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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第1章

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9/10

第8話 査定

 三日で、宮廷の言葉が入れ替わった。


 ――子どもを泣かせたそうだ。

 ――しかも「好きではない」と面と向かって。

 ――教会が黙っておるまい。


 もっとも、全員がそう言ったわけではない。


 ――だが石炭の件は事実だぞ。院長が18年、業者に抜かれておった。

 ――誰も気づかなんだのか。

 ――誰も、帳簿など見ておらぬからな。


 ヴィオレッタは回廊を歩きながら、その両方を等しく読んでいた。前者は上品な声で、後者は苦い声で語られる。どちらも本音だった。


 人は、正しさと好悪を平気で切り離せる。彼女はそれを17年かけて確かめてきた。


 三日目の午後、王太子から呼び出しが来た。


   ◇


 東棟の執務室は、暖炉が焚かれていなかった。


 アルベールは書類から顔を上げなかった。ヴィオレッタが扉を閉め、礼をし、三十秒立ち続けても、彼は羽根ペンを置かなかった。


 これは罰ではない、とヴィオレッタは思った。優先順位だ。この男の中で、今の自分は書類より下にある。


「座らなくていい」


 ようやく彼が言った。


「はい」


「報告は読んだ。二通。侍従長のものと、司教のものだ」


「さぞ面白い読み物でしたでしょう」


「一通目は君を無礼と書き、二通目は君を残虐と書いていた」


 彼はペンを置いた。


「三通目がある。財務卿からだ。孤児院の石炭の件を調べさせろと。……王領内の慈善施設が七つ、同じ商会と契約している」


「まあ」


「君のおかげで、七つの施設の帳簿が開く。石炭だけで年に百ポンド。他の綻びを合わせれば四百に届くと、財務卿は見ている」


「光栄ですわ」


「褒めてはいない」


 アルベールが立ち上がった。窓の外は雪だった。


「事実を並べただけだ。君は有用な仕事をした。同時に、王家の慈善行事を葬式に変えた。差し引きがどうなるかを、私は今日ここで決めなければならない」


 ――さて。


 氷点下の色が、静かに回っている。計算。損得。感情の混入は一片もない。


 ヴィオレッタは、それを見て少しだけ安心した。世界でいちばん信用できるのは、こういう心だ。


「ヴィオレッタ」


「はい」


「君の目は、当てにならないのか」


   ◇


 部屋の温度が、また一段下がった気がした。


「……何のお話ですの」


「とぼけるな。私は君の能力を買った。人の中身が視えるという、その一点だけを買った。それ以外に君を娶る理由がないことは、君も承知しているはずだ」


「ええ」


「あの日、君は罠にかかった」


 アルベールは振り返った。


「エステル嬢が前日に孤児院を訪ねていたことを、君は知らなかった。当日の広間で、君は逃げ道を全部塞がれていた。……その程度の仕掛けを、君は読めなかったのか」


 ヴィオレッタは、口を開いた。


 ここで言うべき言葉は、決まっていた。


「読んでおりましたが、間に合いませんでした」でもいい。「あの女は特殊です」でもいい。「油断いたしました」でもいい。どれを言っても、この男は舌打ちひとつで済ませただろう。婚約は続き、明日も同じ日々が続く。


