第10話 見える人
南街区に女がいることなら、ひと月あまり前から知っている。
晩餐の席で、あの男の内側から拾った。献金の一部が城の外れの家へ流れ、そこに女が囲われている。脅すには、じゅうぶんだった。実際、ひと月そうしてきた。あの男は自分がいつ切られるか分からないまま、毎晩天井を睨んでいたはずだ。
だが、人前で殺すには足りない。
噂は、噂と言い返せる。人の頭から拾ったものを、円卓に出すことはできない。
だからヴィオレッタが最初にしたのは、父に手紙を書くことだった。
公爵家は、毎年500ポンドを教会に納めている。献金者は、会計の報告を請求する権利を持つ。誰も請求しないので、その権利があることを覚えている者もいない。
写しは、四日で届いた。
彼女は三晩かけて、それを読んだ。
◇
教会の帳簿は、想像していたよりよくできていた。
流用の痕跡がない。数字は合っている。慈善基金の支出は、施療院、孤児院、修道院の修繕、貧民への配給。どれも実在し、どれも金額が妥当だった。
ヴィオレッタは、そこに感心した。
――上手ですこと。
人は、盗むときに数字をいじる。いじれば必ず歪みが出る。この帳簿には歪みがなかった。つまり、この男は数字をいじっていない。
いじらずに抜いているのだ。
実在する支出の中に、実在しないものを一つ紛れ込ませている。それが最も安全な手口で、最も見つけにくい。妃教育の帳簿演習で老女官が並べた架空の領地にも、同じ形の穴が一つあった。
彼女は、支出の一覧を家屋の名で並べ替えた。
王都南街区、柳小路。教会が借り上げている家作が一軒ある。用途は「貧民救済のための宿坊」。年に48ポンド。
柳小路に、庭のある家は一軒しかない。
◇
「マリアンヌ」
「はい」
「王都の登記所へお行きなさい。柳小路の家作の、借主の名を写してらっしゃい」
侍女は、しばらく動かなかった。
「……わたくしが、でございますか」
「顔を知られておりませんもの。子爵家の娘なら、書記官も警戒いたしませんわ」
「お断りしたら」
「なさいませんでしょう」
ヴィオレッタは、髪を梳きながら言った。
「お前は、この話の続きが見たいはずですわ」
マリアンヌの内側が、真っ赤に染まった。
――この人は。
――本当に、人を使うのがうまい。
いい色ですこと、と彼女は思った。
◇
名は、二日で戻ってきた。
ジョゼフ・ドロワ。フェリクス司教の甥。
その男は、5年前に死んでいた。
◇
礼拝堂を選んだのは、そこが最も静かだったからだ。
夕刻の祈りが終わり、蝋燭が半分落とされ、人の色が消えていた。壁が厚いせいか、この城で唯一、外の声が届かない場所である。
フェリクス司教は、扉のところで足を止めた。
――なぜ、この女が。
「司教様。お呼び立ていたしまして」
「……なんの御用でございましょう」
「柳小路の宿坊のお話ですわ」
男の内側から、色が全部抜けた。
ヴィオレッタは、それを丁寧に味わってから、紙を三枚、祭壇の縁に並べた。
「教会の会計報告。柳小路の家作の登記。それから、ジョゼフ・ドロワ様の埋葬記録でございます」
「……」
「死んだ方が、5年にわたって家を借りていらっしゃいますの。家賃は慈善基金から。年に48ポンド。5年で240ポンドですわね」
沈黙が落ちた。
「宿坊とは名ばかりで、貧民は一人も泊まっておりませんわ。庭のある家に住んでいるのは、お一人だけ。……女ですわね」
「……」
「わたくしの目は、証拠になりませんわ」
彼女は言った。
「ですけれど、紙は証拠になりますのよ」
◇
司教は、崩れなかった。
膝もつかず、言い訳もせず、ただ祭壇の縁の紙を見ていた。ヴィオレッタは、その内側を覗いた。
――終わった。
――ああ、終わった。
諦めの色だった。純度が高く、乾いていて、抵抗の意思がどこにもない。
この男はひと月のあいだ、いつ切られるかを考えながら眠ってきたのだ。切られる瞬間が来て、むしろ楽になっている。
悪くない色ですこと、とヴィオレッタは思った。
思いながら、少しだけ間が悪かった。
◇
「ひとつだけ、伺いますわ」
「……なんなりと」
「エステル・ド・ヴァレンヌを、どこでお見つけになりまして」
司教が、顔を上げた。
その内側に、初めて別の色が入った。困惑である。
「見つけた、とは」
「教会が推された娘でございましょう。誰かがどこかで見出したはずですわ。……何年、ご覧になっておいでですの」
