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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第1章

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第12話 母

 建国祭の施しは、名を読み上げる儀式である。


 王家が一年に一度、恩を受ける者の名を挙げ、施与簿にそれを書き入れる。米でも銭でも身分でも、渡すものは何でもよかった。要るのは名のほうだ。簿に載らない者に、王家は何ひとつ出せない。書く欄がないからである。


 ヴィオレッタは、そこに一人ねじ込むと決めた。


   ◇


 名前は、一つあればよかった。


 彼女は17年のあいだ、人の名を覚える必要を感じたことがない。顔と、色と、弱みの位置さえ分かっていれば、人は動く。名は札のようなもので、札は掛け替えがきく。


 今度は、札のほうが要った。


 人前で名を挙げて差し出したものは、人前で受けるか断るかを決めさせられる。断るには、断る理由を口に出さねばならない。


 ――いつもの手ですわね。


 冬の晩餐で、傾いた男爵家の夫人に首飾りの話を投げたときと、形は同じである。投げて、返ってきた悲鳴を読む。違うのは、今度は先に名前を一つ用意しなければならないことだった。


   ◇


 なぜあの娘の母か、という点に、迷いはなかった。


 あの娘の内側は、10年かけて塗り替えられている。屈辱は感謝になり、憎悪は憐憫になり、塗り替えられたものを本人が本気で信じている。信じているから、色が立たない。


 先日、彼女はその書き換えが起きるところを見た。色が立ち、別の色になるまでに、瞬きの半分もかからなかった。10年やっていれば、速くもなる。


 速いものを止める手は、二つしかない。書き換えが追いつかない速さで投げるか、書き換えの利かない場所を突くかである。


 利かない場所には、心当たりが一つあった。


 ――母は、幸せにしております。わたくしが引き取っていただいたおかげで。


 あの一言だけ、言葉が一拍速かった。用意してある答えは、速くなる。用意してあるということは、そこだけを何度も繕ってきたということだ。


 繕った場所には、糸目が残る。


   ◇


 庶子を嫡出に直すには、届出が要る。届出には、生母の名を書く欄がある。


 そして教区の登録簿は、教会が持っている。


   ◇


「10年前の届出の写しを、公爵家の名で請求いたしますわ。ヴァレンヌ侯爵家のぶんを」


 レナール司教は、指を組んだまま聞いていた。


「理由を伺ってもよろしゅうございますか」


「いいえ」


「では、規則どおりにいたします」


 それだけだった。


 この男は渋らなかった。値もつけなかった。請求の形式が整っていたので、整っているとおりに処理しただけである。


 ――教会は、記録を隠しませぬ。


 ヴィオレッタは、その内側をもう一度覗いた。前と同じだった。読める。掴めるものが、どこにもない。


「ついでに、もう一つ」


「はい」


「同じ年の、ヴァレンヌ領からの転出届を。奉公人のぶんですわ」


「……そちらも、規則どおりに」


   ◇


 写しは、六日で届いた。三枚あった。


 一枚目は、嫡出の届出である。届出の年月日。父の署名。侯爵家の紋。嫡出とする旨の一行。


 生母の欄に、一語だけあった。


 アニェス。


