第7話 正直な方
慈愛を測る、という発想そのものが下品だとヴィオレッタは思った。
王家主催の孤児院視察。名目は慰問。実態は選考だった。次期王妃にふさわしいのはどちらか、貴族と教会の目の前で並べて見せろということだ。
馬車が石畳を踏むたび、向かいの席から桃色が漏れてくる。
――どうか、あの子たちが怖がりませんように。
エステル・ド・ヴァレンヌ。侯爵令嬢。もうひとりの候補。
ヴィオレッタは目を伏せた。この娘の内側は、いつ視ても同じだった。濁りがない。生きて17年、こんなものは一度も見たことがなかった。
「ヴィオレッタ様」
「なんですの」
「今日は、無理をなさらないでくださいませ」
「無理」
「ええ。ヴィオレッタ様は、嘘がおつきになれない方ですから」
馬車の中で、同乗していた侍従長が小さく笑った。冗談だと思ったのだ。
エステルは笑っていなかった。
「わたくし、それをとても尊いことだと思っておりますの。皆さま、心にもないことを平気で仰いますでしょう。あの中で、あなた様だけが正直でいらっしゃる」
――本当に、そう思う。
声に、一分の隙もなかった。
「……お世辞は結構ですわ」
「お世辞ではございません。だからこそ、申し上げたのです」
馬車が停まった。
◇
孤児院は、思っていたより清潔だった。
白い漆喰の壁。磨かれた床。並んだ子どもたちの服には継ぎが当たっているが、洗われている。院長の修道女が深く腰を折り、貴族たちが上品な感嘆の声を上げた。
ヴィオレッタは、その全部を一秒で読み終えた。
貴族たちの心――退屈。早く終われ。誰が見ているか。
修道女たちの心――粗相をするな。今日さえ乗り切れば。
院長の心――帳簿の話にだけは、なりませんように。
ほう、と思った。
やましさの色ではなかった。もっと薄い、恥の色だ。この修道女は帳簿をろくに読んでいない。読んでいないことを、貴族に見抜かれるのが怖い。
そういう施設は、必ず抜かれている。
そして冬の施設で、いちばん重い項目は燃料だ。父の帳簿を毎月見ている娘に、訊く場所を選ぶ手間はなかった。
「院長」
ヴィオレッタは歩き出した。挨拶の途中だった。
「石炭は、どちらから」
「は……あの、ベルナール商会から」
「値をお訊きしても?」
院長の心が跳ねた。数字が、鮮明に浮かび上がる。
「1袋、7シリング半」
口と、内側が同じだった。この修道女は嘘をついていない。高いことを知らないだけだ。
ヴィオレッタは、扇を止めた。
同じ数字だった。先日、教材で見たばかりの帳簿と、一シリング半まで同じ。
――なるほど。あの商会は、王領のあちこちに口を差し込んでおりますのね。
「1シリング半、多いですわね」
空気が凍った。
「王都の相場は6シリングですの。父の帳簿で毎月見ておりますもの。18年、多く払っていらっしゃるということは、この冬に子どもの毛布が20枚買えましたわね」
「ヴィオレッタ様、そのような場では」
同行の伯爵が咎めた。ヴィオレッタは振り返りもしなかった。
「取引先を変えなさい。書状は父に書かせますわ。それから、そこの窓」
「はい」
「北向きの部屋に、幼い子を寝かせるのはおやめなさい。凍えますわよ」
院長は青ざめ、震え、そして――深く頭を下げた。
――恥ずかしい。けれど、ありがたい。
二つの色が混ざっていた。ヴィオレッタは満足した。人が本音を出すのは、追い詰められたときだけだ。
「まあ」
背後で、エステルが両手を合わせた。
「ヴィオレッタ様、お見事でございます。……わたくし、石炭の値など考えたこともございませんでした」
――本当に、そう思う。
貴族たちがざわめいた。誰かが「あの方らしい」と苦く言った。
ヴィオレッタの背後で、マリアンヌが小さく息を吐いた。
――何が慰問よ。人前で修道女を吊るし上げて。
――……でも、毛布は買える。
ぐちゃぐちゃで、汚くて、正直な色。ヴィオレッタは少しだけ気分がよくなった。この娘だけは、いつも読める。
◇
視察は、つつがなく進んだ。
エステルは、驚くほど子どもに好かれた。
彼女は媚びなかった。しゃがんで目線を合わせ、名前を訊き、一人ずつ覚えていった。転んだ子の膝を、ドレスの裾が汚れるのも構わず自分の手拭いで拭いた。誰かがそれを見て褒めると、心底困った顔をした。
――どうして褒められるのかしら。当たり前のことなのに。
嘘ではなかった。この娘は、自分が善いことをしている自覚すら持っていない。
ヴィオレッタは壁際に立って、それを眺めていた。
妙な感覚だった。
