオレッタは、長椅子から言った。
「第三条。人前では、言葉より先に、黙って見ること。にらむのではなく、見るの。相手が目を逸らすまで」
◇
はじめのうち、ノエミは三つ数えるあいだも保たなかった。
まばたきをする。目が泳ぐ。口の端が、こらえきれずに上がる。マリアンヌのほうが先に吹き出しそうになり、ふたりそろって下を向いた。
「やり直しですわ」
◇
「にらんでおりますわよ」
「見ております」
「眉が、寄っておりますの。寄った眉は、怒っていると申しているのと同じですわ。申したら、相手は、怒りと戦えます」
ノエミは、眉を指で押し広げた。
「第二条と、同じでございますね」
「同じですわ。目で理由を言ってはいけませんの」
◇
十度目あたりで、娘の目つきが変わった。
まばたきが止まる。顔から、表情が抜けていく。ただ、見ている。何を考えているのか、外からは何ひとつ読めない顔である。
マリアンヌが、先に目を逸らした。
◇
「……お嬢様」
侍女が、小声で言う。
「この方、お嬢様より、怖うございます」
ヴィオレッタは、答えなかった。
答えるまでもない。教えてまだ三日目の娘に、王都でいちばん悪名の高い女の目が、もう半分ほど移っている。
◇
ただ、外から読めない顔の内側は、ヴィオレッタには読めた。
――マリアンヌさんが逸らした。勝った。
――アデライド様なら、何数えで逸らすかしら。
読めない顔の下で、娘は数を数えている。相手が目を逸らすまでの数を。
◇
四日目は、扇である。
「第一条は」
「嘘を、つかないこと」
ノエミは、父親の店から、象牙の骨に絹を張った扇を持ってきた。王都でいちばん高い扇だという。開けば、南の海の鳥が描いてある。
「父が、縁談の支度ならと、出してくれましたの」
――縁談の支度。本当のこと。
昨日と同じ声が、昨日より少しだけ慣れた調子で立った。
◇
「第四条。鳴らすのは、一度だけですわ」
ヴィオレッタは、閉じた扇を、手のひらに打ちつけた。
ぱちり、と乾いた音が立つ。
「二度鳴らせば、癇癪ですの。一度なら、決めたということ。三度鳴らす方は、ただの子どもですわ」
◇
ノエミが、真似をする。
ぱちん。
「湿っておりますわ」
「湿って」
「迷った音ですの。打つ前に、打ってよいか考えておいでだから。考えるのは、打つ前に済ませておきなさい」
◇
ノエミは、扇を握り直した。
目を閉じる。開く。開いたときには、もう顔から表情が抜けている。昨日覚えた顔である。その顔のまま、手のひらに打ちつけた。
ぱちり。
悪くない音であった。
◇
「……ヴィオレッタ様は、いつ、お覚えになりましたの」
扇を膝に置いて、ノエミが訊いた。
「この作法を、どなたに教わりましたの」
「どなたにも」
ヴィオレッタは、自分の扇を開いた。
「わたくしは、嘘をつきませんの。つかない者が、人の前で黙らずにいようとしたら、こうなりましたのよ」
◇
ノエミは、少し考える顔をした。
――つかない、って決めてるだけ。決めてるなら、わたくしにもできる。
――決めたことなら、一度くらいは。
ヴィオレッタは、扇の陰で目を伏せた。
一度くらい、の重さを、この娘はまだ知らない。
◇
娘が帰ったあと、マリアンヌが、扇の鳴らし方を真似していた。
ぱちん、と湿った音がする。
「迷った音ですわね」
「……迷ってはおりません。お嬢様に聞かれるのが、恥ずかしいだけでございます」
「それを、迷うと申しますの」
マリアンヌは、扇をそっと卓に戻した。
戻してから、口を開く。
「あの方、四日で、ここまでお出来になるのですね」
「ええ」
「あと一日で、何をお教えになりますの」
◇
「いちばん、易しいことですわ」
ヴィオレッタは、窓の外に目をやった。
ガルニエ商会の馬車が、門を出ていく。窓の中の娘は、もう振り返らない。膝の上で、扇を、一度だけ鳴らしたように見えた。
「易しいことほど、守るのは難しいのですけれど」
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