 姓の欄は、空いていた。書く場所はあった。埋まっていなかっただけだ。


   ◇


 二枚目が、転出の届だった。


 同じ年の、同じ月。アニェスという名の奉公人が、ヴァレンヌ領を出る。行き先は王都の第四教区。事由の欄には、婚姻とある。持参は12ポンド。


 庶子を嫡出に直した家が、その母親に金をつけて嫁がせる。ありふれた処理である。むしろ、しない家のほうが珍しい。


 ヴィオレッタは、一枚目に目を戻した。


 姓の欄が、空いている。


 嫁いでいれば、埋まるはずの欄だった。


 三枚目は、その取り下げだった。


 十日後の日付で、転出届は取り下げられている。理由の欄は、空白だった。


 ヴィオレッタは、三枚を卓に並べた。


 この十日のあいだに、誰かが何かを言ったのだ。


   ◇


 名だけでは足りなかった。


 人前で名を挙げる以上、間違いは一つも許されない。挙げてから調べるのでは遅い。


 ヴィオレッタは、王都のメルシエ侯爵家へ使いを出した。


 あの家には、ヴァレンヌ侯爵家から移った洗濯女が一人いる。8ポンドで買われた女である。買った娘の仕入れ先を、彼女は冬の夜会で人前で言い当ててみせた。


 娘は、断らなかった。断れる位置にいなかった。


   ◇


 洗濯女は、五十がらみの、手の荒れた女だった。


「アニェスさんは、洗濯場においでです」


「今も」


「はい。10年、ずっと」


「10年前、あの方に暇が出ましたわね」


 女の手が、膝の上で止まった。


「……出ました」


「縁談でしたのでしょう。持参までつけて」


 答えは、なかった。


「それが、十日で消えましたの。……何がございまして」


 女は、膝の上で手を組んだ。


 答えないつもりらしかった。奉公人が主家の内向きを喋れば、次の奉公先がなくなる。この女は、そのくらいの計算はできる。


 結構ですこと、とヴィオレッタは思った。


   ◇


 彼女は、訊き方を変えた。


 答えを求めるのをやめ、日付と、名と、場所だけを、順に卓の上へ置いていった。年月。屋敷の廊下。旦那様。お嬢様。洗濯場。


 人の頭は、置かれたものを勝手に拾う。拾えば、そこが鳴る。


 女は、口を開かなかった。


 一度も開かなかった。


   ◇


 半刻ののち、ヴィオレッタは席を立った。


 喋らない女から、彼女は六つのことを持ち帰った。


   ◇


 帰り際に、一つだけ声に出して訊いた。


「アニェスは、字が書けますの」


「いいえ」


 女は、当たり前のように答えた。害のない問いだと思ったからである。


「読めもいたしません。……洗濯場の者は、皆そうでございます」


 その日いちばん高くついたのは、その一つだった。


   ◇


 自室に戻って、ヴィオレッタは三枚の写しを開いた。


 姓の欄が空いていた理由は、これで済んだ。書ける者が、その場にいなかったのだ。


 彼女は、一枚目の一語を指でなぞった。


 アニェス。


 落ちなかった。


 女官の名は廊下を曲がるまでに落ちる。この名は、落ちなかった。持っておく必要がある名だからだ。


   ◇


 勘定は、そこから組み立てた。


 あの娘は、母を助けられない。


 助ければ、10年が変わる。母は幸せだった、が、母は幸せでなかった、に変わる。引き取っていただいたおかげで、が、洗濯場に置いたおかげで、に変わる。あの娘は、その一行の上に自分を積んでいる。抜けば、崩れる。


