第74話 あの晩も、この位置でございました
三日目の午後、ヴォードレイ侯爵家の控えの間には、人がいっぱいに詰めかけていた。
侯爵夫人がいる。ヴェルヌ子爵と子爵夫人、その間に、目を赤くしたクロエ。あの晩、回廊に居合わせた夫人たちが数人。壁際には、侯爵家の家令が控えている。白髪の、背筋のまっすぐな老人である。
ガストンは、扉の近くに立っていた。
◇
ヴィオレッタは、マリアンヌを連れて入った。
扇には、まだ札を挟んである。侍女の字の、あの一行。
マリアンヌは、主人の半歩後ろで、顔を伏せている。昨夜から、ひと言も口をきいていない。
◇
「お声は、まだお戻りにならないのね」
侯爵夫人の問いに、ヴィオレッタは札を見せて答えた。
「よろしいわ。では、ガストン様。あの晩ご覧になったことを、もう一度、皆様の前で」
◇
「かしこまりました」
一歩前に出て、ガストンはヴィオレッタに向き直る。
「あの晩、この控えの間に、お一人でおいででしたね」
ヴィオレッタは、うなずいた。
「窓辺の椅子の上の、青い手提げに、お手を触れられた」
うなずく。
◇
「手提げを、隣の小卓へお移しになった」
うなずく。
「それから、空いた椅子にお掛けになった」
うなずく。
夫人たちのあいだから、ため息が漏れる。首が縦に動くたびに、話が一枚ずつ重なっていく。クロエが、母親の袖をつかんでいた。
◇
ガストンの声に、熱がこもりはじめる。
「そのあと、しばらく、庭のほうをご覧になっていましたね。ガラス戸の、向こうを」
ヴィオレッタは、うなずいた。
「まるで、誰かに見られていないか、お確かめになるように」
◇
ヴィオレッタは、動かない。
うなずきもせず、首も振らない。
「お答えになれないようで」
ガストンが、気の毒そうに眉を下げる。夫人たちが、顔を見合わせた。
◇
男の腹の内が、浮き立っていた。
――いける。あとひと押し。
――見せてやればいい。あの女が、自分であの椅子に座るところを。
◇
ガストンが、侯爵夫人に願い出る。あの晩ここにいなかった方々にも、自分が何を見たのかを、見ていただきたい。自分はあの晩のとおり扉のところに立つので、公爵令嬢にも、あの晩のとおりに動いていただけないか。
「私が何を見たのか。皆様の目で、お確かめいただきたいのです」
侯爵夫人が、ヴィオレッタを見る。
ヴィオレッタは、うなずいた。
◇
家令が、クロエの手提げを受け取り、窓辺の椅子の上に置く。
ガストンが扉の外に出て、細く開けた隙間の前に立った。侯爵夫人と、何人かの夫人が、その後ろに並ぶ。回廊から、男と同じ高さで、部屋の中をのぞく形である。
◇
ヴィオレッタは、扉の内側から、部屋の奥へ歩いた。
刺繍の衝立の脇を回る。窓辺へ。椅子の上の手提げを取り上げ、小卓に移す。椅子に腰を下ろし、ガラス戸のほうを見る。
あの晩と、同じであった。
違うのは、ガラス戸の向こうの庭が明るいことだけ。今日は、植え込みの陰に、誰もいない。
◇
「ほら、ご覧ください。ああして、手提げを」
扉の外で、ガストンの声がした。
その声に、侯爵夫人の声がかぶさる。
「ガストン様」
◇
「わたくしには、衝立しか見えませんけれど」
◇
回廊が、静まる。
後ろの夫人たちも、首を伸ばし、背伸びをし、それから黙った。扉の隙間から見えるのは、刺繍の衝立の、牡丹の花ばかりである。窓辺も、椅子も、小卓も、その向こうに隠れていた。
◇
――衝立。
ガストンの腹の内で、短い声がする。
――こんなもの、あったか。あの晩、庭からは、横向きで。
「……あの晩は、衝立が、もっと奥に寄せてございました。それで、見えたのです」
男の声が、かすれている。
◇
「いいえ」
壁際から、声がした。
家令である。
「あの晩も、この位置でございました」
◇
老人は、衝立のそばへ歩み寄り、その縁に手を添えた。
「夕刻に、私が、この手で立てました」
