第11話 規則
紙で分かることは、二日で尽きた。
王城の記録は、退屈なほどよく残っている。3年前の十一月九日、教会主催の慈善会。開催の届出、費用の按分、当日の献立、貸し出された燭台の数。ヴァレンヌ侯爵の名も、納めた額も、席次も残っていた。
残っていないものが、一つだけあった。
誰が、誰に、何を言ったか。
ヴィオレッタは、その帳面を閉じた。
あの言葉を口にした女の顔を、彼女は覚えていなかった。妃教育の休憩で茶を運んできた誰かが、「3年前の慈善会で、とんだ失礼を申し上げましたわね」と言った。言葉のほうは、抑揚まで正確に残っている。運んできた人間のほうが、残っていない。
「マリアンヌ」
「はい」
「女官所で、慈善会当日の配置表を出させてらっしゃい。給仕と取次の割り当てですわ」
「……またお使いでございますか」
「お前は、字が読めますでしょう」
侍女は、しばらく黙っていた。
――なぜ、わたくしが。
――……知りたいのは、こちらも同じだけれど。
結構な色ですこと、と彼女は思った。
◇
名は、二十ばかり並んでいた。そのうち三人が、いまも王城にいた。
一人目は、慈善会そのものを覚えていなかった。二人目は、覚えていたが厨から出ていなかった。
三人目が、部屋に入ってきた瞬間に、ヴィオレッタは思い出した。
茶を置く手つきだった。
◇
「3年前の十一月九日。教会の慈善会に、お前は広間へ出ておりましたわね」
「……はい」
いつもの手だった。日付を投げてやれば、頭のほうが勝手に動く。
女の内側で、その日が持ち上がった。雨の色。濡れた外套の匂い。皿の音。
「順に仰い。朝から雨でしたわね」
「はい。午後の会でございましたが、皆さま馬車をお待たせになって……」
「エステル・ド・ヴァレンヌ様に、お前は失礼を申し上げましたわね」
色から、血が引いた。
――知っている。
――なぜ、いまさら。
「……申し上げました」
「何と」
女は、床を見た。
「腕章はどちらへ、と」
「腕章」
「ヴァレンヌ家の使用人は、左の手首に布を巻いております。あの日は侯爵家からも人が出ておりまして、その布の者が、厨と広間を行き来しておりましたので」
「その布を、あの方が巻いていらしたと?」
「いいえ」
女は、首を振った。
「巻いておいでではございませんでした。……ですが、侯爵様の三歩うしろを歩いておいででした。半歩でも、二歩でもなく」
彼女は、そこで一度言葉を切った。
「令嬢の歩き方では、ございませんでした」
◇
「それで」
「わたくしは、あの方の左の手首を掴みまして、厨へお回りなさい、と」
「人前で」
「……広間の入口でございます」
「何人おりまして」
「存じません。……三十人は」
ヴィオレッタは、扇を膝の上に置いた。
「侯爵は」
「すぐに参りました。娘だ、と仰って」
「お前は」
「膝をつきましてございます。床に額をつけて、お詫び申し上げました」
女の内側は、真っ直ぐに恥だった。3年、色が褪せていない。この女はこの話を、誰にも喋っていない。
「あの方は、何と」
「……悪気はございませんの、と」
ヴィオレッタの指が、扇の縁で止まった。
「それだけ?」
「わたくしの手を取って、お立たせになりました。それから、袖を直しておいででした」
「袖」
「左の、袖口を」
◇
「そのあと、あの方はどちらへ」
「存じません。ただ、しばらくお姿が見えませんでした。一時間ばかり」
「戻られたときは」
「フェリクス司教様と、ご一緒でございました」
女は顔を上げた。
「お二人とも、庭のほうから。……夕方でございます。雨が、霙になっておりました」
◇
女は最後に、自分の名を名乗った。処分を待つ者の作法である。
ヴィオレッタは頷いて、部屋を出た。
名は、廊下を曲がるまでに落ちた。
◇
その夜、彼女は妃教育の教室に入った。
誰もいない。卓が二つ、同じ向きに並んでいる。燭を一本だけ立てて、彼女は自分の側の席に着いた。
