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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第18章

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第77話 石は、動きませんの



 検分の朝は、よく晴れた。


 川沿いの細い畑の並びに、人が集まっている。マルトがいる。ペランの後家がいる。その隣の家の者たちも、泥のついた前掛けのまま、少し離れて立っていた。オーバンは、粉挽き場の若い者を二人連れている。


   ◇


 検分役のルフェーヴルは、杖をついた痩せた老人であった。


 区の境の争いを、三十年さばいてきた男だという。杖の先で泥を突きながら、石の並びをひととおり眺め、それから皆のほうを向く。


「川沿いの境は、石で決まる。昔からの決まりだ」


   ◇


「石がここにあった、あそこにあった、という覚えは、聞かぬ」


 老人の声は、乾いている。


「覚えは、人によって違う。違う覚えを並べても、境は決まらん。石のあるとおりに決める。異はあるか」


 ペランの後家が、何か言いかけた。


 言いかけて、口を閉じる。


   ◇


「ございません」


 オーバンが、帽子を胸に当てた。


「水の晩に動いたものは、仕方がございません。わたしも、望んでこうなったわけでは」


  ――決まった。


 男の内側が、ゆるんでいる。


   ◇


「わたくし、少し歩きますわ」


 ヴィオレッタは、誰にともなく言った。


 ジルベールが、日傘を差しかける。洗ってきたらしい手が、柄を握りかねて、何度も持ち直していた。マリアンヌは、マルトのそばに残っている。


 石の並びに沿って、ゆっくりと歩きだす。


   ◇


 ひとつ目の石を、通り過ぎる。


 ふたつ目の石の前で、ヴィオレッタは足を止めた。閉じた扇の先で、石の頭を、こつん、と叩く。


 それから、また歩く。


   ◇


 オーバンが、こちらを見ていた。


  ――なんだ。


 次の石も、その次の石も、通り過ぎる。その次で、また立ち止まって、扇で叩いた。


  ――なんで、そこで止まる。


 ペランの後家の畑の石でも、止まる。叩く。


  ――おい。


   ◇


 ジルベールは、日傘を差しかけたまま、主人の後ろについて歩いている。


 主人が止まるたびに、庭師も止まる。止まって、することがないので、足もとの石を見る。庭師というのは、目の前に草や石があれば、つい見てしまう者らしい。


   ◇


 ヴィオレッタは、マルトの小屋の前まで来た。


 戸口の前の石の横に立ち、扇で叩く。


 そのまま、動かない。


   ◇


 日傘の影が、石の上に落ちていた。


 影が、ちょうど石の北の面を覆っている。ジルベールは、影の外に出た南の面を見ていた。見て、首をかしげる。日傘を少し傾けて、石の正面をのぞきこむ。それから石の裏へ回り、また正面へ戻ってくる。


