第8話 査定
三日で、宮廷の言葉が入れ替わった。
――子どもを泣かせたそうだ。
――しかも「好きではない」と面と向かって。
――教会が黙っておるまい。
もっとも、全員がそう言ったわけではない。
――だが石炭の件は事実だぞ。院長が18年、業者に抜かれておった。
――誰も気づかなんだのか。
――誰も、帳簿など見ておらぬからな。
ヴィオレッタは回廊を歩きながら、その両方を等しく読んでいた。前者は上品な声で、後者は苦い声で語られる。どちらも本音だった。
人は、正しさと好悪を平気で切り離せる。彼女はそれを17年かけて確かめてきた。
三日目の午後、王太子から呼び出しが来た。
◇
東棟の執務室は、暖炉が焚かれていなかった。
アルベールは書類から顔を上げなかった。ヴィオレッタが扉を閉め、礼をし、三十秒立ち続けても、彼は羽根ペンを置かなかった。
これは罰ではない、とヴィオレッタは思った。優先順位だ。この男の中で、今の自分は書類より下にある。
「座らなくていい」
ようやく彼が言った。
「はい」
「報告は読んだ。二通。侍従長のものと、司教のものだ」
「さぞ面白い読み物でしたでしょう」
「一通目は君を無礼と書き、二通目は君を残虐と書いていた」
彼はペンを置いた。
「三通目がある。財務卿からだ。孤児院の石炭の件を調べさせろと。……王領内の慈善施設が七つ、同じ商会と契約している」
「まあ」
「君のおかげで、七つの施設の帳簿が開く。石炭だけで年に百ポンド。他の綻びを合わせれば四百に届くと、財務卿は見ている」
「光栄ですわ」
「褒めてはいない」
アルベールが立ち上がった。窓の外は雪だった。
「事実を並べただけだ。君は有用な仕事をした。同時に、王家の慈善行事を葬式に変えた。差し引きがどうなるかを、私は今日ここで決めなければならない」
――さて。
氷点下の色が、静かに回っている。計算。損得。感情の混入は一片もない。
ヴィオレッタは、それを見て少しだけ安心した。世界でいちばん信用できるのは、こういう心だ。
「ヴィオレッタ」
「はい」
「君の目は、当てにならないのか」
◇
部屋の温度が、また一段下がった気がした。
「……何のお話ですの」
「とぼけるな。私は君の能力を買った。人の中身が視えるという、その一点だけを買った。それ以外に君を娶る理由がないことは、君も承知しているはずだ」
「ええ」
「あの日、君は罠にかかった」
アルベールは振り返った。
「エステル嬢が前日に孤児院を訪ねていたことを、君は知らなかった。当日の広間で、君は逃げ道を全部塞がれていた。……その程度の仕掛けを、君は読めなかったのか」
ヴィオレッタは、口を開いた。
ここで言うべき言葉は、決まっていた。
「読んでおりましたが、間に合いませんでした」でもいい。「あの女は特殊です」でもいい。「油断いたしました」でもいい。どれを言っても、この男は舌打ちひとつで済ませただろう。婚約は続き、明日も同じ日々が続く。
彼女は答えた。
「いいえ。読めておりません」
アルベールの眉が、わずかに動いた。
「一片も。前日の訪問も、あの問いも、あの女が何を考えて膝をついたのかも。……何ひとつ、視えませんでした」
「壊れたのか」
「壊れておりません。鮮明でした」
彼女は自分の声が平坦であることに、他人事のように感心した。
「あの女の中には、悪意がございませんの。憐憫と、敬意と、当惑だけ。……ですから、視えるものが何もなかったのです」
沈黙が落ちた。
「君は」
アルベールが、ゆっくりと言った。
「今、嘘をつけば助かったな」
「ええ」
「なぜつかなかった」
「つけませんもの」
ヴィオレッタは、顎を上げた。
「殿下。わたくしを買われたのでしょう。壊れているかもしれない道具を、壊れていないと偽って売りつけるのは、詐欺と申しますのよ」
◇
アルベールは、長いこと彼女を見ていた。
その氷の中で、何かが一度だけ、ゆっくりと回転した。
――使える。まだ使える。
――だが、証明が要る。
「結構だ」
彼は椅子に戻った。
「婚約は保留とする。破棄ではない。保留だ」
「……保留」
「ふた月ある。建国祭までだ。それまでに、君は自分の目が壊れていないことを証明しろ。できなければ、私はエステル嬢を選ぶ」
「あの女を、王妃になさると」
「彼女は有能で、人望があり、教会が推している。今のところ、私が君を選ぶ理由のほうが薄い」
アルベールは書類を引き寄せた。話は終わりだという合図だった。
「ヴィオレッタ。誤解のないように言っておく」
「はい」
「私は君を嫌ってはいない。むしろ、この宮廷で唯一まともに話せる人間だと思っている」
