第77話 石は、動きませんの
検分の朝は、よく晴れた。
川沿いの細い畑の並びに、人が集まっている。マルトがいる。ペランの後家がいる。その隣の家の者たちも、泥のついた前掛けのまま、少し離れて立っていた。オーバンは、粉挽き場の若い者を二人連れている。
◇
検分役のルフェーヴルは、杖をついた痩せた老人であった。
区の境の争いを、三十年さばいてきた男だという。杖の先で泥を突きながら、石の並びをひととおり眺め、それから皆のほうを向く。
「川沿いの境は、石で決まる。昔からの決まりだ」
◇
「石がここにあった、あそこにあった、という覚えは、聞かぬ」
老人の声は、乾いている。
「覚えは、人によって違う。違う覚えを並べても、境は決まらん。石のあるとおりに決める。異はあるか」
ペランの後家が、何か言いかけた。
言いかけて、口を閉じる。
◇
「ございません」
オーバンが、帽子を胸に当てた。
「水の晩に動いたものは、仕方がございません。わたしも、望んでこうなったわけでは」
――決まった。
男の内側が、ゆるんでいる。
◇
「わたくし、少し歩きますわ」
ヴィオレッタは、誰にともなく言った。
ジルベールが、日傘を差しかける。洗ってきたらしい手が、柄を握りかねて、何度も持ち直していた。マリアンヌは、マルトのそばに残っている。
石の並びに沿って、ゆっくりと歩きだす。
◇
ひとつ目の石を、通り過ぎる。
ふたつ目の石の前で、ヴィオレッタは足を止めた。閉じた扇の先で、石の頭を、こつん、と叩く。
それから、また歩く。
◇
オーバンが、こちらを見ていた。
――なんだ。
次の石も、その次の石も、通り過ぎる。その次で、また立ち止まって、扇で叩いた。
――なんで、そこで止まる。
ペランの後家の畑の石でも、止まる。叩く。
――おい。
◇
ジルベールは、日傘を差しかけたまま、主人の後ろについて歩いている。
主人が止まるたびに、庭師も止まる。止まって、することがないので、足もとの石を見る。庭師というのは、目の前に草や石があれば、つい見てしまう者らしい。
◇
ヴィオレッタは、マルトの小屋の前まで来た。
戸口の前の石の横に立ち、扇で叩く。
そのまま、動かない。
◇
日傘の影が、石の上に落ちていた。
影が、ちょうど石の北の面を覆っている。ジルベールは、影の外に出た南の面を見ていた。見て、首をかしげる。日傘を少し傾けて、石の正面をのぞきこむ。それから石の裏へ回り、また正面へ戻ってくる。
「……お嬢様」
「何ですの」
「この石、向きが、あべこべでございます」
◇
ルフェーヴルが、杖を止めた。
「庭師。何と言った」
ジルベールは、言ってしまってから帽子を脱いだ。脱いだ帽子を両手でもみくちゃにしている。それでも、口は閉じなかった。
「苔でございます。苔は、日の当たらない北の側に生えます。公爵家の塀も、北の側だけが青くなります」
◇
庭師は、戸口の前の石の、日の当たる面を指さした。
「この石は、南の側が青うございます。川のほうを向いた側が」
ルフェーヴルが、杖をついて歩み寄る。
石の南の面に、薄い緑の苔が、べったりと貼りついていた。朝の日を、まともに浴びている。
◇
公爵令嬢が石の向きを言い立てれば、公爵家が区の境に口を出したことになる。庭師が言えば、庭師の目である。
検分役は、覚えは聞かぬと言った。
目なら、聞く。
◇
「ほかの石は」
ジルベールは、来た道を振り返った。
「お嬢様がお叩きになった石は、あれが南、あれが東でございます。お叩きにならなかった石は、みんな北で」
そこで、庭師の指が止まった。
「……ペランさんとこの石だけは、北でございます」
◇
ルフェーヴルは、黙って石の並びを歩いた。
杖の先で石を一つずつ突き、苔の側をのぞきこむ。北。南。北。北。東。北。
叩かれた石で、苔が北を向いていないものは、どれも、オーバンの土地を広げるほうへ寄っていた。
叩かれて、北を向いている石が、一本だけある。
◇
「ほれ、北だ」
オーバンの声が、少しだけ高くなる。
「そこの石は、ちゃんと北を向いております。ほかのも、水が回したのでございます。軒まで来た水だ。石の一本くらい、回りもいたしましょう」
◇
「回りません」
ジルベールが、首を振った。
「水で倒れた石は、寝ます。立ったまま、くるりと回る石はございません。それに」
庭師は、荷車から鋤を下ろした。
戸口の前の石の根元に、鋤の先を入れる。
「旦那様。ご覧ください」
◇
鋤が、土をすくい上げた。
上のほうに、黒い川の泥が、指一本ほどの厚みでかぶっている。そこまでは、畑のどこを掘っても同じである。
ところが、石の根元だけ、泥の層が切れていた。切れたところに、茶色い畑の土が詰まっている。