 だから助けない。助けないことを、あの娘は残酷だと思っていない。思っていないので、色も立たない。


 助けるか助けないかを問うても、この娘は困らない。困らせるには、手を動かさせるしかなかった。


   ◇


 あの娘は、断る。


 ヴィオレッタは、そう踏んでいた。


 根拠は、六つのうちの二つにあった。


 断り方まで、見当がついていた。


 自分が嫌だとは言わない。この娘は、生涯そういう言い方をしない。


 母の口を借りるのだ。


 そのとき、母がどこにいるかが問題になる。


 紙の上や、遠い領地にいるのではいけない。同じ広間の、五歩先に膝をついていなければならない。


   ◇


 なぜそこまでするのか、という問いを、ヴィオレッタは自分に立てなかった。


 立てるまでもない。


 あの日、孤児院の白い広間で、この娘は数十人の前で自分を殺した。悪意もなく、罠でもなく、ただ庇っただけで殺した。殺し返さない理由が、どこにあるだろう。


 それに、目障りだった。


 広間の真ん中に立って、誰にも叩けぬ顔で、人に好かれているのが。


 腹が立っただけである。孤児院で石炭の値を並べたときと、動機はまったく同じだった。


   ◇


 施与の儀の作法を、彼女は妃教育で二十七回さらっている。


 名を読み上げ、施与簿に書き入れる。書き入れるのは、恩を受ける本人である。


 本人が書けぬときは、代筆が立つ。代筆に立てるのは、身内か、名を証する紙を持つ者。そして代筆した者は、簿に自分の名と、本人との続柄を書き添える。


 欄は、三つある。


 名。代筆者の名。続柄。


   ◇


 ヴィオレッタは、羽根ペンを置いた。


 アニェスを、広間に呼ぶ。


 書けぬ者が書けぬところは、二百人に見せる。見せたうえで、代筆を立てさせる。この城に、あの女の身内は一人しかいない。


 あの娘が書けば、王家の簿に、あの娘の手で「母」の一字が残る。10年、口にしなかった字である。


 書けなければ、書けないところを二百人が見る。


 ――どちらでも、よろしくてよ。


 そして書けなかった場合に備えて、彼女は三枚の紙を持っていく。名を証する紙を持つ者は、身内でなくとも代筆に立てる。


 詰みが二つある勝負を、彼女は勝負とは呼ばなかった。


   ◇


 誤解のないように言っておくと、ヴィオレッタは、あの女を助けるつもりが一片もなかった。


 アニェスがこのあとどこで暮らし、何を食べ、誰に名を呼ばれるのか。そのどれにも、彼女は興味がない。


 凍えようが、飢えようが、関わりのないことである。


 入り用なのは、施与簿の三つの欄と、そこに置かれる羽根ペンだけだった。


   ◇


 ヴァレンヌ侯爵への申し入れは、父の名で出した。


 建国祭の施与の対象者を、当日、広間に出頭させられたし。


 断れば、断る理由を書かねばならない。奉公人一人を王家の御前に出せぬ理由を、紙に残さねばならない。


 侯爵は、書かなかった。


   ◇


 建国祭の朝、老女官が礼装を検めに来た。


 所作は、寸分の隙もなかった。


「ヴィオレッタ様。僭越ながら、以前申し上げましたことがございます」


「ええ」


「役に立つことと、選ばれることは、別でございます、と」


 ――今日で、終わりでございますな。


 ヴィオレッタは、鏡の中で扇を開いた。


「よく覚えておりますわ」


 彼女は言った。


「ですから、本日は、役に立ちに参りませんの」


   ◇


 大広間には、二百人が集まっていた。


 上座に国王と王妃。その脇にアルベール。教会からレナール司教。円卓の外側に、ヴァレンヌ侯爵が立っていた。


 中央には、施与簿を載せた卓が一つ。表紙が開かれ、羽根ペンと墨壺が添えられている。


 去年の建国祭の夜、この広間で聖女が断罪された。ヴィオレッタは同じ床の、同じ位置に立っていた。


 あのときは、何もしなかった。


   ◇


 末席の、柱の陰。


 貴族の輪から三歩下がったところに、灰色の上着を着た女が一人立っていた。


 五十には届いていない。髪をきつく結い、両手を前で組み、顔を上げていない。


 誰も見なかった。誰も、そこに人がいることに気づかなかった。


   ◇