――だが、それだけでは選べない。
心の声のほうが、正確だった。
「存じておりますわ」
ヴィオレッタは礼をして、扉に向かった。
背中に、彼が言った。
「ひとつ訊いていいか」
「なんですの」
「あの日、なぜ『ええ』と言わなかった」
彼女は振り返らなかった。
「殿下。わたくしがそう申しておりましたら、殿下は今日、わたくしをお呼びになりまして?」
沈黙。
「……いや」
「ではそういうことですわ」
◇
自室に戻ると、マリアンヌが暖炉に薪をくべていた。
――ざまあみろ。
真っ赤な色が、扉を開けた瞬間から飛んできた。
「ご機嫌ね」
「はい。とても」
マリアンヌは振り返りもしなかった。この娘は、ヴィオレッタの前で嘘をつくのをとうにやめている。それが彼女を側に置いている唯一の理由だった。
「マリアンヌ」
「はい」
「毛布を二十枚、あの孤児院へ送りなさい。北向きの部屋を使うのはやめさせて、南の物置を寝室に改装させること。費用は父の名でよろしくてよ」
マリアンヌの手が、止まった。
「……お詫びのおつもりですか」
「まさか」
ヴィオレッタは椅子に沈み込んだ。
「凍えられては寝覚めが悪いだけですわ。それに、贈り主の名は伏せてはなりません。ヴィオレッタ・ド・アルヴェールと、はっきり書かせなさい」
「なぜです」
「あの子に『あの女は嫌いだと言ったくせに毛布を寄越した』と思わせるためですの」
彼女は目を閉じた。
「わたくしを好きになる必要はございませんわ。ただ、わからなくなればよろしい。人は、わからないものを忘れませんもの」
マリアンヌの心が、ぐちゃぐちゃに濁った。
――最低。
――本当に、最低の人。
――……でも、あの子は暖かい部屋で寝られる。
いい色だ、とヴィオレッタは思った。
◇
「マリアンヌ。ひとつお訊きしますわ」
「はい」
「お前、あの日、エステル様をどう見ましたの」
マリアンヌは薪を置いた。しばらく黙っていた。
「……申し上げてよろしいので」
「嘘だけは許しませんわ」
彼女は振り返った。真正面から。
「わたくしには、計算に見えました」
ヴィオレッタは、目を開けた。
「あの方は、膝をおつきになる前に、一度だけ広間を見回されました。誰が見ているかを確かめるように。それから床に落ちて、あの子を抱いて、それから顔を上げて、いちばん大きな声の出る向きに体を向けられました」
マリアンヌは、憎悪の色を隠しもせずに続けた。
「わたくしは、下位の家の娘です。人の顔色を読んで生きてまいりました。……あれは、見せる動きでございます」
ヴィオレッタは、動かなかった。
「……お前、あの女の心が読めますの」
「まさか。そんな力はございません」
「では、なぜ」
「動きを見ただけでございます」
◇
その夜、ヴィオレッタは一睡もしなかった。
窓辺に立ち、雪の落ちるのを見ながら、彼女は同じ問いを何百回も転がした。
自分は、エステル・ド・ヴァレンヌの内側を正確に読んだ。憐憫。敬意。当惑。嘘は一片もなかった。それは今も確信できる。
マリアンヌは、心など読めない。読めない娘が、外側だけを見て「計算だ」と言った。
どちらかが間違っている。
――いいえ。
彼女は、氷のような窓硝子に指を当てた。
両方が正しいとしたら?
もしあの女の内側に本当に悪意がなく、それでいて動きが計算だったとしたら。それは、いったい何なのか。
名前がなかった。
ヴィオレッタは17年かけて、この世の醜さに片端から名前をつけてきた。憎悪。嫉妬。保身。虚栄。名前をつければ、それは扱えるものになった。だから彼女は誰ひとり恐れなかった。
名前のないものが、ふた月後に王妃になろうとしている。
「……ふふ」
彼女は笑った。
王妃の座など、どうでもよかった。アルベールに捨てられることも、教会に憎まれることも、宮廷中に嗤われることも、正直まったく興味がない。
耐えられないのは、たったひとつだけだった。
わたくしの目が、当てにならないかもしれない。
それだけは、絶対に許せない。
「マリアンヌ!」
扉の外で、寝間着の侍女が飛び上がる気配がした。
「馬車を出しなさい。夜が明けたらすぐに」
「……こんな時刻に、どちらへ」
ヴィオレッタは振り返った。
笑っていた。三日ぶりに、心の底から。
「塔ですわ」
◇
北の塔には、囚人が一人だけいる。
この世界を「原作」と呼び、未来を知っていると信じ、そして未来どおりにならずに落ちた女。
あの女なら知っているかもしれない。
エステル・ド・ヴァレンヌという名の令嬢が、筋書きに載っていたかどうかを。
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