番外編 おいしい、とは仰いません 〜侍女マリアンヌの手記〜
お嬢様は、おいしい、とは仰いません。
嘘をおつきにならない方ですから、おいしくないものを、おいしいとは仰らない。それは分かります。けれど、おいしいものにも仰らないのです。
お気に召した皿は、黙って空になって戻ってまいります。お気に召さない皿は、「下げなさい」の一言で、半分残って戻ってくる。それきりでございます。
◇
厨頭のゴーティエは、先代様のころからこの家の竈を守ってきた男です。
白い髭に、粉のついた前掛け。腕は確かで、王宮の料理番から声がかかったこともあるそうですが、断ったと聞いております。
その男が、お嬢様の口から「おいしい」を一度も聞いたことがない。
皿を下げて厨へ戻るたびに、ゴーティエはわたくしの顔を見ます。
「何と仰った」
「何も」
「空か」
「空です」
それだけで、髭がほんの少し持ち上がる。空の皿が、ゴーティエにとっての「おいしい」なのでございます。
◇
その厨頭が、この冬で竈を降りることになりました。
目が、ずいぶん悪くなったのです。塩の壺と砂糖の壺を、匙で舐めてからでないと取り違えるようになった、と本人は笑っておりました。厨の若い者たちは、笑えない顔をしていましたけれど。
降りる日まで、ひと月。
「一度でいい」
ある晩、ゴーティエは竈の火を落としながら申しました。
「一度でいいから、あのお嬢様の口から、おいしいと聞いてみたかった」
◇
お嬢様のことは、好きではございません。
これは何度でも書いておきます。
けれど、ゴーティエのことは好きです。お仕えしはじめたころ、叱られて泣いていたわたくしに、焦げたパンの耳を砂糖で煮て食べさせてくれたのは、あの男でした。
ですから、ひと月のうちに、お嬢様に「おいしい」と言わせてみせると決めたのです。
◇
一度目は、正面から参りました。
「お嬢様。本日のスープは、いかがでございましたか」
「いつもの味ですわ」
それだけ。
二度目は、ゴーティエが腕によりをかけました。鴨を三日かけて煮て、砕いた木の実を衣にして、皿の縁に金の粉まで振って。
お嬢様は、ひと口召し上がって、ナイフをお置きになる。
「手が込んでおりますこと」
皿は、半分残って戻ってまいりました。
厨で、ゴーティエは長いこと、その皿を見つめたまま動かない。
◇
三度目は、わたくしが策を練ったのです。
お嬢様は嘘をおつきにならない。ならば、どちらかを選ばねばならないように、お訊ねすればよい。
「お嬢様。このお菓子と、昨日のお菓子と、どちらがおいしゅうございましたか」
お嬢様は、扇の陰でわたくしを眺めておいででした。
「お前が何を言わせたいのか、よく分かりましたわ」
「……」
「どちらも、食べられないほどではございませんでしたわね」
負けでございます。
◇
最後の日の前の晩、湯を張っていると、お嬢様が衝立の向こうから仰いました。
「ゴーティエは、明日まででしたわね」
「……はい」
「そう」
それきりです。お嬢様が、使用人の辞める日を覚えておいでだとは、思ってもみませんでした。
◇
ゴーティエの最後の日は、雪になりました。
最後の晩の皿に、ゴーティエは凝ったものを何も作っておりません。
毎晩お出ししている、玉葱と根菜のスープ。お嬢様が幼いころから、この家の晩には必ず一杯出てくる、あのスープです。
「これでいい」
ゴーティエは、そう申しました。
「最後に、いちばん作ってきたものを出す」
わたくしは、黙って盆を運びました。
お嬢様はいつものようにスープを召し上がり、いつものように何も仰らない。皿は、空になって戻ってまいりました。
厨で、ゴーティエは空の皿を受け取って、「空か」と申しました。
「空です」
髭が、ほんの少しだけ持ち上がる。
それで、終わりのはずでございました。
◇
厨の扉が開いたのは、ゴーティエが前掛けを外したときです。
お嬢様が、立っておいででした。
公爵家のご令嬢が厨へお下りになるのを、わたくしははじめて見ました。若い者たちは、皿を持ったまま固まっている。薪割りに回された給仕の少年など、斧を握ったまま口を開けておりました。
お嬢様は、竈のそばのゴーティエの前まで歩いていかれて、仰いました。
「あなたのスープは、毎日、同じ味でしたわ」
◇
それだけです。
おいしいとも、ありがとうとも、仰いませんでした。
ゴーティエは、前掛けを握りしめたまま、深く頭を下げております。白い髭の先が、震えていた。
お嬢様は、それをご覧にもならずに、厨を出ていかれました。
◇
あれが褒め言葉だったのかどうか、わたくしには分かりません。
ゴーティエには、分かったようでございます。
あとで、ゴーティエはわたくしにこう申しました。毎日同じ味にするのが、いちばん難しいのだ、と。季節で野菜の甘みは変わる。薪の具合で火も変わる。それを毎晩、同じところに揃えるのが料理番の腕なのだ、と。
「あのお嬢様は、それをずっと分かっていなさった」
嘘をおつきにならない方の「同じ味」は、たぶん、ほかの方の「おいしい」より重いのでしょう。
お嬢様のまわりには、毎日、顔色を変える者ばかりが集まってまいります。毎日同じものがひとつくらいあってもよいと、お思いだったのかもしれません。
◇
新しい料理番が厨に入ったのは、その翌日のことです。
お嬢様は、その者を厨から呼び出して、ひと言だけ仰いました。
「ゴーティエと同じ味にできなければ、ひと月で出ていっていただきます」
新しい料理番は、青い顔で厨へ戻ってまいりました。
いまは毎日、町はずれのゴーティエの家に通って、スープを教わっております。
◇
今のところ、皿は半分残って戻ってまいります。
ひと月は、もうすぐでございます。
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