第9話 取引
塔の門は、開かなかった。
夜明け前に馬車を出させ、雪の街道を二時間走らせて、ヴィオレッタが得たものは衛兵の一礼だけだった。
「面会許可の書状を」
「持っておりませんわ」
「では、お通しできませぬ」
その男の内側には、恐怖も媚びも迷いもなかった。ただ、規則があるだけだった。
――書状のない者は通さぬ。
悪くない色ですこと、とヴィオレッタは思った。
思ったところで、門は開かなかった。
◇
東棟の執務室に着いたのは、正午だった。
アルベールは書類から顔を上げなかった。
「塔へ行ったそうだな」
「門前払いでしたわ」
「当然だ。一度きりと書いた」
「もう一度、書いていただきたいのです」
羽根ペンが止まった。
彼は顔を上げた。氷点下の目で。
「理由を」
ヴィオレッタは口を開こうとして、そこで自分が詰んでいることに気づいた。
適当な理由を言えば済む話だった。囚人の処遇の確認でも、教会の動向でも、何でもいい。
その一言が、言えない。
「……あの女が」
彼女は言った。
「エステル・ド・ヴァレンヌが、筋書きに載っていたかを確かめたいのですわ」
「筋書き」
「北の塔の女は、この世界を物語だと申しております。登場人物も、結末も、全部知っていると。……もし、あの方がその中にいたのなら」
説明は要らなかった。あの断罪の場で「予言とは申しませんのよ、計画と申しますの」と言ったのは、この自分だ。
「なるほど」
彼は、あっさりと言った。
そして新しい紙を引き寄せ、書き始めた。
◇
――早い。
ヴィオレッタは、内心で眉を寄せた。
この男は必ず値をつける。損得を計り、優先順位を並べ、そのうえで一段安いほうを選ぶ。それが17年見てきたこの男の作りだった。
なのに今、渋りもせずにペンを走らせている。
彼女は、その内側を覗いた。
――行かせろ。
――行かせて、聞いてこさせろ。
温度はなかった。いつもどおりだった。ただ、算盤の玉が、いつもより一つ速く動いていた。
「殿下」
「なんだ」
「ずいぶん、気前がよろしいのね」
「条件がある」
彼は書状を折った。
「聞いたことを、全部私に話せ」
「……全部」
「一言残らずだ。要約も、省略も許さん。君は嘘をつけない。だから君に約束させるのは、この宮廷で唯一、意味のある行為だ」
ヴィオレッタは、書状を受け取った。
悪い取引ではない、と思った。
思いながら、指先が少しだけ冷たかった。
◇
独房は、前と同じだった。
卓と、寝台と、燭台。窓の格子。栗色の髪の女が、同じ椅子に座っている。
「あ」
セシリアが顔を上げた。
「ひと月ぶりだね。二十三日」
「……数えておいでですの」
「他にすることないもん」
◇
「手紙は、出しましたわ」
ヴィオレッタは椅子に腰を下ろした。
「約束どおり、封は切っておりません」
「ありがとう」
「ですけれど、宛名は目に入りましたの。……王都の、銀鍵亭の主人宛て」
セシリアの表情は動かなかった。
「調べさせましたわ。あの宿の主人は、金を払えば誰の手紙でも預かりますの。取りに来た者に渡すだけ。誰が来たかは覚えていないと申しておりました」
「うん。そういう店を選んだから」
「返事は」
「まだ」
セシリアは、燭台の火を見た。
「でも、来るよ」
◇
「本題ですわ」
ヴィオレッタは扇を畳んだ。
「エステル・ド・ヴァレンヌ。侯爵令嬢。17歳。第二の妃候補。……あなたの筋書きに、この名前はございまして?」
女の目が、細くなった。
考えている。数を数えてはいない。本当に、記憶を探している。
「エステル」
「ええ」
「……いた気もする」
彼女は眉を寄せた。
「ごめん。モブは覚えてないの」
「モブ」
「名前のある人以外。……ううん、名前があっても、筋に絡まない人は覚えてない」
「思い出しなさい」
「無理だよ」
セシリアは、あっさりと言った。
「最近ね、思い出せないの」
◇
「読んだのがずっと前だから、っていうのもあるんだけど」
彼女は自分の指を見た。