帳簿を読むときと、同じ姿勢だった。
順に並べる。
午後。人前で使用人と間違えられる。庭へ出る。一時間。司教のところへ行き、頭に一文を入れる。司教はそれを3年、自分の言葉だと思って使い、その一文で盤を作った。
ここまでは、動きの形である。罪ではない。
彼女が引っかかっているのは、そこではなかった。
◇
礼拝堂で、彼女はあの老人の内側に「盗んだ」という色を探した。借りた、でもよかった。人のものを使っているという自覚が一片でもあれば、そこに濁りが立つ。
無かった。
あのとき彼女は、無いと思った。
――ちがいますわね。
燭の芯が、細く鳴った。
無かったのではない。あの男が、自分の言葉だと本気で思っていたから、立たなかったのだ。
嘘に濁りが出るのは、嘘をついている本人が、自分は嘘をついていると知っているからだ。
知らなければ、出ない。
◇
――読めるのは、本人が嘘だと知っている嘘だけ。
自分の声だった。
北の塔で、数を数える女を前にして、彼女は確かにそう考えた。あの女は自分の記憶を正典としていて、現実のほうが誤っていると信じている。それは信仰であり、信仰は崩せない、と。
考えて、その場に置いてきた。
あの女にだけ当てはまる話だと思ったからだ。
◇
――それ、その人が嘘ついてないだけじゃないの?
同じ女が、卓に肘をついて、あっさりとそう言った。人の心が一片も読めない女が。
ヴィオレッタは笑った。そのようなものがこの世におりますものか、と。
訂正する。
嘘をついていないのではない。
嘘だと思っていないのだ。
◇
彼女は、卓の上に指を三本立てた。
一。表と内がずれるから、色が立つ。
二。ずれが生まれるのは、本人が「これは本音と違う」と知っているからだ。
三。知らなければ、ずれない。
指を折った。
自分の嘘を本気で信じている人間は、読めない。
◇
ひと月あまり前の夜のことを、彼女は思い出した。窓硝子に指を当てて、朝まで転がした問いである。
あの娘の内側に悪意がなく、それでいて動きが計算だったとしたら、それは何なのか。
両方が正しいとしたら?
――両方、正しいのですわ。
外から見れば計算で、内から見れば善意である。矛盾しない。書き換えた本人が、書き換えたことを覚えてさえいなければ。
◇
彼女は、拾って名前をつけずに捨てた形を並べた。
礼を言うとき、こちらの目を見ない。
出自を訊かれると、言葉が一拍だけ速くなる。
右手が、左の手首に触れる。
3年前の会の中身は忘れて、日付と天候だけを覚えている。
四つとも、内側には何もない。外にだけ出ている。
――出ますのね。
内側で処理しきれなかったものは、体に出る。処理しきれたと本人が思っているだけで、残りが袖口から漏れている。
マリアンヌは、それを見ていた。心の読めない娘が、外側だけを見て、見せる動きだと言った。
◇
ヴィオレッタは、燭を吹き消さずに立ち上がった。
彼女は、あの娘を正しく読んでいた。一度も間違えていない。憐憫も、敬意も、当惑も、たしかに全部そこにあった。
読んで、わかっていなかった。
――では、他に何人おりますの。
二百人の顔が浮かびかけた。
彼女は、そこで止めた。数え始めれば、17年ぶんの目から何枚か剥がれる。今夜、それをしている場合ではなかった。
◇
三日後、大広間に献物が並べられた。
建国祭に教会へ納める品である。布、蝋、麦、銀器。目録と現物を突き合わせる作業で、令嬢が十人あまり、老女官が二人、教会からレナール司教が立ち会っていた。
証人は、多いほうがよかった。
エステルは、卓の端で蝋の箱を数えていた。
「エステル様」
「はい」
「3年前の十一月九日でございますけれど」
「はい」
即答だった。この娘は、日付にはいつも即答する。
「あの日、あなた、厨へ回るようにと言われましたわね」
◇
広間の音が、落ちた。
――何を仰るの。
――使用人と間違えられたということ?