「3年」
「3年」
「はい」
司教は、少し考えるように言った。
「3年前の、慈善会でございます。……ですが、見つけたのではございませぬ」
「では」
「あの娘のほうから、参りました」
◇
ヴィオレッタは、扇を止めた。
「向こうから?」
「はい。侯爵家の御息女が、御一人で。……教会に、寄付をなさりたいと」
司教は、遠くを見た。追想の色だった。今この瞬間、彼は本当にそのときのことを思い出している。
「額は、大きなものではございませんでした。ですが、あの娘はこう申しましたのです」
彼の口が動いた。
「――教会が案じておられるのは、金子ではございませんでしょう。この国の未来を担われる方が、どのようなお心をお持ちであるか。そればかりだと存じます、と」
◇
礼拝堂の空気が、動いた気がした。
ヴィオレッタは、その言葉を知っていた。
この冬の慈善晩餐で、この男が四十人の前で述べた口上である。杯を掲げ、下座を睨みながら、いかにも自分の言葉として。
「司教様」
「はい」
「その台詞、先日の晩餐でも仰いましたわね」
司教は、きょとんとした。
それから、当たり前のように頷いた。
「さようでございましたか。……年寄りは、同じことを申しますゆえ」
彼の内側には、何もなかった。
盗んだ意識がない。借りた意識すらない。3年前に人から入れられた言葉を、自分の言葉として3年使い、そのことに一度も気づいていない。
◇
「では、もうひとつ」
ヴィオレッタの声は、平坦だった。
「あの方の中身を、司教様はご存じですの」
「中身」
「本性でも、腹の内でも、何でもよろしくてよ。3年ご覧になって、何をお知りになりまして」
フェリクス司教は、答えるまでに時間をかけなかった。
「清らかな方でございます」
嘘は、なかった。
「わたくしは、六十年生きてまいりました。人の欲を、飽きるほど見てまいりました。……あの方には、欲がございませぬ」
――だから、あれを立てた。
――誰にも叩けぬ。この女にも叩けぬ。
――それだけは、間違うておらぬ。
ヴィオレッタは、祭壇の縁に手をついた。
この男は、六十年ぶんの目で見ている。自分は17年ぶんの目で視ている。二人とも同じ結論に達していて、二人とも同じところで止まっている。
――何も、出てこない。
◇
彼女は、しばらく黙っていた。
黙りながら、勘定をしていた。
この男を潰しても、エステルについては何ひとつ手に入らない。潰さずに帰れば、この男は明日から自分に忠実な駒になる。恐怖で縛られた駒ほど、扱いやすいものはない。
どう計算しても、潰さないほうが得だった。
彼女は、口を開いた。
「明日、これを陛下に上げますわ」
◇
言ってから、少しおかしくなった。
得なほうを選べない。
礼拝堂に呼びつけた時点で、彼女は「潰す」と決めていた。決めた以上、潰さずに帰るという道は残っていない。口にしたことをやらなかったことが、この娘には一度もない。
二年前、まだ公爵邸にいたころ、彼女は父にこう言われたことがある。
――お前は、賢いのに損をする。
そのときは意味が分からなかった。
「司教様」
「……はい」
「ひとつ、申し上げておきますわ」
ヴィオレッタは、紙を三枚まとめて拾い上げた。
「わたくし、性格が悪いんですの。ですから、嘘だけはつきませんのよ」
◇
三日後、フェリクス司教は職を解かれた。
教会は速かった。切り捨てる決断に、一日もかけなかった。埋葬記録という紙一枚を突きつけられて争う気のない老人を、庇う理由がどこにもなかったからだ。
王都には、新しい司教が来た。
名をレナールという。四十がらみの、痩せた、目の細い男だった。ヴィオレッタは着任の挨拶でその内側を覗き、そして――何も掴めなかった。
――前任者の不始末は承知しております。
――教会の信用を、一日も早く。
整っている。表と内が、ちょうどよく重なる程度にずれている。読める。読めるが、掴めるものがない。
この男は、まだ何も抱えていない。抱える前に着任したのだ。弱みは時間が作る。
時間が、ヴィオレッタにはなかった。
◇
「新司教は、エステル嬢を推している」
東棟で、アルベールが言った。
「前任者よりも強く、はっきりと。教会は、これを機に一本化するつもりだ」
「……左様でございますか」
「ヴィオレッタ」
彼は書類を置いた。