「……お嬢様」


「何ですの」


「この石、向きが、あべこべでございます」


   ◇


 ルフェーヴルが、杖を止めた。


「庭師。何と言った」


 ジルベールは、言ってしまってから帽子を脱いだ。脱いだ帽子を両手でもみくちゃにしている。それでも、口は閉じなかった。


「苔でございます。苔は、日の当たらない北の側に生えます。公爵家の塀も、北の側だけが青くなります」


   ◇


 庭師は、戸口の前の石の、日の当たる面を指さした。


「この石は、南の側が青うございます。川のほうを向いた側が」


 ルフェーヴルが、杖をついて歩み寄る。


 石の南の面に、薄い緑の苔が、べったりと貼りついていた。朝の日を、まともに浴びている。


   ◇


 公爵令嬢が石の向きを言い立てれば、公爵家が区の境に口を出したことになる。庭師が言えば、庭師の目である。


 検分役は、覚えは聞かぬと言った。


 目なら、聞く。


   ◇


「ほかの石は」


 ジルベールは、来た道を振り返った。


「お嬢様がお叩きになった石は、あれが南、あれが東でございます。お叩きにならなかった石は、みんな北で」


 そこで、庭師の指が止まった。


「……ペランさんとこの石だけは、北でございます」


   ◇


 ルフェーヴルは、黙って石の並びを歩いた。


 杖の先で石を一つずつ突き、苔の側をのぞきこむ。北。南。北。北。東。北。


 叩かれた石で、苔が北を向いていないものは、どれも、オーバンの土地を広げるほうへ寄っていた。


 叩かれて、北を向いている石が、一本だけある。


   ◇


「ほれ、北だ」


 オーバンの声が、少しだけ高くなる。


「そこの石は、ちゃんと北を向いております。ほかのも、水が回したのでございます。軒まで来た水だ。石の一本くらい、回りもいたしましょう」


   ◇


「回りません」


 ジルベールが、首を振った。


「水で倒れた石は、寝ます。立ったまま、くるりと回る石はございません。それに」


 庭師は、荷車から鋤を下ろした。


 戸口の前の石の根元に、鋤の先を入れる。


「旦那様。ご覧ください」


   ◇


 鋤が、土をすくい上げた。


 上のほうに、黒い川の泥が、指一本ほどの厚みでかぶっている。そこまでは、畑のどこを掘っても同じである。


 ところが、石の根元だけ、泥の層が切れていた。切れたところに、茶色い畑の土が詰まっている。


   ◇


「石の根元を、泥の上から掘ってございます」


 ジルベールが言った。


「泥は、水が引いてから積もったものです。その泥を掘って、石を埋めてある。水が引いたあとで、誰かが立てた石でございます」


 水の晩に、とオーバンは言った。


 水の晩なら、泥は石の上からかぶる。石の根元で切れることはない。


   ◇


「ペランの後家の石も、掘れ」


 ルフェーヴルが言った。


 ジルベールが、北を向いた石の根元に鋤を入れる。


 黒い泥が、そこでも切れていた。


「苔は、向きを間違えることもある」


 老人は、鋤の上の土を杖でつついた。


「泥は、間違えん」


   ◇


 それから、ルフェーヴルは杖を持って、ペランの後家の畑の向こうの端へ歩いていく。後家が、ここにあったと言った場所である。老人は、杖の先を泥に突き立てた。


 杖が、ずぶりと沈む。


 まわりの泥の、倍ほども深く。


   ◇


「掘った穴を、埋め戻した跡だ」


 老人は、杖を引き抜く。


 それから、ペランの後家のほうを向いた。


「婆さん。覚えは聞かぬと言ったがな。あんたの覚えは、石と同じことを言っておる」


 老婆が、泥の上に、へたりこんだ。


   ◇


 オーバンの内側は、もう声になっていない。


 ただ、白い。粉挽き場の粉をかぶったような色が、男の内側いっぱいに広がっている。


 白いなかに、ひとつだけ、言葉の切れ端が浮いていた。


  ――夜だった。暗くて、苔なんぞ。


   ◇


 ルフェーヴルが、杖で地面を一度叩いた。


「川沿いの、もうひとつの決まりを申す」


「境の石を動かした者は、石をもとへ戻したうえで、動かした幅だけ、己の土地を隣へ譲る。これも、昔からの決まりだ」


 粉挽き場の若い者たちが、顔を見合わせた。


   ◇


 オーバンの土地は、岸に沿った細い帯である。倉を建てるには、もとから幅が足りない。そこから、動かした幅のぶんが、まるごと畑の側へ移る。


 帯は、帯でさえなくなる。倉の隅を測った杭は、どれも、畑の持ち主たちの土地に立つことになった。


「……たかが、石ころで」


 オーバンが、ヴィオレッタのほうを向いた。


   ◇


「ええ。石ころですわ」


 ヴィオレッタは、扇を開いた。


「石は、動きませんの。動かされなければ。ですから、向きも、いちど据えられたまま変わりませんのよ。何年でも」


 扇の陰で、ひとつ付け加える。


「夜のうちに据えた石の向きは、夜のうちには見えませんものね」


   ◇


 男は、何も言わなかった。


 粉挽き場の若い者たちが、主人を置いて、先に川上へ帰っていく。


 ペランの後家が、泥の上を這うようにして、こちらへ来ようとした。


「お嬢様。なんとお礼を」


「お礼なら、ジルベールにお言いなさい。苔を見たのは、あの者の目ですもの。わたくしは、うちの洗濯女の畑を見に来ただけですわ」


   ◇


 帰りの馬車の前で、ジルベールが日傘を畳む。


「お嬢様」


 庭師は、言いにくそうに口ごもった。


「なぜ、お叩きになった石ばかり、動かされていたのでございますか」


   ◇


 ヴィオレッタは、答えない。


 かわりに、荷車の桶を見た。黒い泥が、縁まで詰まっている。


「よい泥ですわね」


「……はい。薔薇には、いちばんで」


「では、薔薇にお使いなさい」


 ジルベールは、それ以上は訊かなかった。訊いても答えの返らない主人だと、この庭師はもう知っている。


   ◇


 石は、その日の午後のうちに、もとの場所へ戻された。


 マルトの戸口の前から石がなくなり、畑の向こうの端に、苔を北へ向けて立て直されたという。立て直したのは、オーバンの粉挽き場の若い者たちである。検分役が、そうさせた。


   ◇


 夕方には、ベルナールが来ている。


「荷船の組合が、水門の手前の岸を借りたいと申しております」


「どなたから」


「畑の持ち主たちから、でございます。荷揚げ場の地代は、豆を作るより、ずっと割がよろしゅうございますので」


 執事は、少しだけ言いよどむ。


「マルトの畑にも、地代が入ります。洗濯女の給金より、多いかもしれません。……洗い場を、辞めますでしょうか」


   ◇


「辞めたければ、辞めればよろしいわ」


 ヴィオレッタは、扇を閉じた。


「わたくしが雇ったのは、角を揃える手ですもの。揃える気のない手なら、要りませんわ」


 ベルナールは、一礼して下がっていく。


 下がる足が、いつもより遅い。洗濯女をもう一人探す算段を、もう始めている足である。


   ◇


 その晩、ヴィオレッタは寝台の足もとに目をやった。


 敷布の角は、きちんと揃っている。


 指一本ぶんのずれも、糸一本ぶんのずれもない。


 ヴィオレッタは、角を一度だけ指でなぞってから、灯りを消した。



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