 エステルが、先に進み出た。


「畏れながら、申し上げたいことがございます」


 彼女は、まっすぐに言った。


「この冬、王領の孤児院に毛布が二十枚届きました。北向きの部屋を使うことも、あの日を境に止まりましてございます」


 広間が、静かになった。


「贈り主のお名前は、伏せられておりませんでした。ヴィオレッタ・ド・アルヴェール様と、はっきりお書きでございました」


 ――皆さまが、ご存じないままなのは、よくないもの。


「わたくしは、あの方を尊敬しております」


 嘘は、なかった。


   ◇


 色が、一斉に動いた。


 ――なんという方だ。


 ――叩かれた側が、庇うておる。


 ――これで決まりだな。


 ヴィオレッタは、それを一つずつ聞いた。


 褒められた者は、褒めた者を斬れない。孤児院の広間で自分を殺したのと、同じ形である。


 この娘は、同じ手を二度使う。二度目も効く。効かないほうがおかしいのだ。


 ――ですけれど。


 彼女は、一歩前へ出た。


 二度目は、こちらが同じ場所に立っていない。


   ◇


「陛下」


 ヴィオレッタは、礼をした。


「建国祭にあたり、わたくしからも一人、名を挙げさせていただきたく存じます」


「申せ」


「ヴァレンヌ侯爵家に、10年お仕えの方がございます。洗濯場においでですわ」


 円卓の外側で、侯爵の色から血が引いた。


「その方の身分をお解きいただきとう存じます。引受は、アルヴェール公爵家が。父の署名は、既に頂いておりますわ」


 彼女は、書付を卓に置いた。


「お名前を、アニェスと申します」


   ◇


 末席で、灰色の上着が動いた。


 顔が、上がった。


 名を呼ばれたからである。10年、誰も呼ばなかった名を、広間の真ん中で読み上げられたからだ。


 二百人のうち、それに気づいた者は一人もいなかった。


 ヴィオレッタは、それを見た。


 見て、勘定に入れた。それだけだった。


   ◇


 国王が、頷いた。


「よかろう。簿に載せよ」


 老女官が、施与簿の頁を開いた。


 欄が三つ、空いている。


「アニェス」


 老女官が呼んだ。


「前へ」


   ◇


 灰色の上着が、柱の陰から出た。


 二百人の首が、一斉にそちらを向いた。


 ――誰だ、あの女は。


 ――洗濯場と言うたぞ。


 ――なぜ、あんな者が御前に。


 女は、卓の前まで来て、膝を折った。所作は正しかった。10年、屋敷の裏で正しく仕込まれた膝である。


 老女官が、羽根ペンを差し出した。


「こちらへ、お名前を」


   ◇


 女は、ペンを見た。


 見て、動かなかった。


 手を出さない。断ってもいない。ただ、羽根の先と、開かれた頁を、順に見ている。


 どうすればよいのか分からない者の目だった。


 広間が、その意味を理解するまでに、しばらくかかった。


 ――書けぬのか。


 ――字を、知らぬのか。


 ――……そうか。洗濯場だ。


 女は、顔を伏せた。


   ◇


「代筆を立てまする」


 老女官が言った。


「代筆に立てますのは、身内、または名を証する紙をお持ちの方。……代筆なさる方は、ご自分のお名前と、続柄をお書き添えくださいませ。それが規則でございます」


 ヴィオレッタは、羽根ペンを受け取った。


 受け取って、それを差し出した。


「エステル様」


   ◇


 広間が、鳴った。


 ――身内?


 ――ヴァレンヌの御息女が?


 ――では、あの女は。


 二百人が、同じ計算を同じ速さで済ませた。侯爵家に十年いる洗濯場の女。十年前に嫡出になった御息女。宮廷は、この手の算術だけは速い。


「この城に、この方の身内はお一人しかおいでになりませんわ」


 ヴィオレッタは、ペンを持ったまま、一歩寄った。


「あなたしか、おいでになりませんの」


   ◇


 エステルは、ペンを受け取らなかった。


 彼女は、両手を胸の前で合わせた。


「ヴィオレッタ様」


 その声は、いつもと同じ調子だった。


「畏れながら、母は、いまのままで幸せだと存じます」


   ◇


 広間の音が、落ちた。


 ――断った。


 ――王家の施しを?