 彼女は答えた。


「いいえ。読めておりません」


 アルベールの眉が、わずかに動いた。


「一片も。前日の訪問も、あの問いも、あの女が何を考えて膝をついたのかも。……何ひとつ、視えませんでした」


「壊れたのか」


「壊れておりません。鮮明でした」


 彼女は自分の声が平坦であることに、他人事のように感心した。


「あの女の中には、悪意がございませんの。憐憫と、敬意と、当惑だけ。……ですから、視えるものが何もなかったのです」


 沈黙が落ちた。


「君は」


 アルベールが、ゆっくりと言った。


「今、嘘をつけば助かったな」


「ええ」


「なぜつかなかった」


「つけませんもの」


 ヴィオレッタは、顎を上げた。


「殿下。わたくしを買われたのでしょう。壊れているかもしれない道具を、壊れていないと偽って売りつけるのは、詐欺と申しますのよ」


   ◇


 アルベールは、長いこと彼女を見ていた。


 その氷の中で、何かが一度だけ、ゆっくりと回転した。


 ――使える。まだ使える。


 ――だが、証明が要る。


「結構だ」


 彼は椅子に戻った。


「婚約は保留とする。破棄ではない。保留だ」


「……保留」


「ふた月ある。建国祭までだ。それまでに、君は自分の目が壊れていないことを証明しろ。できなければ、私はエステル嬢を選ぶ」


「あの女を、王妃になさると」


「彼女は有能で、人望があり、教会が推している。今のところ、私が君を選ぶ理由のほうが薄い」


 アルベールは書類を引き寄せた。話は終わりだという合図だった。


「ヴィオレッタ。誤解のないように言っておく」


「はい」


「私は君を嫌ってはいない。むしろ、この宮廷で唯一まともに話せる人間だと思っている」


 ――だが、それだけでは選べない。


 心の声のほうが、正確だった。


「存じておりますわ」


 ヴィオレッタは礼をして、扉に向かった。


 背中に、彼が言った。


「ひとつ訊いていいか」


「なんですの」


「あの日、なぜ『ええ』と言わなかった」


 彼女は振り返らなかった。


「殿下。わたくしがそう申しておりましたら、殿下は今日、わたくしをお呼びになりまして?」


 沈黙。


「……いや」


「ではそういうことですわ」


   ◇


 自室に戻ると、マリアンヌが暖炉に薪をくべていた。


 ――ざまあみろ。


 真っ赤な色が、扉を開けた瞬間から飛んできた。


「ご機嫌ね」


「はい。とても」


 マリアンヌは振り返りもしなかった。この娘は、ヴィオレッタの前で嘘をつくのをとうにやめている。それが彼女を側に置いている唯一の理由だった。


「マリアンヌ」


「はい」


「毛布を二十枚、あの孤児院へ送りなさい。北向きの部屋を使うのはやめさせて、南の物置を寝室に改装させること。費用は父の名でよろしくてよ」


 マリアンヌの手が、止まった。


「……お詫びのおつもりですか」


「まさか」


 ヴィオレッタは椅子に沈み込んだ。


「凍えられては寝覚めが悪いだけですわ。それに、贈り主の名は伏せてはなりません。ヴィオレッタ・ド・アルヴェールと、はっきり書かせなさい」


「なぜです」


「あの子に『あの女は嫌いだと言ったくせに毛布を寄越した』と思わせるためですの」


 彼女は目を閉じた。


「わたくしを好きになる必要はございませんわ。ただ、わからなくなればよろしい。人は、わからないものを忘れませんもの」


 マリアンヌの心が、ぐちゃぐちゃに濁った。


 ――最低。

 ――本当に、最低の人。

 ――……でも、あの子は暖かい部屋で寝られる。


 いい色だ、とヴィオレッタは思った。


   ◇


「マリアンヌ。ひとつお訊きしますわ」


「はい」


「お前、あの日、エステル様をどう見ましたの」


 マリアンヌは薪を置いた。しばらく黙っていた。


「……申し上げてよろしいので」


「嘘だけは許しませんわ」


 彼女は振り返った。真正面から。


「わたくしには、計算に見えました」


 ヴィオレッタは、目を開けた。


「あの方は、膝をおつきになる前に、一度だけ広間を見回されました。誰が見ているかを確かめるように。それから床に落ちて、あの子を抱いて、それから顔を上げて、いちばん大きな声の出る向きに体を向けられました」


 マリアンヌは、憎悪の色を隠しもせずに続けた。


「わたくしは、下位の家の娘です。人の顔色を読んで生きてまいりました。……あれは、見せる動きでございます」


 ヴィオレッタは、動かなかった。


「……お前、あの女の心が読めますの」


「まさか。そんな力はございません」


「では、なぜ」


「動きを見ただけでございます」


   ◇


 その夜、ヴィオレッタは一睡もしなかった。


 窓辺に立ち、雪の落ちるのを見ながら、彼女は同じ問いを何百回も転がした。


 自分は、エステル・ド・ヴァレンヌの内側を正確に読んだ。憐憫。敬意。当惑。嘘は一片もなかった。それは今も確信できる。


 マリアンヌは、心など読めない。読めない娘が、外側だけを見て「計算だ」と言った。


 どちらかが間違っている。


 ――いいえ。


 彼女は、氷のような窓硝子に指を当てた。


 両方が正しいとしたら?


 もしあの女の内側に本当に悪意がなく、それでいて動きが計算だったとしたら。それは、いったい何なのか。


 名前がなかった。


 ヴィオレッタは17年かけて、この世の醜さに片端から名前をつけてきた。憎悪。嫉妬。保身。虚栄。名前をつければ、それは扱えるものになった。だから彼女は誰ひとり恐れなかった。


 名前のないものが、ふた月後に王妃になろうとしている。


「……ふふ」


 彼女は笑った。


 王妃の座など、どうでもよかった。アルベールに捨てられることも、教会に憎まれることも、宮廷中に嗤われることも、正直まったく興味がない。


 耐えられないのは、たったひとつだけだった。


  わたくしの目が、当てにならないかもしれない。


 それだけは、絶対に許せない。


「マリアンヌ!」


 扉の外で、寝間着の侍女が飛び上がる気配がした。


「馬車を出しなさい。夜が明けたらすぐに」


「……こんな時刻に、どちらへ」


 ヴィオレッタは振り返った。


 笑っていた。三日ぶりに、心の底から。


「塔ですわ」


   ◇


 北の塔には、囚人が一人だけいる。


 この世界を「原作」と呼び、未来を知っていると信じ、そして未来どおりにならずに落ちた女。


 あの女なら知っているかもしれない。


 エステル・ド・ヴァレンヌという名の令嬢が、筋書きに載っていたかどうかを。

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― 新着の感想 ―
…本人も自覚していない感情は読めない、とか? マリアンヌ様がいい女すぎる
自分の行いを心から正当化出来ちゃう人はいるものね。セルフ洗脳。
この能力が弱いのは、洗脳に対して無力なことですね。 心の底から「そう」思えば良く、動作はこういうときに「見せる」癖を付ければ思考は挟まないので。
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