「それだけじゃない気がする。……前は、断罪のとき誰が何て言ったかまで覚えてた。今は、あなたの名前とわたしの名前と、階段のことくらい」
ヴィオレッタは、その内側を覗いた。
嘘はなかった。
あるのは薄い、乾いた色だった。焦りですらない。手のひらから何かがこぼれ落ちているのを、ぼんやり見ている人間の色。
「……消えておりますのね」
「たぶん」
「なぜ」
「知らない。訊く相手もいないし」
セシリアは笑った。
「だからさ、早く来てほしかったの。わたしがまだ何か覚えてるうちに」
◇
「値を伺いますわ」
「そうだね」
彼女は少し考えた。
「――あなたが、誰かの『同じ声』を見つけたら。必ず、わたしに教えて」
「それだけですの」
「それだけ」
「安いこと」
「安くないよ」
セシリアは、まっすぐにこちらを見た。
「あなた、これから一生、人の声を聞き分けながら生きるんだよ。二百人ぶん、毎日。……それ、わたしのために働くってことだから」
ヴィオレッタは、しばらく黙っていた。
なるほど、と思った。
この娘は、値のつけ方を知っている。
「よろしくてよ」
◇
「じゃあ、教えてあげる」
セシリアは、卓に肘をついた。
「その女が転生者かどうかは、会えばわかる。あなたにだけは、絶対にわかる」
「なぜ」
「喋るぶんには、たぶん誰とも同じ。でも、心の中で考えるときだけ、前の言葉が出るの。……あなたが聞いてる『響きの違い』って、それでしょ」
ヴィオレッタは、扇を握った。
彼女はこの女の声を、最初に聞いたときからずっと遠いと思っていた。石壁のせいだと思っていた。聖女という肩書きが分厚いのだと思っていた。壁だと思って、その向こうを覗こうとしたことが一度もなかった。
「なぜ、そうなりますの」
「知らないってば」
セシリアは、少し苛立った。
「訊く相手がいないんだもん。ずっと、わたし一人だったんだから」
「では」
「うん。逆に言うと」
セシリアは、少しだけ気の毒そうな顔をした。
「その女の声が、他の人と同じ響きだったなら。それは、こっちの人間。それだけは断言できる」
◇
「ねえ」
セシリアが言った。
「なんでその女のこと、そんなに気にするの」
答えなくてもよかった。
答える義理はなかったし、この女に手の内を見せる理由もなかった。
だが彼女は、嘘をつけない。黙るという選択肢は、いつも一等はっきりした返事になる。
「……読めませんの」
「え」
セシリアが、目を丸くした。
「心読めるあなたが? 読めない人がいるの?」
「読めております。鮮明に。ただ、色がございませんの。表と内が、寸分違わず同じところに置いてありますのよ」
「へえ」
彼女は少し考えて、それから、あっさりと言った。
「それ、その人が嘘ついてないだけじゃないの?」
ヴィオレッタは、扇の縁を指でなぞった。
「……そのようなものが、この世におりますものか」
「いないの?」
「おりませんわ」
「ふうん」
セシリアは、それ以上言わなかった。
言わないので、ヴィオレッタもそれ以上考えなかった。
◇
帰りの馬車で、ヴィオレッタはマリアンヌに話しかけた。
中身は何でもよかった。塔の階段の段数の話をした。マリアンヌは目を伏せたまま、必要最小限の返事をした。
――さっさと降りたい。この方の隣は寒い。
近かった。
声はすぐそこで鳴っていた。隔たりも、遅れもない。汚くて、ぐちゃぐちゃで、まっすぐ耳元で鳴っている。
道具は、動いた。
◇
建国祭の支度で、王城の大広間には長机が並べられていた。
燭台の数、花の色、教会に納める布の丈。老女官が読み上げ、令嬢たちが順に意見を述べる。エステルは机の向こう側で、布の見本を一枚ずつ、丁寧に指で撫でていた。
ヴィオレッタは、頃合いを計った。
人前を選んだ。この娘は、見られていてもいなくても同じことをする。ならば見られている場所で構わなかった。
「わたくし、殿下の攻略に失敗いたしましたのね」
場が、止まった。
――攻略?
