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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第18章

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第76話 水が、動かしたのでございます

南の水門の手前は、まだ泥の匂いがした。


 家々の壁に、茶色い筋が一本ずつ引かれている。水の来た高さである。筋は、どの家も同じ高さで、軒の少し下を、まっすぐに走っていた。


   ◇


 馬車を降りると、靴が泥に沈んだ。


「お嬢様。お裾が」


「構いませんわ」


 マリアンヌが裾を持ち上げようとするのを、ヴィオレッタは手で払った。払われた手で、侍女は日傘を開いて差しかけてくる。こちらは、払わずにおいた。


 後ろでは、ジルベールが荷車を引いている。鋤と桶を積んで、泥に車輪を取られるたびに、小さく唸っていた。


   ◇


 マルトが、先に立って歩く。


 川沿いに、細い畑が並んでいた。どれも、人がひとり寝そべったほどの幅しかない。畑と畑のあいだに、膝ほどの高さの石が、ぽつりぽつりと立っている。


 どの石も古い。角が丸くなり、片側だけが、うっすらと緑がかっていた。


 畑の向こうに、岸に沿った細い帯がある。その先が、川。帯の上に、真新しい杭が何本も打ってあった。倉の隅を測った杭であろう。


   ◇


「ここが、わたしの家でございます」


 マルトが、小さな小屋の前で立ち止まった。


 戸口のすぐ前に、石が一本、立っている。戸を開ければ、石にぶつかりそうな近さであった。石の向こうには、泥をかぶった畑が、川のほうまで続いている。


「石の、向こうが」


「はい。前は、わたしの畑でございました」


   ◇


 隣の小屋から、腰の曲がった老婆が出てきた。


 ペランの後家である。公爵令嬢を見て、泥の上に膝をつこうとした。マルトが慌てて、その腕を支える。


「お嬢様。石は、ここにあったんでございます」


 老婆は、自分の畑の向こうの端を指さした。


「亭主が生きていたころから、ずっと。わたしが嫁に来たときから、あそこに」


   ◇


 指の先には、泥しかない。


 水が引いたあとの泥が、畑の端までのっぺりとかぶさっている。石の立っていた跡など、どこにも見えない。


「わたしが、ここにあったと申しましても」


 老婆の声が、しぼんでいく。


「旦那は、婆の覚え違いだと」


   ◇


 川上のほうから、男がひとり歩いてきた。


 太った、赤ら顔の男である。上着の肩に、白い粉がうっすらと積もっていた。粉挽き場の粉である。


「これは、公爵家のお嬢様。こんな泥の中へ、ようこそ」


 オーバンは、帽子を取って、深々と頭を下げた。


   ◇


「うちの洗濯女の畑のことで、参りましたの」


 ヴィオレッタは、戸口の前の石を見た。


「この石は、前は、あちらの端にあったそうですわね」


「さあ。わたしには、分かりかねます」


 オーバンは、気の毒そうに首を振った。


「水が、動かしたのでございます」


   ◇


「いつ、動きましたの」


「水の晩に決まっております。あの晩は、水門があふれて、軒まで来ました。石の一本や二本、動いてもおかしくはございません」


 男の内側は、落ち着いている。


  ――水が引いてから、二晩かけた。夜のうちだ。見た者はいない。


  ――水のせいにすれば、誰も違うとは言えない。水に訊くやつはいない。


  ――検分役は、石のあるとおりにしか見ない。


   ◇


 この男は、川沿いの決まりをよく知っている。


 紙がない。読める者もいない。境を決めるのは石だけで、石がどこにあったかを覚えているのは、ここに住む者の頭だけである。頭の中のことは、婆の覚え違いで片がつく。


   ◇


 そこへ、大水が来た。


 石が動いていても、誰も驚かない。水は家の軒まで来たのだ。動いたと言えば、皆がうなずく。水の晩に、と言えば、なおうなずく。


