第75話 敷布の角が、揃っておりません
敷布の角が、揃っていなかった。
寝台に入ろうとして、ヴィオレッタは手を止める。足もとの角が、指一本ぶんだけ、ずれている。昨夜も同じ。一昨日の夜は、気のせいだと思うことにした。
角の揃わない寝台で、眠れないわけではない。ただ、目を閉じても、足もとの角がまぶたの裏に残る。残ったまま朝になるのが、気にくわないのである。
「マリアンヌ」
「はい」
「敷布の角が、揃っておりません」
◇
侍女が寝台の足もとに回り、角を確かめる。
「……本当でございますね。洗い場に、申しておきます」
「誰が畳んだの」
マリアンヌは、すぐには答えない。
答えないのは、知っているからである。
◇
公爵家の洗い場には、この秋から、新しい女がひとり入っていた。
マルトという。南の水門の手前の、川の洗い場から来た洗濯女だ。
秋のはじめに、ヴィオレッタは市場で迷子を拾って、屋敷へ連れ帰ったことがある。リゼットという五つの娘で、マルトの子であった。その子が、敷布を四つに畳んで、角を指で押さえて揃えた。かあちゃんが教えてくれた、と言った。
それで、母親ごと雇い入れたのである。
◇
マルトが畳むところを、ヴィオレッタは見たことがない。
見ているのは、寝台に上がってくる敷布だけである。この女の畳んだ敷布になってから、角は一度もずれたことがなかった。娘の言ったとおりであった。
◇
その女の畳んだ角が、三晩続けて、ずれている。
◇
翌朝、ヴィオレッタは洗い場へ下りた。
公爵令嬢が洗い場に足を踏み入れることは、まずない。湯気の立つ石の床の上で、洗濯女たちが一斉に手を止める。
◇
最初に口を開いたのは、洗濯頭のドロテであった。
この屋敷の洗い場を、二十年仕切ってきた女である。
「お嬢様。敷布のことでございましたら、申し訳ございません。川の女は、やはり、お屋敷の仕事には」
ドロテの目が、ちらりと奥へ流れる。
奥の洗い桶の前で、マルトがうつむいていた。
◇
ドロテの内側は、詫びる色をしていない。
――三晩も続けば、いくらお嬢様でも見限る。
――角を揃えるくらいで、洗濯頭の顔を潰しやがって。川の女なんぞ、はじめから入れるのがおかしいんだ。
◇
口は詫びて、腹は笑っている。
この秋のあいだ、ずっとこうだったのであろう。川の女、と呼ぶのが、この洗い場の挨拶になっていた。
◇
「わたくし、川の女の話をしに来たのではございませんわ」
ヴィオレッタは、ドロテのほうを向いた。
「あなたが昨日畳んだ敷布を、全部、ここへ持っておいでなさい」
「……わたしの、でございますか」
「あなたの、ですわ」
◇
ドロテが、棚から敷布を運んでくる。
――わたしの角が、ずれているものか。二十年、畳んできたんだ。
ヴィオレッタは、一枚ずつ、角を確かめていった。揃っている。揃っている。揃っている。最後の一枚で、指が止まる。
ほんのわずか、糸一本ぶん。
「明日から、厩の馬布をお洗いなさい」
◇
洗い場が、しんとする。
ドロテの顔から、血の気が引いていた。
「お、お嬢様。糸一本でございます」
「ええ。糸一本ですわ」
ヴィオレッタは、敷布を棚に戻した。
「この家の者を川の女とお呼びになる口があるのでしたら、糸一本くらい、揃えられましょう」
◇
洗濯女たちが、そろって棚の敷布を覗き込む。
糸一本のずれなど、ヴィオレッタのほかに誰が見ても分からない。分からないものを、女たちは目を細めて見つめている。見つめて、誰も、分からないとは言わなかった。
◇
ドロテが厩の洗い場へ追われたのは、その日の昼である。
洗い場の女たちは、それから誰も、マルトを川の女とは呼ばなくなった。
◇
「それで」
ヴィオレッタは、奥の洗い桶の前に立った。
マルトの手が、桶の縁を握りしめている。赤い手であった。節が太く、爪の際が白い。
「角が揃わない理由を、お言いなさい」
◇
マルトの内側には、ドロテのような尖りはない。
石が一本、立っているだけである。戸口の前に、ぽつんと。
「……川が、あふれたのでございます」
