第76話 水が、動かしたのでございます
南の水門の手前は、まだ泥の匂いがした。
家々の壁に、茶色い筋が一本ずつ引かれている。水の来た高さである。筋は、どの家も同じ高さで、軒の少し下を、まっすぐに走っていた。
◇
馬車を降りると、靴が泥に沈んだ。
「お嬢様。お裾が」
「構いませんわ」
マリアンヌが裾を持ち上げようとするのを、ヴィオレッタは手で払った。払われた手で、侍女は日傘を開いて差しかけてくる。こちらは、払わずにおいた。
後ろでは、ジルベールが荷車を引いている。鋤と桶を積んで、泥に車輪を取られるたびに、小さく唸っていた。
◇
マルトが、先に立って歩く。
川沿いに、細い畑が並んでいた。どれも、人がひとり寝そべったほどの幅しかない。畑と畑のあいだに、膝ほどの高さの石が、ぽつりぽつりと立っている。
どの石も古い。角が丸くなり、片側だけが、うっすらと緑がかっていた。
畑の向こうに、岸に沿った細い帯がある。その先が、川。帯の上に、真新しい杭が何本も打ってあった。倉の隅を測った杭であろう。
◇
「ここが、わたしの家でございます」
マルトが、小さな小屋の前で立ち止まった。
戸口のすぐ前に、石が一本、立っている。戸を開ければ、石にぶつかりそうな近さであった。石の向こうには、泥をかぶった畑が、川のほうまで続いている。
「石の、向こうが」
「はい。前は、わたしの畑でございました」
◇
隣の小屋から、腰の曲がった老婆が出てきた。
ペランの後家である。公爵令嬢を見て、泥の上に膝をつこうとした。マルトが慌てて、その腕を支える。
「お嬢様。石は、ここにあったんでございます」
老婆は、自分の畑の向こうの端を指さした。
「亭主が生きていたころから、ずっと。わたしが嫁に来たときから、あそこに」
◇
指の先には、泥しかない。
水が引いたあとの泥が、畑の端までのっぺりとかぶさっている。石の立っていた跡など、どこにも見えない。
「わたしが、ここにあったと申しましても」
老婆の声が、しぼんでいく。
「旦那は、婆の覚え違いだと」
◇
川上のほうから、男がひとり歩いてきた。
太った、赤ら顔の男である。上着の肩に、白い粉がうっすらと積もっていた。粉挽き場の粉である。
「これは、公爵家のお嬢様。こんな泥の中へ、ようこそ」
オーバンは、帽子を取って、深々と頭を下げた。
◇
「うちの洗濯女の畑のことで、参りましたの」
ヴィオレッタは、戸口の前の石を見た。
「この石は、前は、あちらの端にあったそうですわね」
「さあ。わたしには、分かりかねます」
オーバンは、気の毒そうに首を振った。
「水が、動かしたのでございます」
◇
「いつ、動きましたの」
「水の晩に決まっております。あの晩は、水門があふれて、軒まで来ました。石の一本や二本、動いてもおかしくはございません」
男の内側は、落ち着いている。
――水が引いてから、二晩かけた。夜のうちだ。見た者はいない。
――水のせいにすれば、誰も違うとは言えない。水に訊くやつはいない。
――検分役は、石のあるとおりにしか見ない。
◇
この男は、川沿いの決まりをよく知っている。
紙がない。読める者もいない。境を決めるのは石だけで、石がどこにあったかを覚えているのは、ここに住む者の頭だけである。頭の中のことは、婆の覚え違いで片がつく。
◇
そこへ、大水が来た。
石が動いていても、誰も驚かない。水は家の軒まで来たのだ。動いたと言えば、皆がうなずく。水の晩に、と言えば、なおうなずく。
ヴィオレッタは、水の晩、という言葉だけを覚えておいた。
◇
「気の毒なことでございます」
オーバンは、マルトのほうを向いた。
「なんなら、小屋のほうも、わたしが買い取ってやってもいい。戸口の前に石があっては、住みにくかろう」
――小屋ごと取れば、岸の幅がまるごと揃う。荷船の連中が、もう値を訊きに来ている。
マルトの手が、前掛けを握りしめる。
◇
ヴィオレッタは、何も言わずに歩きだした。
川沿いの石の並びに沿って、ゆっくりと歩いていく。マリアンヌの日傘が、慌ててついてくる。オーバンが、少し遅れてその後ろ。
石の前を、ひとつずつ通り過ぎる。
◇
ある石の前で、男の内側が、きゅっと縮んだ。
――その石は。
ヴィオレッタは、足を止めない。
次の石。何も立たない。その次。何も立たない。その次で、また縮む。
――そこも。
◇
通り過ぎるたびに、男の色が締まったり、ゆるんだりする。
締まるのは、動かした石の前である。ゆるむのは、動かしていない石の前であった。この男は、自分が夜中に抱えて運んだ石を、一本残らず覚えている。
ペランの後家の畑の石で、いちばん強く締まった。
――あれは重かった。腰をやるかと思った。
◇
ヴィオレッタも、覚えた。
ただし、この目は手口を視ない。どの石が動いたかは分かる。どうやって動かしたか、どう見破れるかは、男の頭の中で言葉になっていない。
それに、見えたと言ったところで、検分役は聞かない。公爵令嬢の覚えも、婆の覚えも、覚えは覚えである。
◇
「お嬢様。何か、お気に召すものが」
オーバンが、愛想よく訊く。
「いいえ。石を、見ておりましたの」
「石は、石でございますよ」
男は、笑った。
――何も分かるものか。石ころの並びなんぞ。
◇
小屋の前に戻ると、ジルベールが畑の端の泥を、鋤ですくって桶に入れていた。
「お嬢様。いい泥でございます」
庭師は、鋤の先の泥を指でつまんで見せた。
「川の泥は、細かくて、黒うございます。畑の土とは、色も手ざわりも違います。公爵家の薔薇には、これがいちばんで」
「そう」
◇
オーバンが、帽子をかぶり直した。
「検分は、明後日でございます。検分役のルフェーヴル様が、朝のうちに来られます。お嬢様も、よろしければ」
「参りますわ」
「それはそれは」
男の内側が、ゆるむ。
――公爵令嬢が見ている前で、石のとおりに決まる。それでかえって、文句は出ない。
◇
オーバンが川上へ戻っていったあと、マルトが、ヴィオレッタのそばへ来た。
「お嬢様。……石は、戻りましょうか」
ヴィオレッタは、答えなかった。
戻るかどうかは、明後日にならなければ分からない。分からないことを、分かったように言うつもりはない。
◇
「マルト」
「はい」
「今夜も、敷布の角は揃いませんわね」
マルトの顔が、くしゃりと歪む。
「……申し訳、ございません」
「よろしいわ。明後日まで、揃えなくて」
◇
馬車に乗る前に、ヴィオレッタは、もう一度、戸口の前の石を振り返った。
川のほうを向いた面に、昼の日がまともに当たっている。日を浴びたその面が、ほかの石よりも少しだけ、青く見えた。
「ジルベール」
「はい」
「明後日も、おいでなさい。日傘は、あなたが持つのですわよ」
◇
庭師は、目を丸くした。
「わたしが、でございますか。マリアンヌさんではなく」
「マリアンヌには、マルトの手を握っていてもらいますもの」
ジルベールは、自分の泥だらけの手を見下ろした。日傘など、一度も持ったことのない手である。
「……洗っておきます」
「そうなさい」
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