 ――いま、母と仰ったな。


 ヴィオレッタは、そちらを聞いていなかった。


 五歩先で、灰色の上着が膝をついている。顔は、上がらなかった。


「まあ」


 彼女は言った。


「どちらで、お聞きになりまして?」


 エステルが、まばたきをした。


「……は」


「お母上が、いまのままで幸せだと。……どちらで、お聞きになりましたの」


 答えは、なかった。


   ◇


「陛下は、簿に載せよと仰せになりましたわ」


 ヴィオレッタは、ペンを差し出したままだった。


「お受けになるか、お断りになるか。この場でお決めくださいませ」


   ◇


 エステルは、ペンを受け取った。


 受け取ったところは、いつもと同じだった。所作に乱れがない。指の運びも、袖の落とし方も、二百人が十年見てきた侯爵令嬢のものだった。


 彼女は卓の前に立ち、墨壺に穂先を浸した。


 欄の上で、止まった。


   ◇


 ヴィオレッタは、その内側を覗いた。


 色が、立った。


 変わった。


 また立った。


 変わった。


 三度目は、変わりきらなかった。


   ◇


「エステル様」


「……はい」


「一語でございますわ。姓はございませんの」


「……はい」


「そのあとに、あなたのお名前と、続柄を」


 答えが、なかった。


   ◇


 この娘は、日付に即答する。


 3年前の会の日付を、天候まで添えて即答した。中身を忘れた日ですら、そうだった。


 いま、一字が出てこない。


「お書きになれませんの?」


「……書けます」


 嘘は、つけない娘だった。


「では、なぜお書きになりませんの」


   ◇


 ヴィオレッタは、三枚の紙を簿の隣に並べた。


「陛下。念のため、お目通しを」


「なんだ」


「10年前、アニェスには一度、暇が出ておりますわ」


 彼女は、二枚目を指した。


「転出の届でございます。行き先は王都の第四教区。事由は、婚姻。持参は12ポンド」


 広間が、動いた。


「王都の織物商への、後添えのお話でございましたわ。悪いお話ではございませんの。……嫁げば、姓がいただけますもの」


「あの方は、支度をしておいででしたわ」


 卓の脇で、灰色の上着が、わずかに動いた。


 彼女は、一枚目を隣に置いた。生母の欄に、一語だけある。


「陛下。この欄をご覧くださいませ。姓が、空いておりますわ」


 国王は、答えなかった。


「10年前、ここは埋まるはずでございましたのよ」


   ◇


 三枚目を、その上に重ねた。


「十日後に、取り下げられておりますの。理由の欄は空白でございますわ。ですから、伺って参りましたのよ」


「……」


「七つのあなたが、廊下で膝をおつきになりましたのね。お館様のお手を取って、お屋敷に置いてくださいませ、と。……屋敷中の者が、見ておりましたわね」


 エステルは、答えなかった。


「あなた、お母上をお捨てになりませんでしたのね」


 ペンの先から、墨が一滴落ちた。


 欄が、黒く潰れた。


   ◇


「ですけれど、お館様は条件をお付けになりましたわ」


「……」


「御前へ出ぬこと。奥方様の前へも、お客様の前へも、そしてあなたの前へも」


 ヴィオレッタは、扇を畳んだ。


「ご存じでした?」


「……存じません」


「ですけれど、お母上が御前へお出になったことは、10年、一度もございませんわね」


「……はい」


「本日は、御前でございますわ」


   ◇


 広間が、鳴らなくなった。


 灰色の上着が、卓の脇に膝をついている。10年ぶりに、条件が破られていた。破ったのは、この娘ではなかった。


   ◇


「もう一つ、伺いますわ」


 ヴィオレッタは、静かに言った。


「5年前にも、お話がございましたわね。お館様のご縁者から、女中頭にとお声がかかりましたの」


 エステルの指が、ペンの軸の上で滑った。


「そのとき、あなたは何と仰いました?」


「……」


「母は、お屋敷を離れとうないと存じます。……そう仰いましたわね」


   ◇


「エステル様」


「……はい」


「そのお言葉も、どちらでお聞きになりましたの」


 答えが、なかった。


 どこで聞いたか、と訊き返す者は一人もいなかった。訊き返せるのは、違うと言える者だけである。


「10年でただの一度も、あの方にお訊きになっておりませんわね」


 ヴィオレッタは、卓の脇を見た。


「二度、口をお塞ぎになりましたのね。七つと、12のときに」


 彼女は、顔を戻した。


「――本日で、三度目でございますわ」


   ◇


 エステルが、顔を動かした。


 卓の脇の、灰色の上着のほうへ。


 10年ぶりだった。


 その女は、床を見ていた。顔を上げなかった。上げてはならないと、10年言われ続けてきたからである。


   ◇


「あなたのお召し物を、あの方は10年、誰にも触らせておりませんわ」