夜会のあいだ、婦人がたが裾を直す部屋である。回廊から奥が見えぬよう、夜会のたびに同じ場所に立てている。老人はそう言って、床を指さした。磨かれた床板に、小さなへこみが四つ。衝立の脚は、そのへこみに、ぴたりと収まっている。
◇
「扉の隙間から、斜めに見れば」
ガストンが言いかける。
侯爵夫人が、黙って扉の隙間に顔を寄せた。右から。左から。しゃがんで、もう一度。
立ち上がって、首を横に振る。
◇
「奥の窓辺が見えますのは、庭の、あのガラス戸の前からだけでございます」
家令は、そう続けた。
あの晩、夜会が引けたあとで見回ると、ガラス戸の掛け金が外れていたという。夕刻に家令が自分で掛けたもので、掛け金は内側からしか外せない。
◇
誰かが、部屋の中から庭へ出た。
出て、外から、窓辺を見ていた。
部屋じゅうの目が、ゆっくりと、扉の外の男のほうへ動いていく。
◇
家令が、もうひとり呼んだ。
あの晩、帰りの客の靴を拭いていた下男である。まだ少年といってよい。帽子を握ったまま、少年は言った。
「ラヴェル様の靴に、黒い土がついていました。ガラス戸の前の花壇は、前の日に土を入れ替えたばかりです。黒い土は、あそこにしかありません」
◇
「でたらめだ」
扉を押し開けて、ガストンが入ってくる。顔が、白い。
「その女は、うなずいたではありませんか。手提げに触れた、と。一人だった、と」
「ええ。拝見いたしましたわ」
侯爵夫人が、扇を閉じた。
「ヴィオレッタ様は、あなたのおっしゃったことに、ひとつ残らずうなずかれました。全部、本当だったのでしょうね。あなたがご覧になったとおりに」
◇
「庭から」
侯爵夫人は、ひと言だけ付け足した。
◇
ガストンの口が、開いたまま止まる。
そのとき、クロエが母親の手を振りほどいて、前に出た。
「ヴィオレッタ様。お祖母様のロケットを、お取りになりましたか」
娘の声は、震えている。
◇
誰も、その問いを、まだ一度も口にしていなかった。
この二日、王都じゅうが答えを決めていたのに、訊いた者はひとりもいない。
ヴィオレッタは、娘の目を見た。
首を、横に振る。
◇
ヴェルヌ子爵が、供の者を呼んだ。
ガストンの下宿へ、人が走る。ロケットは、その日の夕方、男の文箱の底から出てきた。蓋には、一度こじ開けられた跡があったという。
中に誰の絵が入っていたのかは、子爵家の外には出ていない。ヴィオレッタも、知ろうとは思わない。
◇
侯爵家の衛兵に腕を取られて回廊を引かれていくとき、ガストンが一度だけ振り返った。
「知っていたのか。あの晩、庭に、誰かいると」
ヴィオレッタは、うなずいた。
男の顔が、くしゃりと潰れる。
ラヴェル伯爵が次男を家から出したのは、それから十日ほどのちのことである。賭け札の卓のある館は、どこも、あの男の名では扉を開けなくなった。
◇
四日目の朝、声が戻った。
まだ、かすれている。湯殿で、ヴィオレッタは、浴槽の縁に指をかけた。
「……ぬるいですわ」
「存じております」
衝立の向こうで、マリアンヌが言う。
「お嬢様が、私に、ひと言も言わせてくださらなかったので」
◇
ヴィオレッタは、ぬるい湯に足を入れた。
「お前が、蜂蜜湯を取りに行っておりましたと言えば、あの男は、そこで黙りましたわ」
衝立の向こうが、静かになる。
◇
「……では、首をお振りになっていたら」
侍女の声が、少しだけ低い。
「誰かに見られていないか確かめるように、とあの者が申したとき。違うと、首をお振りになっていたら」
「嘘になりますわ。確かめておりましたもの。見られていないか、ではなくて、誰に見られているのかを」
◇
「首も、口のうちでございますのよ」
◇
しばらくして、衝立の向こうから、湯を足す音がした。
一杯。もう一杯。
湯が、少しずつ、ちょうどよくなっていく。
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