◇
「石の根元を、泥の上から掘ってございます」
ジルベールが言った。
「泥は、水が引いてから積もったものです。その泥を掘って、石を埋めてある。水が引いたあとで、誰かが立てた石でございます」
水の晩に、とオーバンは言った。
水の晩なら、泥は石の上からかぶる。石の根元で切れることはない。
◇
「ペランの後家の石も、掘れ」
ルフェーヴルが言った。
ジルベールが、北を向いた石の根元に鋤を入れる。
黒い泥が、そこでも切れていた。
「苔は、向きを間違えることもある」
老人は、鋤の上の土を杖でつついた。
「泥は、間違えん」
◇
それから、ルフェーヴルは杖を持って、ペランの後家の畑の向こうの端へ歩いていく。後家が、ここにあったと言った場所である。老人は、杖の先を泥に突き立てた。
杖が、ずぶりと沈む。
まわりの泥の、倍ほども深く。
◇
「掘った穴を、埋め戻した跡だ」
老人は、杖を引き抜く。
それから、ペランの後家のほうを向いた。
「婆さん。覚えは聞かぬと言ったがな。あんたの覚えは、石と同じことを言っておる」
老婆が、泥の上に、へたりこんだ。
◇
オーバンの内側は、もう声になっていない。
ただ、白い。粉挽き場の粉をかぶったような色が、男の内側いっぱいに広がっている。
白いなかに、ひとつだけ、言葉の切れ端が浮いていた。
――夜だった。暗くて、苔なんぞ。
◇
ルフェーヴルが、杖で地面を一度叩いた。
「川沿いの、もうひとつの決まりを申す」
「境の石を動かした者は、石をもとへ戻したうえで、動かした幅だけ、己の土地を隣へ譲る。これも、昔からの決まりだ」
粉挽き場の若い者たちが、顔を見合わせた。
◇
オーバンの土地は、岸に沿った細い帯である。倉を建てるには、もとから幅が足りない。そこから、動かした幅のぶんが、まるごと畑の側へ移る。
帯は、帯でさえなくなる。倉の隅を測った杭は、どれも、畑の持ち主たちの土地に立つことになった。
「……たかが、石ころで」
オーバンが、ヴィオレッタのほうを向いた。
◇
「ええ。石ころですわ」
ヴィオレッタは、扇を開いた。
「石は、動きませんの。動かされなければ。ですから、向きも、いちど据えられたまま変わりませんのよ。何年でも」
扇の陰で、ひとつ付け加える。
「夜のうちに据えた石の向きは、夜のうちには見えませんものね」
◇
男は、何も言わなかった。
粉挽き場の若い者たちが、主人を置いて、先に川上へ帰っていく。
ペランの後家が、泥の上を這うようにして、こちらへ来ようとした。
「お嬢様。なんとお礼を」
「お礼なら、ジルベールにお言いなさい。苔を見たのは、あの者の目ですもの。わたくしは、うちの洗濯女の畑を見に来ただけですわ」
◇
帰りの馬車の前で、ジルベールが日傘を畳む。
「お嬢様」
庭師は、言いにくそうに口ごもった。
「なぜ、お叩きになった石ばかり、動かされていたのでございますか」
◇
ヴィオレッタは、答えない。
かわりに、荷車の桶を見た。黒い泥が、縁まで詰まっている。
「よい泥ですわね」
「……はい。薔薇には、いちばんで」
「では、薔薇にお使いなさい」
ジルベールは、それ以上は訊かなかった。訊いても答えの返らない主人だと、この庭師はもう知っている。
◇
石は、その日の午後のうちに、もとの場所へ戻された。
マルトの戸口の前から石がなくなり、畑の向こうの端に、苔を北へ向けて立て直されたという。立て直したのは、オーバンの粉挽き場の若い者たちである。検分役が、そうさせた。
◇
夕方には、ベルナールが来ている。
「荷船の組合が、水門の手前の岸を借りたいと申しております」
「どなたから」
「畑の持ち主たちから、でございます。荷揚げ場の地代は、豆を作るより、ずっと割がよろしゅうございますので」
執事は、少しだけ言いよどむ。
「マルトの畑にも、地代が入ります。洗濯女の給金より、多いかもしれません。……洗い場を、辞めますでしょうか」
◇
「辞めたければ、辞めればよろしいわ」
ヴィオレッタは、扇を閉じた。
「わたくしが雇ったのは、角を揃える手ですもの。揃える気のない手なら、要りませんわ」
ベルナールは、一礼して下がっていく。
下がる足が、いつもより遅い。洗濯女をもう一人探す算段を、もう始めている足である。
◇
その晩、ヴィオレッタは寝台の足もとに目をやった。
敷布の角は、きちんと揃っている。
指一本ぶんのずれも、糸一本ぶんのずれもない。
ヴィオレッタは、角を一度だけ指でなぞってから、灯りを消した。
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