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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第18章

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第75話 敷布の角が、揃っておりません

 敷布の角が、揃っていなかった。


 寝台に入ろうとして、ヴィオレッタは手を止める。足もとの角が、指一本ぶんだけ、ずれている。昨夜も同じ。一昨日の夜は、気のせいだと思うことにした。


 角の揃わない寝台で、眠れないわけではない。ただ、目を閉じても、足もとの角がまぶたの裏に残る。残ったまま朝になるのが、気にくわないのである。


「マリアンヌ」


「はい」


「敷布の角が、揃っておりません」


   ◇


 侍女が寝台の足もとに回り、角を確かめる。


「……本当でございますね。洗い場に、申しておきます」


「誰が畳んだの」


 マリアンヌは、すぐには答えない。


 答えないのは、知っているからである。


   ◇


 公爵家の洗い場には、この秋から、新しい女がひとり入っていた。


 マルトという。南の水門の手前の、川の洗い場から来た洗濯女だ。


 秋のはじめに、ヴィオレッタは市場で迷子を拾って、屋敷へ連れ帰ったことがある。リゼットという五つの娘で、マルトの子であった。その子が、敷布を四つに畳んで、角を指で押さえて揃えた。かあちゃんが教えてくれた、と言った。


 それで、母親ごと雇い入れたのである。


   ◇


 マルトが畳むところを、ヴィオレッタは見たことがない。


 見ているのは、寝台に上がってくる敷布だけである。この女の畳んだ敷布になってから、角は一度もずれたことがなかった。娘の言ったとおりであった。


   ◇


 その女の畳んだ角が、三晩続けて、ずれている。


   ◇


 翌朝、ヴィオレッタは洗い場へ下りた。


 公爵令嬢が洗い場に足を踏み入れることは、まずない。湯気の立つ石の床の上で、洗濯女たちが一斉に手を止める。


   ◇


 最初に口を開いたのは、洗濯頭のドロテであった。


 この屋敷の洗い場を、二十年仕切ってきた女である。


「お嬢様。敷布のことでございましたら、申し訳ございません。川の女は、やはり、お屋敷の仕事には」


 ドロテの目が、ちらりと奥へ流れる。


 奥の洗い桶の前で、マルトがうつむいていた。


   ◇


 ドロテの内側は、詫びる色をしていない。


  ――三晩も続けば、いくらお嬢様でも見限る。


  ――角を揃えるくらいで、洗濯頭の顔を潰しやがって。川の女なんぞ、はじめから入れるのがおかしいんだ。


   ◇


 口は詫びて、腹は笑っている。


 この秋のあいだ、ずっとこうだったのであろう。川の女、と呼ぶのが、この洗い場の挨拶になっていた。


   ◇


「わたくし、川の女の話をしに来たのではございませんわ」


 ヴィオレッタは、ドロテのほうを向いた。


「あなたが昨日畳んだ敷布を、全部、ここへ持っておいでなさい」


「……わたしの、でございますか」


「あなたの、ですわ」


   ◇


 ドロテが、棚から敷布を運んでくる。


  ――わたしの角が、ずれているものか。二十年、畳んできたんだ。


 ヴィオレッタは、一枚ずつ、角を確かめていった。揃っている。揃っている。揃っている。最後の一枚で、指が止まる。


 ほんのわずか、糸一本ぶん。


「明日から、厩の馬布をお洗いなさい」


   ◇


 洗い場が、しんとする。


 ドロテの顔から、血の気が引いていた。


「お、お嬢様。糸一本でございます」


「ええ。糸一本ですわ」


 ヴィオレッタは、敷布を棚に戻した。


「この家の者を川の女とお呼びになる口があるのでしたら、糸一本くらい、揃えられましょう」


   ◇


 洗濯女たちが、そろって棚の敷布を覗き込む。


 糸一本のずれなど、ヴィオレッタのほかに誰が見ても分からない。分からないものを、女たちは目を細めて見つめている。見つめて、誰も、分からないとは言わなかった。


   ◇


 ドロテが厩の洗い場へ追われたのは、その日の昼である。


 洗い場の女たちは、それから誰も、マルトを川の女とは呼ばなくなった。


   ◇


「それで」


 ヴィオレッタは、奥の洗い桶の前に立った。


 マルトの手が、桶の縁を握りしめている。赤い手であった。節が太く、爪の際が白い。


「角が揃わない理由を、お言いなさい」


   ◇


 マルトの内側には、ドロテのような尖りはない。


 石が一本、立っているだけである。戸口の前に、ぽつんと。


「……川が、あふれたのでございます」


 うつむいたまま、マルトは話しはじめる。


 十日ほど前の大雨で、南の水門の手前が水に浸かった。そのことは、ヴィオレッタも聞いている。下町の低いところでは、軒まで水が来たという。


   ◇


 水が引いたので、マルトは三日前に、前の家を見に行った。亡くなった亭主の残した小屋と、豆を植える細い畑である。冬の薪代に困った年も、そこだけは手放さなかった。いずれリゼットに残すつもりの土地だという。いまは母子そろって公爵家の使用人部屋で寝起きしているから、小屋は空けてあった。


