第73話 お書きになれば、済みますのに
帰りの馬車の中で、マリアンヌはずっと膝の上の手を握りしめていた。
車輪が石畳を噛む音だけが、しばらく続く。
「お嬢様」
侍女が、ようやく口を開いた。
「あの者は、一度も訊きませんでした。お嬢様がロケットをお取りになったかどうかは」
◇
ヴィオレッタは、うなずいた。
「控えの間にいたか。お一人だったか。手提げに触れたか。訊いたのは、それだけでございます。どれも、本当のことばかり」
マリアンヌの声が、少しずつ低くなる。
「本当のことだけを並べて、盗ったとは言わない。言わなくても、聞いた者は皆、盗ったのだと思います」
◇
この侍女は、外を見る目を持っている。
回廊で、主人の首が三度縦に動くのを見ていたのは、あの場の誰もが同じであった。訊かれなかった問いのほうに気づいたのは、たぶん、この娘だけである。
◇
翌朝、ベルナールが来た。
朝に来るときは、金か、家の中の話である。今朝は、家の外の話を持ってきた。
「王都じゅうが、昨夜の話でございます」
執事は、いつもの平らな声で言った。
「公爵令嬢が、子爵家の令嬢のロケットを。首でお認めになった、と」
◇
ヴィオレッタは、蜂蜜湯の椀を置く。
「それと、ヴォードレイ侯爵夫人から、お手紙が」
ベルナールが、封を切った書状を差し出す。
「明日の午後、侯爵家の控えの間にて、昨夜のことを改めてお訊ねしたい、と。ヴェルヌ子爵家の方々と、ラヴェル伯爵家のガストン様もおいでになるそうで。ガストン様の、お申し出だそうでございます」
◇
明日。三日目である。
医者の言ったとおりなら、声はまだ戻らない。
「お断りいたしますか」
ヴィオレッタは、首を横に振った。
◇
昼過ぎに、そのガストンが、見舞いに来た。
手に、蜂蜜の壺を提げている。
「お喉に、よろしいかと」
応接間の長椅子に浅く腰かけて、ガストンは壺を卓に置いた。ベルナールが、壺を取り上げる。取り上げて、蓋を開けて、匂いを嗅いだ。
◇
「ありがたく、頂戴いたします」
執事の声は、平らなままである。壺を下げに行くとき、マリアンヌの耳もとで、ひとこと囁いたのが聞こえた。
「市場の、いちばん安い蜜だ」
金の話になると、この執事は誰より早い。
◇
「昨夜は、ご無礼をいたしました」
ガストンが、膝の上で手を組んだ。
「私も、つらいのです。見たことを申し上げただけで、ヴィオレッタ様を責めるつもりは、少しもございませんでした。明日も、見たとおりを申し上げるだけです」
◇
男の腹の内は、口よりずっとよく喋っていた。
――盗ったかとは、訊かない。訊けば、首を横に振られる。
――本当のことだけ訊けばいい。手提げに触れた。一人だった。全部うなずく。うなずくしかない。
――あとは、聞いた連中が勝手に決める。
――あの女は、庭を見ていた。見られたかもしれない。先に盗人にしておけば、あとで何を言っても言い逃れになる。
◇
ヴィオレッタは、扇を開かずに、男を見ていた。
この男は、賭け札の卓で負けが込んでいる。ヴェルヌ子爵家の娘のロケットに、何が入っているのかも知っている。
――ヴェルヌの親父なら、言い値で買い戻す。娘の婚約が流れるよりは。
◇
そこまでは、どうでもよかった。
ロケットが誰のものであれ、子爵家が何を払わされるのであれ、ヴィオレッタの知ったことではない。
◇
気にくわないのは、ひとつだけである。
この男は、ヴィオレッタが嘘をつかないことを、自分の道具だと思っている。王都じゅうが知っている、公爵令嬢は嘘をつかない、という一行を、借りもせずに持ち出して、自分の盾にした。
◇
「明日、お声は、まだお戻りにならないのでしょうね」
ガストンが、気づかわしげに言う。
ヴィオレッタは、うなずきも、首を振りもしなかった。明日のことは、明日にならなければ分からない。分からないことに、首は動かさない。
男は、それを肯定と取ったらしい。
――声が戻る前に、片をつける。戻れば、あの女は「でも」と言う。
◇
ガストンが帰ったあと、マリアンヌが、小さな石板と白墨を持ってきた。
「お嬢様。これに、ひと言、お書きくださいまし」
石板を、ヴィオレッタの膝の上に置く。
「盗っておりません、と。それだけで、ようございます。明日、皆様の前でそれをお見せになれば」
◇
ヴィオレッタは、石板を膝から下ろした。
白墨も、その上に置く。
「お嬢様」
マリアンヌの声が、高くなった。
「お書きになれば、済みますのに」
◇
済む。
石板に否と書けば、明日の控えの間で、それを掲げれば、それで済む。公爵令嬢が書いたのだから、誰も疑わない。あの男は引き下がり、ロケットは見つからず、話はそこで終わる。
終わらせては、困るのである。
◇
否と書けば、あの男は黙る。
黙られては困る。あの男には、明日、もっと喋ってもらわなければならない。昨夜、何を見たのか。どこで見たのか。どんなふうに見えたのか。
嘘をつかない女の首が縦に動くたびに、あの男は、もっと喋りたくなるはずであった。
◇
「では、私が申し上げます」
マリアンヌは、引き下がらない。
「お嬢様は、喉が痛くて、蜂蜜湯をお待ちになっていただけだと。私が、台所へ」
ヴィオレッタは、侍女の顔を見た。
首を、横に振る。
◇
「……私には、言わせてくださいませんの」
ヴィオレッタは、もう一度、首を横に振った。
マリアンヌは、それ以上、何も言わなかった。
石板を抱えて、部屋を出ていく。扉の閉まる音が、いつもより少しだけ大きい。
◇
その晩の湯は、ぬるかった。
ぬるいと言いたくても、声が出ない。
衝立の向こうで、侍女が黙って湯を足す気配もない。ヴィオレッタは、ぬるい湯に肩まで浸かり、天井を見上げた。
◇
明日は、三日目である。
あの男は、扉が細く開いていたので、と言った。回廊から、中が目に入った、と。
ヴィオレッタは、目を閉じた。
あの控えの間の、扉を入ったところに何があったかを、ひとつずつ思い出していく。




