第78話 授業料は、前払いでございますわ
その娘は、金貨の袋を卓に置いてから、名乗った。
「ノエミ・ガルニエと申します。ガルニエ商会の、ひとり娘でございます」
ガルニエ商会は、南の港から絹を運んでくる店である。十年ほど前に王都へ出てきて、いまでは大通りに店を三つ構えている。父親は、去年、男爵の位を金で買った。
◇
娘は、十七だという。
仕立てのよい淡い黄の衣を着て、背筋をまっすぐに伸ばしていた。目が、よく動く。応接間の調度を、ひとつずつ値踏みしている目である。絹商の娘らしく、窓掛けの織りにだけは、少し長く目が留まった。
――南の糸。三十年は前のもの。いまは、もう織れる者がいない。
値踏みの声まで、正直である。
◇
「ヴィオレッタ様に、お願いがございまして」
ノエミは、ひと息に言った。
「悪女の作法を、教えていただきたいのです」
◇
マリアンヌが、茶器を取り落としかけた。
ヴィオレッタは、扇を開かない。娘の顔を、そのまま見ている。
「どなたを、お落としになりたいの」
「ヴィルヌーヴ子爵家の、アデライド様でございます」
ノエミは、少しも悪びれない。人を落としたいと口にするとき、貴族の娘なら、まず扇で口もとを隠す。この娘は、隠さない。扇を持っていないのである。
◇
話は、すぐに分かった。
ロシニョール伯爵家の三男、ティエリに、縁談が二つ来ている。ひとつは、古い子爵家の娘アデライド。もうひとつは、金のある商家の娘ノエミ。伯爵家は、金のほうに傾きかけていて、それをアデライドが、茶会のたびにそっと押し戻しているのだという。
押し戻し方は、笑顔である。
◇
アデライドなら、ヴィオレッタも茶会で何度か見かけている。
誰にでも同じ角度で笑い、誰の悪口も、自分の口からは言わない娘であった。言うときは、隣の者に言わせる。言わせておいて、自分は困ったように眉を下げてみせる。
笑顔の下の色は、いつ見ても、薄く濁っている。濁ったまま、表には一滴も滲ませない。
王都の茶会では、ああいう娘がいちばん長生きをする。
◇
「あの方、わたくしの前では、にこにこしておいでです」
ノエミの声が、硬くなる。
「先月の、デュボワ伯爵夫人の茶会でございました。わたくし、黄色の衣で参りましたの。うちの店でいちばんよい、南の黄でございます」
娘は、自分の膝の上の黄を、指でつまんだ。
「アデライド様のお隣の方が、仰いましたわ。成り上がりは、色の選び方で分かりますわね、と。あの方は、困ったように笑っただけ。何も仰らないの。仰らないまま、皆さまが笑うのを待っておいででした」
◇
「皆さまは、お笑いになって」
「お笑いになりました」
ノエミは、まばたきをしない。
「わたくしも、笑いました。笑うほかに、どうしてよいか分からなくて」
◇
娘の内側は、まっすぐであった。
――負けたくない。あんな、笑うだけの女に。
――公爵令嬢は、誰にも笑われない。誰も、あの人の前では笑わない。
ずれは、ほとんどない。思ったとおりのことを、そのまま口にしている。貴族の娘には、まずいない型である。
◇
「わたくしが悪女だと、どなたにお聞きになったの」
「王都じゅうが、そう申しております」
「そう」
ヴィオレッタは、卓の上の袋を見た。
ずっしりと重そうな袋で、口の紐が、きつく結んである。
◇
悪女と呼ばれて、久しい。
陰で言われ、面と向かって言われ、ときには詩にまでされた。けれども、その呼び名に金を払いに来た者は、この娘がはじめてである。
悪くない、とヴィオレッタは思った。
◇
「ベルナール」
扉の脇に控えていた執事が、音もなく進み出る。
袋を手に取り、重さを手のひらで確かめる。紐をほどいて中をのぞき、また結ぶ。その間、ほんのひと呼吸。
「よい金貨でございます。縁を削ったものも、ございません」
金の話になると、この執事は誰より早い。
◇
「お父上の、お金かしら」
ヴィオレッタが訊くと、ノエミは首を振った。
「わたくしの、持参金の前渡しでございます。父に、ねだりました。縁談の支度に要るのだと申して」
嘘ではない。娘の内側も、同じことを言っている。
――縁談の支度。本当のこと。何に使うか、言わなかっただけ。
言わなかっただけ、を、この娘はもう知っている。
◇
「お引き受けいたしますわ」
ヴィオレッタは、ようやく扇を開いた。
「ただし、授業料は、前払いでございますわ。お返しはいたしません。途中でおやめになっても、うまくいかなくても」
「かまいません」
ノエミは、まばたきひとつしない。
◇
ベルナールが、袋を持って下がっていく。
足取りが、いつもより少しだけ軽い。金庫に落ちる金貨の音を、この執事はたぶん、礼拝堂の鐘の音より好んでいる。
マリアンヌは、その背中を見送ってから、主人のほうへ目を戻した。何か言いたい顔をしている。言わずに、茶を注ぎ直した。
◇
「では、最初の決まりを申しますわ」
ノエミが、膝の上で手を組む。
書きつけるものは、何も出さない。頭で覚える気で来た娘の顔である。
「第一条。嘘を、つかないこと」
◇
「……嘘を、でございますか」
娘の顔が、きょとんとする。
「悪女の、作法で」
「悪女の、作法で」
◇
「ですが」
ノエミは、身を乗り出した。
「嘘をつかずに、どうやって人を落とすのです。あの方は、わたくしのことを悪く言います。わたくしも、あの方のことを悪く言わなければ」
「悪く言うのに、嘘は要りませんわ」
ヴィオレッタは、茶碗を取り上げる。
◇
「本当のことで足りないのでしたら、あなたは、落とすべきでない方を落とそうとしておいでなのよ。本当のことで足りるのでしたら、嘘は、足を引っぱるだけですわ」
ノエミが、黙る。
黙って、その言葉を、頭のどこかへしまいこむ顔になった。
◇
「嘘は、強すぎますの。強すぎるものは、使った者のほうへ跳ね返ります」
ヴィオレッタは、それだけ付け足した。
自分がたった一度の嘘を抱えて生きていることまでは、この娘に教えるつもりはない。授業料に、そこまでは入っていない。
◇
「……覚えました」
ノエミが、うなずく。
「第一条。嘘をつかないこと」
「よろしいわ。明日から、毎日、はじめにお訊きしますわよ。第一条は、と」
「毎日、でございますか」
「毎日、ですわ。続きは、明日」
◇
ノエミは立ち上がり、深く膝を折った。
扉のところで、娘の内側が、小さく立つ。
――第一条。……でも、ひとつくらいなら。
◇
娘が帰ったあと、マリアンヌが茶器を片づけながら、ようやく口を開いた。
「お嬢様。本当に、お教えになるのですか」
「お金を、いただきましたもの」
「ですが、あの方は」
◇
「アデライドが落ちようと、ノエミが落ちようと、わたくしの知ったことではございませんわ」
ヴィオレッタは、窓の外を見た。
ガルニエ商会の馬車が、門を出ていく。黄の衣の娘が、窓から一度だけ、こちらを振り返る。
◇
ヴィオレッタは、扇を閉じた。
扉のところで聞いた声を、思い出している。ひとつくらいなら、と娘は思った。ほかは全部守って、ひとつだけ。
前払いにしておいて、よかったのである。
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