 小屋は、残っていた。


「ですが、境の石が、小屋の戸口のすぐ前に立っておりまして」


 マルトの声が、震える。


「前は、畑の向こうの端にあった石でございます」


「畑は」


「石の向こうは、オーバンの旦那の土地だ、と」


   ◇


 オーバンは、川上で粉挽き場と倉を持つ地主である。


 水が引いたあと、川沿いの境の石が、いくつも動いていた。動いた石は、どれも、オーバンの土地を広げるほうへ寄っている。マルトの家だけではない。隣のペランの後家の家も、その隣の家も、畑の半分を石の向こうへ取られていた。


   ◇


「オーバンの旦那は、水が動かしたのだと申します」


 マルトが、ようやく顔を上げた。


 川沿いの境は、昔から石で決まる。紙などない。あっても、読める者がいない。三日後に区の検分役が来て、石のあるとおりに境を決めるのだという。


「水が動かしたのなら、それも神様の思し召しだと」


   ◇


 それきり、マルトは黙った。


 黙ったまま、また桶の縁を握る。三晩、敷布を畳みながら、この女はずっと、戸口の前に立った石のことを考えていたのである。


   ◇


 角を合わせる指が、石のほうへ行ってしまう。それで、指一本ぶん。


   ◇


 洗い場を出て階段を上がる途中で、マリアンヌが追いついてくる。


「お嬢様。下町へ、またお出ましに」


「わたくしの家の者の畑ですもの」


   ◇


「マルトの、でございますか」


「マルトは、公爵家の洗濯女ですわ。公爵家の者の畑に、断りもなく石が立った。それだけのことでございます」


 立てたのが水か人かは、言わない。まだ見ていないものを、ヴィオレッタは口にしない。


 ペランの後家の畑のことも、口にはしない。


   ◇


 その日の夕方、ベルナールが来た。


 昼に、南の水門のあたりのことを調べておくよう言いつけてある。朝に来るときは金か家の中の話だが、夕方に来るときは、たいてい、もっと急ぐ話だ。


 執事は、いつもより少し早口であった。


「水のあとで、川沿いの土地の値が上がっております」


   ◇


 下がるのではなく、上がる。


 荷船の着く岸が、水で崩れたのだという。新しく荷揚げ場をこしらえるなら、水門の手前がいちばん都合がよい。岸に沿った細い帯は、もとからオーバンの土地である。ただ、倉を建てるには幅が足りない。


「足りないぶんが、あの畑の並びでございます」


   ◇


「オーバンは、水の前にも、あの並びを買い取ろうとしております。春に一度、夏に一度」


「売りましたの」


「一軒も。亭主の畑だ、親の畑だと申しまして」


 ベルナールは、そこで一度、言葉を切った。


「水が引いてからは、オーバンが倉を建てると触れ回っております。買い取る話は、もうしておりません」


 金の話になると、この執事は誰より早い。


   ◇


 ヴィオレッタは、扇を閉じた。


 売らなかった畑の境が、水のあとで、そろって動いている。動いた石は、どれも、倉の建つ岸のほうへ寄っていた。


   ◇


 川の水は、ずいぶんと商いに明るいらしい。


「明日、川へ参りますわ。それと、ジルベールを」


「庭師を、でございますか」


「水の引いた川の泥は、よい肥やしになると聞きましたわ。只でございましょう」


   ◇


「只でございます」


 ベルナールは、それなら、とうなずいた。金のかからない話にも、この執事は早いのである。


 その晩、寝台の敷布の角は、まだ、指一本ぶんずれていた。


   ◇


 ヴィオレッタは、手を出さない。直せば揃う。揃えたところで、戸口の前の石は動かない。

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― 新着の感想 ―
マルトが川で畳む姿は見ておられないのでは? 迷子の母と同じなら整合性がないような?
同系統のキャラが同名でも気にならない、と言ったら嘘になる。
リゼットちゃんが消えた。1章読み切りだからね。今回はベルナールがメインかな?
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