第72話 本日は、お声が出ませんの
声が、出なかった。
朝、マリアンヌを呼ぼうとして口を開いたら、喉の奥で、枯れ葉を踏むような音がしただけである。
二度目は、その音すら出ない。
「お嬢様? いま、何と仰いました」
衝立の向こうから、マリアンヌが顔を出した。
◇
昼前に、医者が来た。
「三日でございます」
ヴィオレッタの喉をのぞきこんでから、医者はそう告げる。
「三日のあいだ、ひと言もお話しになりませんように。囁くのもいけません。囁きは、喉をいちばん痛めますので」
◇
「今夜の、ヴォードレイ侯爵家の夜会は」
マリアンヌが訊く。
「お出になるのは構いません。お話しにならなければ」
「蜂蜜を、湯で溶いてお飲みください。日に三度。熱すぎる湯は、いけません」
それだけ言い置いて、医者は帰っていった。
◇
夜会を断る、という手もある。
断らないのは、ヴォードレイ侯爵夫人の夜会を断れば、明日には王都じゅうが理由を探しはじめるからだ。公爵令嬢が寝込んだ。王太子殿下とのあいだに何か。理由のない欠席は、理由のある欠席より、ずっと高くつく。
◇
夕方、マリアンヌが小さな札を一枚こしらえてきた。
厚紙に、侍女のきれいな字で一行。
――本日は、お声が出ませんの。
「お嬢様の口ぶりで、書いておきました。ご挨拶に来られた方には、これをお見せくださいまし。お嬢様の代わりに、これが申しますので」
◇
ヴィオレッタは札を受け取り、しばらく眺めてから、扇の骨のあいだに挟んだ。
侍女の字は、主人の字より、ずっと整っている。
◇
侯爵家の大広間は、蝋燭の火で暑いほどであった。
ヴォードレイ侯爵夫人の秋の夜会は、招待状の多いことで知られている。侯爵家を寄親と仰ぐ子爵家、男爵家にまで、毎年ひととおり声がかかる。暑いのは、蝋燭のせいばかりでもない。
札は、よく働いた。挨拶に来る者に扇を開いて見せれば、皆、それで引き下がる。気の毒そうな顔をする者もいれば、ほっとした顔をする者もいる。公爵令嬢と話さずに済むのは、多くの者にとって、ありがたいことらしい。
◇
引き下がらなかったのは、ジゼルという男爵令嬢ひとりである。
「まあ、ヴィオレッタ様。お声が。お気の毒に」
扇の札を、ジゼルは読んだ。読んだうえで、話しつづけた。
男爵家の娘が、公爵令嬢に自分から口をきく。ふだんなら、扇の陰で誰かが眉をひそめる無作法である。
――声が出ないなら、咎められもしない。今夜だけは。
腹の内は、札を読んだとたんに、そう弾んでいた。
「ねえ、お聞きになりまして。ラ・トゥール家の奥様が、また新しい楽師をお雇いになったのですって。三人目ですわよ。旦那様は、ご存じなのかしら。ねえ、そうでございましょう?」
◇
うなずけ、という顔であった。
公爵令嬢がうなずいた、と明日の茶会で言うための顔である。
ヴィオレッタは、うなずかなかった。
首を振ることもしない。扇から札を抜いて、ジゼルの目の前に差し出す。
◇
鼻先に、である。
ジゼルは、札とヴィオレッタの顔を見比べた。
ヴィオレッタは、札を下ろさない。まばたきもしない。周りの話し声が、ひとつ、またひとつと途切れていく。悪女が、男爵令嬢に札を突きつけたまま、黙っている。それを見ようと、人の輪ができはじめていた。
――何よ。何か、言いなさいよ。
◇
「……ほ、本日は」
ジゼルの声が、裏返った。
「本日は、お声が、出ませんの……」
◇
読み上げたのは、ジゼルである。
輪の中から、くすくすと笑いが漏れた。男爵令嬢が、公爵令嬢の札を、震える声で読んでいる。お声が出ないのは、どちらなのかしら。誰かが、扇の陰でそう言った。
ジゼルは真っ赤になって、膝を折り、輪の外へ逃げていった。
◇