――今それを、この場で。
ヴィオレッタは、そちらを聞いていなかった。彼女は、一点だけを見ていた。
色が、立った。
濁っていた。名前がない。憎悪でも、屈辱でも、恥でもない。まだそのどれにもなっていない、生まれたばかりの何か。
瞬きより短かった。
それが、変わった。
上から塗ったのではない。塗るなら、下の色が透ける。そうではなく、そのものが別の色になった。澄んだ、暖かい、見慣れた色に。
◇
エステルは、微笑んだ。
「はい。覚えておりますわ」
――あの日は、雨でしたわ。
「父が参りまして、あの方が膝をおつきになりましたの。……お可哀想でしたわ。床に、額をおつけになって」
「お前は」
ヴィオレッタは、言い直した。
「あなたは、何をなさいましたの」
「広間に戻る気になれませんでしたので、庭へ出ておりました」
エステルは、両手を胸の前で合わせた。
「雨が霙になるまで、立っておりましたわ。……そのあいだに、教会へ伺おうと決めましたの」
彼女は、まっすぐに言った。
「あの一時間がなければ、わたくしは今日ここに立っておりません。ですから、あの方には感謝しております」
嘘は、なかった。
◇
周囲の色が、一斉に暖まった。
――なんという。
――あんな目に遭われて、なお。
――ご立派な。
レナール司教が、静かに頷いた。
――やはり、この方だ。
整った色だった。読める。掴めるものはない。
エステルは、少し困ったように付け足した。
「あの方には、悪気はございませんの」
◇
ヴィオレッタは、扇を開いた。
開いた陰で、いま視たものをもう一度なぞった。
一瞬。名前のつかない色。それから、感謝。
――有りましたわね。
あの日、孤児院の白い広間で、彼女は同じものを探した。計算を、策略を、この娘が自分を殺した自覚を。探して、何もないと思った。
無かったのではない。
速かったのだ。
10年やっていれば、速くもなる。
◇
――ヴィオレッタ様は、なぜあんなことを。
――人の古傷を、皆の前で掘り返して。
――司教様を葬られたばかりですのに。
結構ですこと、と彼女は思った。
今日ここで欲しかったものは、評判ではない。
◇
「聞いたことを、全部話せと仰いましたわね」
「言った」
東棟の執務室で、ヴィオレッタは一時間かけて話した。
女官の名だけは落ちていたので、そこは配置表の三人目の女、と言った。アルベールは何も訊き返さなかった。
「エステル嬢は、嘘をついているのか」
「いいえ」
彼女は言った。
「あの方は、本当のことしか仰いませんわ」
「では、何だ」
「本当のことのほうが、書き換わっておりますの」
◇
「証拠になるか」
「なりませんわ」
ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。
「わたくしの目は、円卓に出せませんもの。……それに今度は、紙が一枚もございませんの」
アルベールの内側で、算盤が動いた。いつもの速さだった。
「ヴィオレッタ」
「はい」
「君の目は、壊れていなかったのか」
「壊れておりませんわ。最初から」
「では、何が壊れていた」
彼女は、少し黙った。
言いたくない答えだった。言いたくないので、そのまま言うしかなかった。
「……読み方ですわ」
アルベールは、それについて何も言わなかった。
彼は書類を引き寄せた。
「建国祭まで、ひと月だ」
◇
東棟を出ると、回廊は白かった。窓の外の雪が、燭よりも明るい。
ヴィオレッタは、歩きながら考えていた。
あの娘は10年やってきた。屈辱を感謝と呼び、呼んだそばから本気で信じ、信じたぶんだけ内側が澄んだ。誰かに見せるための澄み方ではない。見せる相手がいないところでも、そうなっている。
――上手ですこと。
この冬、同じことを思ったのは、二度目だった。
一度目は、歪みのない帳簿を前にしたときである。人は盗むときに数字をいじる。いじれば必ず歪みが出る。あの帳簿には歪みがなかった。だから、あの男は数字をいじっていなかった。
いじらずに、抜いていた。
あの娘も、いじってはいない。
書き換えているのは、数字ではない。
――項目のほうですわね。
雪が、窓を白く塗っていた。
書き換えられる前の項目に、何と書いてあったのか。
その一項だけが、どの帳簿にも載っていない。
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