番外編 悪口のできない女 〜侍女マリアンヌの手記〜
ヴィオレッタ付きの侍女、マリアンヌの一人称です。
本編で語られない夜の話ですので、読み飛ばしても筋には差し支えありません。
私は、ヴィオレッタ・ド・アルヴェール様が嫌いだ。
お仕えするようになってから、一度も好きになったことがない。そう申し上げると、たいていの方は驚いた顔をなさる。侍女というものは主人を慕うものだと思っておいでなのだ。慕っておりませんとお答えすると、今度は気の毒そうな顔をなさる。それも違う。
私は毎朝あの方の髪を梳き、毎晩あの方の髪を梳く。給金は他家の倍出る。仕事に不足はない。ただ嫌いなだけだ。
ひと月前、孤児院から戻った夜のことである。
◇
その日、私は腹を立てていた。
あの方は、六つの子どもを泣かせた。好きかと訊かれて、いいえとお答えになった。二十人からの貴族が見ている前で。
好きだと仰ればよかった。それだけで済んだ。二文字だ。
帰りの馬車で、私はずっとそれを考えていた。あの方は石炭の値を正して、毛布二十枚ぶんを浮かせた。それは事実だ。認める。認めるが、子どもを泣かせなくても毛布は買えた。
◇
その夜、鏡台の前で、あの方は仰った。
「マリアンヌ」
「はい」
「エステル・ド・ヴァレンヌの悪口を言いなさい」
櫛を止めた。
罠だ、と思った。
この方はときどきこういうことをなさる。喋らせて、喋った中身で人を測る。暇を出された女官の話なら、この城でいくつも聞いている。ヴァレンヌ様の悪口を並べて、翌朝「不忠な口をきく者は置けませんわ」と言われて放り出される。私はその絵を、はっきりと思い浮かべた。
「……聞き違いでございましょうか」
「聞こえておりますでしょう。悪口ですわ。あの女がいかに厭わしく、いかに不快で、いかに信の置けない娘であるか。思いつくかぎり並べておっしゃい」
鏡の中のお顔を見た。冗談を仰っているようには見えなかった。もっとも、あの方が冗談を仰るのを、私は一度も見たことがない。
◇
乗ることにした。
放り出されるなら、それはそれでいい。倍の給金より、今夜言いたいことを言うほうが値打ちがある。そう思う程度には、私も腹を立てていた。
「では、遠慮なく」
「ええ」
「あの方は、猫をかぶっておいでです」
「かぶっておりませんわ」
手が止まった。
「……は?」
「素ですのよ、あれ」
「お嬢様。私は悪口を申せと仰せつかったのですが」
「ええ。ですから、続けなさい」
続けろと仰る。仰るくせに、潰される。
「人前でだけ、お優しいのです」
「馬車の中でも同じでしたわ。誰も見ておりませんでしたのに」
「……子どもに取り入って、点を稼いでおいでです」
「稼ぐ気があるなら、前の日にひとりで孤児院へ行ったりしませんわ」
「では、お嬢様に恥をかかせるおつもりで」
「あの女は、わたくしを庇いましたのよ。二十人の前で」
「それが手口だと申しております」
「手口ならば、そういう顔をいたしますわ。しておりません。一度も」
どうしてそう言い切れるのか、私にはわからなかった。あの方はときどき、見ていないはずのものを見たように仰る。慣れた。
◇
五つ潰された。
私は数えていた。五つとも、本気で思っていたわけではない。悪口とはそういうものだ。思っていることを言うのではなく、言えば気の晴れることを言う。
だがあの方は、五つともいちいち訂正なさった。ご自分を負かした相手を、ご自分の侍女から庇うために。
罠なら、もう仕掛かっていいころだった。仕掛からなかった。
◇
「もうよろしいですわ。わたくしが言います」
「はい」
「あの女は」
そこで、止まった。
言葉に詰まる方ではない。お仕えして、一度もない。
「あの女は、髪が美しいですわ」
「はい」
「歩き方も悪くありません。子どもに膝を折るとき、裾の捌きが上手でしてよ。あれは習って身につくものではございませんの」
「はい」
「名も、一人残らず覚えておりましたわ。半日で」
「はい」
「……お前、なぜ黙っておりますの」
「悪口を伺っております」
鏡の中で、あの方の頬が赤くなった。
そこでようやく、私にもわかった。
罠ではない。この方は本気で悪口を仰りたくて、本気で言えないでいる。
◇
わかった以上、こちらにも手がある。
厨で聞いた話を、差し上げることにした。効くと思ったから差し上げた。それだけだ。
「一つ、お耳に入れておくべきことがございます」
「なんですの」
「今夜、厨と洗い場で、お嬢様のお話が出ておりました」
「泣かせた話でしょう」
「はい。もう城じゅうに回っております」
「それで」
「ヴァレンヌ様が、止めておいでです」
「……止める?」
お声が、少し高くなった。それだけだった。それだけで、私は一撃が入ったことを知った。
「女中を集めて、その話をするなとお命じになったそうです。ヴィオレッタ様は嘘がおつきになれないだけだ、と。二人から同じ話を聞きました」
あの方は、何も仰らなかった。
長く、何も仰らなかった。
私はそれを見ていた。楽しくはなかった。
「もう一つ、ございます」
「まだありますの」
「泣いた子でございます。リゼット、と申すそうで」
「……それが」
「お帰りの間際に、ヴァレンヌ様があの子に何か仰ったそうです。修道女が、そばで聞いておりました」
「何を」
「わかりません。聞き取れなかったと申しておりました」
あの方が、振り返った。
初めてだった。鏡越しではなく、じかにこちらをご覧になった。
「あの子は」
「泣きやんだそうでございます」
◇
「もういいですわ。下がりなさい」
櫛を鏡台に置いた。
私がこの家に置かれている理由を、私は知っている。忠義ではない。あの方は忠義をお求めにならない。求めておいでなのは、たぶん、私が隠しごとをしないことだ。嫌いだと顔に出すし、腹が立てば音を立てて扉を閉める。前の侍女はもっと器用だった。だから暇を出された。
道具で結構だ。給金さえいただければ。
◇
扉のところで、私は振り返った。
言わずに出ればよかった。これまで、そうしてきた。だが今夜は、ご自分を負かした相手をあの方が五度も庇うのを、聞かされた。子どもを泣かせておいて。
「お嬢様」
「まだ何か」
「悪口を、もう一つだけ申し上げてよろしいでしょうか」
「……おっしゃい」
「私は、エステル様が嫌いです」
あの方の肩が、わずかに緩んだのがわかった。
だから、続けた。
「あの方のお隣にいらっしゃるとき、お嬢様が、いちばん嘘つきに見えますので」
◇
扉を閉めて、廊下を歩いた。
勝った、と思った。思ったが、五歩もいかないうちに、その気分はどこかへ行った。
あの方は嘘をおつきにならない。一度も、である。褒めてくださったことも、庇ってくださったこともないが、嘘だけはおつきにならなかった。
その方に向かって、いちばん嘘つきに見えると申し上げた。
私が言ったことは、本当だった。本当のことを言って人を傷つけるやり方を、私はこの家で覚えたのだ。誰に習ったかは、書くまでもない。
◇
翌朝、あの方は仰った。今後は見たものだけを申しなさい。感想は要らない、と。
かしこまりました、と申し上げた。
それから今日まで、私は感想を申し上げていない。
毛布は、ひと月ののちに届いたそうだ。二十枚。
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