 ヴィオレッタは、水の晩、という言葉だけを覚えておいた。


   ◇


「気の毒なことでございます」


 オーバンは、マルトのほうを向いた。


「なんなら、小屋のほうも、わたしが買い取ってやってもいい。戸口の前に石があっては、住みにくかろう」


  ――小屋ごと取れば、岸の幅がまるごと揃う。荷船の連中が、もう値を訊きに来ている。


 マルトの手が、前掛けを握りしめる。


   ◇


 ヴィオレッタは、何も言わずに歩きだした。


 川沿いの石の並びに沿って、ゆっくりと歩いていく。マリアンヌの日傘が、慌ててついてくる。オーバンが、少し遅れてその後ろ。


 石の前を、ひとつずつ通り過ぎる。


   ◇


 ある石の前で、男の内側が、きゅっと縮んだ。


  ――その石は。


 ヴィオレッタは、足を止めない。


 次の石。何も立たない。その次。何も立たない。その次で、また縮む。


  ――そこも。


   ◇


 通り過ぎるたびに、男の色が締まったり、ゆるんだりする。


 締まるのは、動かした石の前である。ゆるむのは、動かしていない石の前であった。この男は、自分が夜中に抱えて運んだ石を、一本残らず覚えている。


 ペランの後家の畑の石で、いちばん強く締まった。


  ――あれは重かった。腰をやるかと思った。


   ◇


 ヴィオレッタも、覚えた。


 ただし、この目は手口を視ない。どの石が動いたかは分かる。どうやって動かしたか、どう見破れるかは、男の頭の中で言葉になっていない。


 それに、見えたと言ったところで、検分役は聞かない。公爵令嬢の覚えも、婆の覚えも、覚えは覚えである。


   ◇


「お嬢様。何か、お気に召すものが」


 オーバンが、愛想よく訊く。


「いいえ。石を、見ておりましたの」


「石は、石でございますよ」


 男は、笑った。


  ――何も分かるものか。石ころの並びなんぞ。


   ◇


 小屋の前に戻ると、ジルベールが畑の端の泥を、鋤ですくって桶に入れていた。


「お嬢様。いい泥でございます」


 庭師は、鋤の先の泥を指でつまんで見せた。


「川の泥は、細かくて、黒うございます。畑の土とは、色も手ざわりも違います。公爵家の薔薇には、これがいちばんで」


「そう」


   ◇


 オーバンが、帽子をかぶり直した。


「検分は、明後日でございます。検分役のルフェーヴル様が、朝のうちに来られます。お嬢様も、よろしければ」


「参りますわ」


「それはそれは」


 男の内側が、ゆるむ。


  ――公爵令嬢が見ている前で、石のとおりに決まる。それでかえって、文句は出ない。


   ◇


 オーバンが川上へ戻っていったあと、マルトが、ヴィオレッタのそばへ来た。


「お嬢様。……石は、戻りましょうか」


 ヴィオレッタは、答えなかった。


 戻るかどうかは、明後日にならなければ分からない。分からないことを、分かったように言うつもりはない。


   ◇


「マルト」


「はい」


「今夜も、敷布の角は揃いませんわね」


 マルトの顔が、くしゃりと歪む。


「……申し訳、ございません」


「よろしいわ。明後日まで、揃えなくて」


   ◇


 馬車に乗る前に、ヴィオレッタは、もう一度、戸口の前の石を振り返った。


 川のほうを向いた面に、昼の日がまともに当たっている。日を浴びたその面が、ほかの石よりも少しだけ、青く見えた。


「ジルベール」


「はい」


「明後日も、おいでなさい。日傘は、あなたが持つのですわよ」


   ◇


 庭師は、目を丸くした。


「わたしが、でございますか。マリアンヌさんではなく」


「マリアンヌには、マルトの手を握っていてもらいますもの」


 ジルベールは、自分の泥だらけの手を見下ろした。日傘など、一度も持ったことのない手である。


「……洗っておきます」


「そうなさい」

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