第79話 理由は、仰らないこと
「第一条は」
「嘘を、つかないこと」
ノエミは、応接間に入るなり答えた。帽子も取らないうちである。答えてから、取った。
「よろしいわ。そこへお掛けなさい。今日は、見ているだけでよろしいの」
◇
二日目の授業は、楽師の支払いから始まった。
先週の茶会で琴を弾いた男が、礼金を受け取りに来ている。若い、愛想のよい楽師で、王都の夫人がたのあいだでは評判がよい。応接間の隅にノエミが座り、黙ってこちらを見ていた。
◇
「先日は、ご苦労さまでございました」
ヴィオレッタは、約束どおりの礼金を卓に置いた。
一枚も多くなく、一枚も少なくない。楽師は、うやうやしく袋を受け取り、次の茶会の話をしかけた。
「冬の茶会でしたら、新しい曲を」
「ベルナール。お見送りを」
◇
楽師の顔が、ほんの一瞬、固まる。
固まって、すぐに笑顔に戻る。戻した笑顔のまま、執事に送られて出ていった。
扉が閉まってから、ヴィオレッタはベルナールに言い置く。
「あの楽師は、もう呼びませんわ」
◇
理由は、言わない。
先週の茶会で、あの男は一度だけ、弦の音を外している。外したことに気づくと、客の誰も気づいていないのを確かめるように、目を走らせた。
――誰も聞いていない。よし。
その目と、その声が、気にくわなかったのである。音を外すのは構わない。外したのを、なかったことにする手つきが気にくわない。
ベルナールは、理由を訊かなかった。訊かぬほうが早いことを、この執事は心得ている。
◇
「……理由を、仰らないのですね」
ノエミが、隅の椅子から言った。
「第二条ですわ。理由は、仰らないこと」
ヴィオレッタは、扇を開いた。
「理由を言えば、相手は理由と戦えますの。音を外したのは一度だけです、とか。誰も気づいておりませんでした、とか。言わなければ、相手は、自分と戦うしかございません。何がいけなかったのか、ひと晩じゅう」
◇
ノエミは、閉じた扉を見ていた。
あの楽師は、今夜、眠れないであろう。何が悪かったのかを数え上げて、数え上げたどれもが理由に思えて、どれが本当の理由なのか、一生分からない。
娘の内側に、小さな震えが立つ。怖れではない。感心している色である。
――言わないって、こんなに強いんだ。
◇
「ですが、ヴィオレッタ様」
ノエミは、少し考えてから訊いた。
「理由を言わないのは、嘘には、なりませんの」
「なりませんわ」
ヴィオレッタは、扇を一度だけ揺らした。
「嘘は、ないものを言うことですの。言わないのは、あるものを、しまっておくこと。しまったものは、なくなりませんわ。いつでも出せます。出せと言われて、出せないものを言うのが、嘘ですの」
◇
ノエミは、しばらく黙っていた。
黙っている間に、娘の内側で何かが組み替わっていく。組み替わったものが、すぐに言葉になった。
――しまっておけば、嘘じゃない。
半分だけ、正しい。
ヴィオレッタは、残りの半分を言わなかった。言わずにおくのが、今日の授業である。
◇
「宿題を、お出ししますわ」
「宿題」
「あなたのまわりで、ひとり、理由を言わずにお切りなさい。誰でもよろしいの。ただし、切るに足る方を」
ノエミの目が、すぐに動いた。
探す目ではない。もう決まっている目である。
◇
「ロールという子がおります」
娘は、ためらわずに言った。
「帽子屋の娘で、わたくしとは小さいころからの付き合いでございます。うちの店の絹を、いつも安く分けてやっておりました」
「その方が」
「デュボワ伯爵夫人の茶会で、いちばん大きな声で笑っておりました。成り上がりは、色の選び方で分かりますわね、のあとで」
◇
ノエミの内側は、静かであった。
怒っている色ではない。もう何度も思い返して、怒りがすり減ったあとの色である。すり減ったところに、別のものが芽を出しかけていた。
――言わずに切ったら、あの子、どんな顔をするかしら。
ヴィオレッタは、その芽を見た。見て、摘まずにおく。
◇
「切るに足るかどうかは、あなたがお決めなさい」
「足ります」
「では、明日、どうなったかだけお聞かせなさい。どう思ったかは、要りませんわ」
ノエミは、深く膝を折った。
扉のところで、もう一度振り返る。
「第一条は、嘘をつかないこと。第二条は、理由は言わないこと」
「よろしいわ」
◇
娘が帰ったあと、マリアンヌが茶器を下げに来た。
盆を持ったまま、しばらく扉のほうを見ている。
「お嬢様。あの方、楽しそうでございましたね」
「楽しそうでしたわね」
「宿題を出されて、あんなに嬉しそうな顔をなさる方を、私、はじめて見ました」
◇
「わたくしも、はじめて出しましたわ」
ヴィオレッタは、窓の外を見た。
門のところで、ガルニエ商会の馬車が、楽師とすれ違っている。楽師は、まだ屋敷の前で立ち止まっていた。琴の包みを抱えたまま、門の内側を振り返っている。
何がいけなかったのかを、もう数えはじめている顔である。
◇
ベルナールが、楽師の代わりを探す書付を持ってきた。
「冬の茶会の琴でございますが、ほかに三人ほど」
「いちばん下手な方をお呼びなさい」
「……下手な方を、でございますか」
「下手な方は、外しても、目を走らせませんもの。外すのに慣れておいでですから」
執事は、何も言わずに、書付の上の名前を二つ消した。
残ったのは、いちばん下に書いてあった名前である。
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