――城でもお落としになるおつもりかしら。
――言葉をお選びになればよろしいのに。あの方らしいけれど。
令嬢の使う語ではなかった。ヴィオレッタは構わなかった。彼女は一点だけを見ていた。
エステルは、小首を傾げた。
「攻略、と申しますと」
――攻め落とす、という意味だったかしら。軍のお話?
近かった。
声はすぐそこで鳴っていた。石を一枚も隔てていない。遅れも、歪みも、余りもない。目の前の娘が、目の前で困っているだけだった。
ヴィオレッタは、もう一度投げた。
「北の塔の、セシリア」
「まあ」
エステルは布から手を離し、両手を胸の前で合わせた。
「あの方、いまはどうしていらっしゃるのかしら。……わたくし、一度もお会いしたことがございませんの」
――お寒いでしょうね。北向きですもの。
それだけだった。
この娘の内側は、たしかに動いた。動いて、そして、北向きの部屋は寒いという、それだけの色になった。
抑揚も、間の取り方も、語尾の落ち方も、この城の他の百九十九人と寸分違わない。
異物は、どこにもいなかった。
◇
「エステル様」
「はい」
「あなた、ご自分のことを普通の人間だとお思い?」
エステルは、きょとんとした。
それから、少し困ったように笑った。
「はい。とても」
――本当に、そう思う。
◇
「――以上ですわ」
語り終えるのに、一時間近くかかった。
アルベールは一度も遮らなかった。窓の外を見たまま、最後まで聞いていた。
「転生者は、心の中でだけ元の言葉を使う」
「そう申しておりました」
「君にはそれが聞こえる」
「ええ」
「この城で、君だけが」
「……そうなりますわね」
アルベールは、何も言わなかった。
ヴィオレッタは、その内側を覗いた。
算盤の玉が、動いていた。速く、正確に、いつもの倍の速さで。
彼女はその動きを追った。
追って、意味が取れなかった。
この男が今、何と何を秤にかけているのかが分からない。損得が並んでいることは分かる。並んでいる項目が読めない。
――妙ですこと。
彼女は、それを妙だと思っただけだった。
「よくやった」
アルベールが言った。
褒め言葉だった。この男の口から出たのは、たぶん初めてだった。
「殿下」
「なんだ」
「わたくし、褒められるようなことは何もいたしておりませんわ」
「そうだな」
彼は書類に戻った。
「訂正する。――役に立った」
◇
自室に戻って、ヴィオレッタは椅子に沈んだ。
二度目の塔で、書状を一通と、約束をひとつ支払った。得たものは、説明がひとつ消えたという事実だけだった。
あの娘は転生者ではない。
演じているのでもない。筋書きを知っているのでもない。ただの、17の侯爵令嬢である。
それでいて、内側に濁りがひとつもない。
彼女は暖炉の火を見た。
――では、なぜ読めませんの。
答えは出なかった。
出ないので、彼女は別の問いに切り替えた。この娘の頭は、答えの出ない問いを長く抱えていられるようにできていない。
――誰が、あの方をいちばん近くで見ておりまして?
教会だ。
あの娘を見つけ、推し、この盤に載せた男がいる。この盤に載る前から、何年も見ているはずだ。
ヴィオレッタは、椅子から立ち上がった。
ひと月あまり前、マリアンヌに問われて自分が何と答えたかを、彼女はよく覚えていた。潰しても次が来る。だから泳がせておけばよろしい。手の内の見えている敵ほど、退屈しのぎに向いたものはございませんわ。
「……ええ。次が来ますものね」
彼女は笑った。
「ですから、今のうちですわ」
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