「……」


「ご存じでした?」


「……存じません」


「他にできることがございませんから、と」


 ヴィオレッタは、扇を畳んだ。


「エステル様。最後に、伺いますわ」


「アニェスは、幸せでいらっしゃいますの?」


   ◇


「母は、幸せです」


 エステルの声が、割れた。


「わたくしが……わたくしが、引き取っていただいたから」


「ええ」


「わたくしは、感謝しております。ずっと、感謝して」


   ◇


 ヴィオレッタは、その手からペンを取った。


 取って、自分の指のあいだで一度回した。


「わたくしには、書けますわ」


 彼女は言った。


「あの方の名も、続柄も。……嘘になりませんもの」


   ◇


 言葉が、止まった。


 止まって、続きが出た。


「……どうして」


   ◇


「どうして、あなたばかり」


   ◇


 書き換えが、間に合わなかったのだ。


 一斉に来た。


 憎悪。嫉妬。飢え。恥。屈辱。侮蔑。ヴィオレッタが名を知っているものばかりだった。どれ一つ、新しくない。


 10年ぶん、一つも捨てられずに、そこに積んであった。


 生まれて初めて、ヴィオレッタは、視えるものが多すぎると思った。


   ◇


 その中に、見覚えのある形が一つあった。


 ――あの中で、あなた様だけが正直でいらっしゃる。


 馬車の中で、この娘はそう言った。あのとき嘘はなかった。いま視ても、嘘ではない。


 嫉妬を、敬意に書き換えたものだっただけである。


 書き換えたあとの敬意は、本物だった。書き換える前のものも、消えてはいなかった。


   ◇


 その一言が、誰に向けられたものかは、分からなかった。


 目の前の公爵令嬢に向けたのかもしれない。卓の脇で膝をついている女に向けたのかもしれない。七つで嫡出になった娘が、十年ぶん溜めて、行き先を決めないまま出したものだった。


 エステルが、自分の口を押さえた。


 押さえた手は、右手だった。左の手首を確かめる余裕が、なかったのだ。


 ヴァレンヌ侯爵が、娘の腕を取って広間を出た。


   ◇


 誰も、動かなかった。


 ――今の。


 ――今の、聞いたか。


 ――……あの方も、人でいらしたのね。


 その色は、憐憫ではなかった。安堵に近いものが混じっていた。


 完璧な娘が一人減ったことに、この広間は安心している。


 なるほど、とヴィオレッタは思った。


 この人たちは、あの娘を愛してなどいなかった。


   ◇


 上座で、レナール司教が一度だけ目を伏せた。乱れは、どこにもなかった。


 ――記録を、改めねばならぬ。


 読める。掴めるものが、どこにもない。


   ◇


 扉の手前で、足音が止まった。


 エステルが、父の腕の中から振り返っていた。


「……どうして、こんなことを、なさいますの」


 責める声ではなかった。本当に、理由が分からないという声だった。


 ヴィオレッタは、答えた。


「気に食わなかったからですわ」


「……」


「あなたが広間にお立ちになっているのが、目障りでしたの。それだけですのよ」


 エステルは、何も言わなかった。


「それから」


 ヴィオレッタは、扇を開いた。


「あなたの中に、名前のないものが一つございましたわ。……気になって、眠れませんでしたの」


   ◇


「ヴィオレッタ」


 国王が言った。


「簿は、どうする」


 広間の目が、潰れた欄に集まった。


 ヴィオレッタは、卓に歩み寄った。


「名を証する紙は、ここにございますわ」


 彼女は、教区の写しを老女官の前に置いた。生母の欄に、一語ある。


「これで、代筆に立てますでしょう」


「……はい」


   ◇


 彼女はペンを墨に浸し、墨だまりの隣の余白に、羽根の先を下ろした。


 三つの欄を、順に埋めた。


 アニェス。


 ヴィオレッタ・ド・アルヴェール。


 続柄の欄には、なし、と書いた。


   ◇


 17年、彼女は誰の名も覚えずに生きてきた。覚える必要がなかった。札は掛け替えがきく。


 書いてみると、簡単なことだった。


 三つの音を、順に置くだけである。


   ◇


 膝をついていた女が、顔を上げた。


 自分の名が簿に載る音を、聞いたのだ。


 ヴィオレッタは、そちらを見なかった。


   ◇


 回廊は、暗かった。


 マリアンヌが、灯りを持って三歩うしろを歩いていた。


 ヴィオレッタは、自分の胸の内を点検した。他人の色を毎日読んでいる娘にとって、自分の中身を覗くのは、指を折るより容易い。


 橙色が、灯っていなかった。


 消えたのではない。名前が、ついたのだ。


 期待、と彼女は思った。


 この世に一人くらい、濁っていない人間がいてほしい。それだけのものだった。世界中を腐っていると見てきた娘が、腐っていない見本を一つ、どこかに置いておきたがっていた。