うつむいたまま、マルトは話しはじめる。
十日ほど前の大雨で、南の水門の手前が水に浸かった。そのことは、ヴィオレッタも聞いている。下町の低いところでは、軒まで水が来たという。
◇
水が引いたので、マルトは三日前に、前の家を見に行った。亡くなった亭主の残した小屋と、豆を植える細い畑である。冬の薪代に困った年も、そこだけは手放さなかった。いずれリゼットに残すつもりの土地だという。いまは母子そろって公爵家の使用人部屋で寝起きしているから、小屋は空けてあった。
小屋は、残っていた。
「ですが、境の石が、小屋の戸口のすぐ前に立っておりまして」
マルトの声が、震える。
「前は、畑の向こうの端にあった石でございます」
「畑は」
「石の向こうは、オーバンの旦那の土地だ、と」
◇
オーバンは、川上で粉挽き場と倉を持つ地主である。
水が引いたあと、川沿いの境の石が、いくつも動いていた。動いた石は、どれも、オーバンの土地を広げるほうへ寄っている。マルトの家だけではない。隣のペランの後家の家も、その隣の家も、畑の半分を石の向こうへ取られていた。
◇
「オーバンの旦那は、水が動かしたのだと申します」
マルトが、ようやく顔を上げた。
川沿いの境は、昔から石で決まる。紙などない。あっても、読める者がいない。三日後に区の検分役が来て、石のあるとおりに境を決めるのだという。
「水が動かしたのなら、それも神様の思し召しだと」
◇
それきり、マルトは黙った。
黙ったまま、また桶の縁を握る。三晩、敷布を畳みながら、この女はずっと、戸口の前に立った石のことを考えていたのである。
◇
角を合わせる指が、石のほうへ行ってしまう。それで、指一本ぶん。
◇
洗い場を出て階段を上がる途中で、マリアンヌが追いついてくる。
「お嬢様。下町へ、またお出ましに」
「わたくしの家の者の畑ですもの」
◇
「マルトの、でございますか」
「マルトは、公爵家の洗濯女ですわ。公爵家の者の畑に、断りもなく石が立った。それだけのことでございます」
立てたのが水か人かは、言わない。まだ見ていないものを、ヴィオレッタは口にしない。
ペランの後家の畑のことも、口にはしない。
◇
その日の夕方、ベルナールが来た。
昼に、南の水門のあたりのことを調べておくよう言いつけてある。朝に来るときは金か家の中の話だが、夕方に来るときは、たいてい、もっと急ぐ話だ。
執事は、いつもより少し早口であった。
「水のあとで、川沿いの土地の値が上がっております」
◇
下がるのではなく、上がる。
荷船の着く岸が、水で崩れたのだという。新しく荷揚げ場をこしらえるなら、水門の手前がいちばん都合がよい。岸に沿った細い帯は、もとからオーバンの土地である。ただ、倉を建てるには幅が足りない。
「足りないぶんが、あの畑の並びでございます」
◇
「オーバンは、水の前にも、あの並びを買い取ろうとしております。春に一度、夏に一度」
「売りましたの」
「一軒も。亭主の畑だ、親の畑だと申しまして」
ベルナールは、そこで一度、言葉を切った。
「水が引いてからは、オーバンが倉を建てると触れ回っております。買い取る話は、もうしておりません」
金の話になると、この執事は誰より早い。
◇
ヴィオレッタは、扇を閉じた。
売らなかった畑の境が、水のあとで、そろって動いている。動いた石は、どれも、倉の建つ岸のほうへ寄っていた。
◇
川の水は、ずいぶんと商いに明るいらしい。
「明日、川へ参りますわ。それと、ジルベールを」
「庭師を、でございますか」
「水の引いた川の泥は、よい肥やしになると聞きましたわ。只でございましょう」
◇
「只でございます」
ベルナールは、それなら、とうなずいた。金のかからない話にも、この執事は早いのである。
その晩、寝台の敷布の角は、まだ、指一本ぶんずれていた。
◇
ヴィオレッタは、手を出さない。直せば揃う。揃えたところで、戸口の前の石は動かない。
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