札を読んでおきながら話しかけてきた娘に、ヴィオレッタは、同じ札を読ませただけである。
マリアンヌの字を、素通りした罰としては、軽いほうであった。
◇
暑さで、喉が焼けるように痛む。
ヴィオレッタはマリアンヌの袖を引き、喉を指さした。侍女はすぐに分かって、蜂蜜湯をもらいに、台所のほうへ下がっていく。
ヴィオレッタは、控えの間へ向かった。
◇
控えの間は、回廊の突き当たりにある。
婦人がたが裾を直したり、髪を整えたりするための部屋で、扉を入ると刺繍の衝立があり、その向こうが窓辺になっていた。窓の隣に、庭へ下りるガラス戸。夜会のさなかで、部屋には誰もいない。
◇
窓辺の椅子の上に、青い絹の手提げが、ひとつ置いてあった。
口のリボンが、ほどけている。
ヴィオレッタは手提げを取り上げ、隣の小卓に移した。それから、空いた椅子に腰を下ろす。窓のガラスが、ひんやりと冷たい。喉の熱が、少しだけ引いていく。
◇
ガラス戸の向こうは、暗い庭である。
その暗がりから、声がひとつ届いた。
――早く出ていけ。こっちを見るな。
顔は見えない。人の形も見えない。腹の内の声だけが、植え込みの陰から細く流れてくる。こちらを見ている者の声である。
この目に視えるのは、人の腹の内だけ。暗がりの顔までは、視えない。
◇
ヴィオレッタは、しばらくそちらを見ていた。
声は、やがて植え込みの奥へ遠ざかり、聞こえなくなる。
◇
マリアンヌが、蜂蜜湯の椀を持って戻ってくる。
ヴィオレッタは、ゆっくりと湯を飲み、大広間へ戻った。
悲鳴が上がったのは、それから四半刻もしないうちである。
◇
「ないの。ないのよ、お母様」
控えの間の前で、若い令嬢が泣いていた。
ヴェルヌ子爵家のクロエである。秋に、ヴォードレイ侯爵夫人の甥との婚約が決まった娘で、手に、あの青い手提げを握りしめていた。
「ロケットが。お祖母様の、ロケットが」
「クロエ、落ち着きなさい。どこに置いたの」
「控えの間の、窓辺の椅子に。少しのあいだだけと思って、置いて出たの。戻ったら、手提げが小卓の上にあって、口が開いていて」
◇
人が、回廊に集まってくる。ヴォードレイ侯爵夫人が、扇を閉じて進み出た。
「控えの間に入った方は、どなた」
誰も答えない。
答えのかわりに、人垣の後ろから、男がひとり出てきた。
◇
「侯爵夫人。申し上げにくいのですが」
ラヴェル伯爵家の次男、ガストンである。
賭け札の卓で、よく見る顔である。
「私は、回廊を通りかかりまして。扉が細く開いておりましたので、ふと、中が目に入りました」
「ご無礼は承知のうえです。ですが、黙っていては、クロエ嬢がお気の毒でございますので」
ガストンは、ヴィオレッタのほうを向いた。
◇
「ヴィオレッタ様。先ほど、控えの間においででしたね」
ヴィオレッタは、うなずいた。
回廊が、ざわめく。
「お一人で」
うなずく。
◇
「窓辺の椅子の上の、青い手提げに、お手を触れられた」
ヴィオレッタの首が、もう一度、縦に動く。
◇
ガストンの腹の内が、ゆるむ。
――ほら見ろ。嘘をつかない女の首は、縦にしか動かない。
口では通りがかりと言いながら、腹の内は扉のことなど少しも考えていない。食い違ったぶんだけ、男のまわりに濁った色が立っている。
声のほうは、聞き覚えがあった。さっき、ガラス戸の向こうの暗がりから届いたのと、同じ声である。
◇
「お嬢様は」
マリアンヌが、前へ出かかった。
ヴィオレッタは扇を上げて、それを止める。
回廊のどこかで、誰かが小さく言う。
「うなずいて、おいでだわ」
子爵夫人が、娘の肩を抱いたまま、こちらを見た。
「ヴィオレッタ様。まさか、あなた様が」
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