 名前がついた。ついた途端に、扱う必要がなくなった。


 扱えるようになったからではない。中身のほうが、もう無いからだ。


   ◇


「マリアンヌ」


「はい」


「わたくし、この世で唯一美しかったものを、自分の手で汚しましたわ」


 侍女は、答えなかった。


「後悔はいたしませんの」


 ヴィオレッタは、窓の外を見た。雪だった。


「――ただ、少し、静かでしたわ」


   ◇


 三日で、片がついた。


 ヴァレンヌ侯爵から、辞退の書状が出た。教会は引いた。新司教は、規則どおりに引いた。


 アニェスの身分は解かれ、施与簿に名が残った。宮廷は、それを一度も話題にしなかった。宮廷が語ったのは、公爵令嬢が侯爵令嬢を一人壊した、という一行だけである。


 誰も、十日で取り下げられた転出届の話をしなかった。


   ◇


 その夜、東棟の執務室に呼ばれた。


 アルベールは、書類を見ていなかった。


「保留を解く」


「……左様でございますか」


「アニェスの件は、王家の年金に付け替えた。公爵家預かりでは、君の身内ということになる。……そのほうが早い」


「殿下がなさいましたの」


「君がやると、噂が一行増えるだけだ」


   ◇


「殿下」


「なんだ」


「一つ、伺ってよろしくて」


 ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。


「なぜ、わたくしをお選びになりますの」


「人の中身が視えるからだ」


「それは、嘘ですわね」


 彼女は言った。


「わたくしの目は、円卓に出せませんの。証拠になりませんもの。人の腹の内を知っている妃など、宰相を一人買うほうが安うございますわ」


 アルベールは、しばらく黙っていた。


 それから、あっさりと言った。


「そうだな」


   ◇


 この男は、値を間違えたことが一度もない。


 そして、この男が自分を娶ると言ったのは、去年の建国祭の夜である。あの夜、この男の円卓に並んでいたのは、人の中身が視えるという一点だけだったはずだ。


「殿下は、塔の女の話を、去年はご存じございませんでしたわね」


「知らん」


「ですけれど、あの夜、わたくしをお選びになりましたわ」


 アルベールは、答えなかった。


   ◇


 ヴィオレッタは、その内側を覗いた。


 温度はない。算盤だけがある。いつもどおりだった。


 塔から戻った日、この男は一時間、一度も遮らずに聞いた。要約も省略も許さんと言った。そのあいだ、算盤の玉がいつもの倍で動いていた。


 彼女は、その項目を読めなかった。


 読めなかったのは、彼女がその項目を知らなかったからだ。


「あれは、ご褒美ではございませんのね」


「何の話だ」


「一言残らず話せ、という条件でございます」


 ヴィオレッタは、顔を上げた。


「あれは、検分でございましたわ」


   ◇


 アルベールは、書類から手を離した。


「この世界の生まれでない者は、心の中でだけ元の言葉を使う。君には、それが遠く聞こえる」


「……ええ」


「私の知るかぎり、この世で君一人だ」


 彼は、書類を引き寄せた。


「去年の時点では、君は目の視える女だった。今は、耳の利く女だ。……値が上がった」


   ◇


「探せ、と仰いますのね」


「そうだ」


「何人おりますの」


「知らん」


 アルベールは、顔を上げた。


「だが、一人ではないという言葉を、君は塔で聞いている」


 ヴィオレッタは、目を伏せた。


 ――あなた、まだ一人も『同じ声』を聞いてないの?


 あの女は、そう訊いた。訊いて、値をつけた。誰かの同じ声を見つけたら、必ず教えて、と。


 嘘をつけない娘が結んだ約束は、一つも消えていない。


   ◇


 窓の外で、雪が屋根を鳴らした。


「ヴィオレッタ」


「はい」


「この城には、二百人が住んでいる」


 彼は言った。


「――何人いる」



お読みいただき、ありがとうございました!

第一章 完です

番外編を1話はさみます!

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― 新着の感想 ―
んーー お話はとっても好きなんですけど、そんなに回りくどい書き方しなくても…と思う時が結構あります。AIみがすごくある… 結局エステルが口に出したのは「どうして、あなたばかり」だけなのか、罵詈雑言だっ…
あれは「期待」だったかー。ずっと、もっと暖かい感情だと予想してました。全然違った笑。王道だと、主人公がエステルみたいな子に絆される展開かと思いますが、そんなことなくてしっかり潰しにかかった笑。面白いで…
エステルは単純に母が自分から離れていくのが嫌でしかしその執着が母を不幸にしているという事実から目を背けていたんだと思う むしろ分からないのは王太子の心情
感想一覧
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