「君は、腐った司教を一人取り除いた。同時に、腐っていない司教を一人呼び込んだ。……差し引きを言え」
「損でございますわ」
「そうだ」
アルベールの内側で、算盤が動いた。今度は、いつもの速さだった。
「建国祭まで、ひと月半だ」
◇
その週、宮廷の色は一段悪くなった。
――とうとう司教様まで。
――教会に手を出す方が、王妃になられるのですか。
――あの方は、誰も残さぬおつもりよ。
誰も、48ポンドの話をしなかった。
死んだ甥の名で家を借りていた男の話も、5年で240ポンドの話もしなかった。宮廷が語ったのは、公爵令嬢が司教を一人葬った、という一行だけだった。
回廊で、桃色に行き合った。
「ヴィオレッタ様」
エステルの目は、赤かった。
「フェリクス様は、わたくしを見出してくださった方でしたの」
「……そうですわね」
――お寂しいこと。あんなにお年を召しておいでなのに。
「ヴィオレッタ様が、正しいことをなさったのは存じております」
彼女は、まっすぐに言った。
「ですから、わたくし、どうお慰め申し上げればよいのか分からないのです」
嘘は、なかった。
◇
行きかけて、エステルは足を止めた。
「あの、柳小路のお家は、これからどうなりますの」
「教会が引き上げますわ」
「では、お住まいの方は」
ヴィオレッタは、その言葉の意味を取るのに一拍かかった。
「……女が一人おりますわ」
「まあ」
エステルは、両手を胸の前で合わせた。
「その方、どちらへいらっしゃるのかしら」
――5年、あの家にいらしたのでしょう。
悪意はなかった。詮索でもなかった。この娘の内側にあるのは、行き先の分からない人間が一人いる、という事実に対する困惑だけだった。
「エステル様」
「はい」
「あなた、その女に会ったことがおありですの」
「ございません」
「では、なぜ」
エステルは、きょとんとした。
なぜ、と訊かれた意味が分からない、という顔だった。それから、思い出したように付け足した。
「ヴィオレッタ様は、お名前をご存じ?」
◇
ヴィオレッタは、口を開いた。
開いて、そこで止まった。
彼女は帳簿を三晩読んだ。家賃を読んだ。借主の名を読んだ。埋葬の年月日まで読んだ。読んだものは、一つ残らず正確に頭に入っている。
「……存じませんわ」
言葉は、そこにあるものしか出てこない。無いものを出すには、嘘をつくしかない。
「そうですの」
エステルは、それだけ言った。
責めなかった。悲しみもしなかった。ヴィオレッタが知らないと言ったことを、そのまま受け取っただけだった。
◇
自室に戻って、ヴィオレッタは紙を三枚、暖炉の前に置いた。
燃やす前に、もう一度めくった。
教会の会計報告に、女はいなかった。登記にあるのは、5年前に死んだ男の名だった。埋葬記録にあるのは、その男が死んだ日付だった。
名を書く欄が、どこにもない。
誰も書かなかったのだ。書く必要がなかったから。家賃さえ落ちていれば済むものに、人は名前を付けない。
彼女は、三枚を火に入れた。
◇
燃えるのを見ながら、彼女は今夜手に入れたものを数えた。
一。エステルは3年前、自分から教会に近づいた。
二。そのとき、司教の頭に一文を入れた。
三。司教はそれを自分の言葉だと思って3年使い、その一文を武器にして、この盤を作った。
三つとも、罪ではない。
寄付をした。正論を述べた。それだけである。誰に訊いても「立派な娘御ですこと」で終わる。ヴィオレッタが持っているのは、動きの形だけだ。いつだったか、マリアンヌが同じ種類のことを言った。
――見せる動き。
彼女は、火を見ていた。
3年前の慈善会。
その言葉を、彼女はどこかで聞いている。ごく最近、この城で、まったく別の文脈で。
誰かが「3年前の慈善会で失礼を申し上げましたわね」と言い、あの娘が微笑んで「忘れましたわ」と答えた。
そのあと、自分が鎌をかけた。
――十一月の九日でございます。午後の会で、朝から雨でした。夕方には霙になって。
ヴィオレッタは、椅子から立ち上がった。
「マリアンヌ。灯りを」
「まだお休みになりませんので」
「3年前の十一月九日に、あの方が誰と会ったかを調べますわ」
彼女は、机に向かった。
「忘れた日のことを、あれは天気まで覚えておりましたのよ」
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