17年、彼女はこの世を見下してきた。見下せる理由があったからだ。誰も彼も、笑いながら中身は腐っていた。母も、父も、司祭も、王も。だからヴィオレッタは自分を最も正直な人間だと思い、それを誇りにして生きてきた。
あの娘の前では、それが通用しない。
――嫌ですわね。
彼女は自分の胸の内を点検して、そこに小さな橙色が灯っているのを見つけた。
またこれだ、と思った。
名前は、いまだに見つかっていない。
◇
終わりが近づいたころだった。
小さな影が、人垣を割って出てきた。
6つか、7つ。栗色の髪の少女。裾を両手で握りしめて、震えながら、それでもまっすぐにヴィオレッタの前に立った。
広間が静かになった。
――まあ、可愛らしい。
――公爵令嬢に近づくとは、無鉄砲な。
――泣かされるぞ。
少女は、大きく息を吸った。
「あの」
その声は、驚くほどよく通った。
「ヴィオレッタさまは、わたしたちのこと、すきですか」
◇
時間が、止まった。
ヴィオレッタの目に、まず飛び込んできたのは少女の心だった。
真っ白だった。計算がない。悪意がない。ただ、知りたいだけだった。この綺麗な人が自分たちをどう思っているのか、それだけを、心の底から知りたがっていた。
次に、周囲の色が一斉に押し寄せてきた。
――言え。「ええ」と言え。それだけで済む。
――たった二文字だぞ。
――さあ、次期王妃殿下。慈愛をお示しになれ。
貴族たちの心は、期待で輝いていた。彼らは優しい答えを望んでいるのではない。答えるところを見たがっているのだ。
ヴィオレッタは、口を開こうとした。
――今日は、無理をなさらないでくださいませ。
――ヴィオレッタ様は、嘘がおつきになれない方ですから。
――あの中で、あなた様だけが正直でいらっしゃる。
馬車の中の声が、蘇った。
ああ、と思った。
わたくしは、褒められてしまった。
ここで「ええ」と言えば、それはただの嘘ではない。エステル・ド・ヴァレンヌが数十人の前で保証した、この女の唯一の取り柄を、この女自身が壊すことになる。
――嘘だけはつきませんわ。
17年、その一言だけで立ってきた。侍女を捨てても、令嬢を泣かせても、聖女を叩き落としても、そこだけは譲らなかった。あれは高潔さではない。それしか持っていなかったのだ。
少女の目が、ヴィオレッタを見上げている。
彼女は、答えた。
「いいえ」
◇
誰かが、息を呑んだ。
――見世物にされたのは、わたくしのほうですわ。
「わたくし、お前たちのことを何とも思っておりませんわ。今日ここへ来たのは、来いと言われたからですの。石炭の値を申し上げたのは、腹が立っただけ。お前たちが凍えようと、わたくしには関係のないことです」
少女の顔が、ゆっくりと崩れた。
「うそ、つかないんじゃ、ないの……?」
「ええ。だから、そう申し上げましたのよ」
少女が泣き出した。
悲鳴のような泣き声が、白い漆喰の広間に響き渡った。修道女が駆け寄ろうとして、間に合わなかった。
先に、エステルが動いていた。
彼女は膝から床に落ちるようにして、少女を抱きしめた。ドレスが汚れるのも、髪が乱れるのも構わなかった。
「大丈夫。大丈夫よ」
そして顔を上げ、広間中に届く声で言った。
「皆さま」
貴族たちが、ぴたりと止まった。
「ヴィオレッタ様は、嘘がおつきになれないのです」
彼女の目に、涙が浮かんでいた。
「わたくしなら、きっと『好きよ』と申しました。その場が収まりますもの。……その程度の嘘は、誰でもつきますでしょう。わたくしも、つきます」
エステルは少女の背を撫でながら、続けた。
「けれど、あの方はおつきにならない。この子に嘘をつくくらいなら、悪者になることを選ばれたのです」
沈黙。
「――とても、お強い方ですわ」
◇
ヴィオレッタは、動けなかった。
彼女は必死に、エステルの内側を探っていた。
計算を。策略を。勝利の色を。ほんの一片でいい。この娘が今、自分を殺したことを自覚している痕跡を。
どこかに。
どこかに、あるはずだ。
――可哀想に。まだ震えてる。
――ヴィオレッタ様も、おつらいでしょうに。
――どうして、皆さま拍手をなさらないのかしら。あの方は、正しいことをなさったのに。
何も、なかった。
ヴィオレッタは、生涯で初めて、自分の目が壊れたのではないかと思った。
だが壊れていない。色は鮮明だった。鮮明すぎるほどに。エステル・ド・ヴァレンヌの内側には、憐憫と、敬意と、当惑しか存在していなかった。
彼女は、攻撃されていなかった。
罠にかけられてもいなかった。
ただ、庇われただけだった。
◇
「あの、ヴィオレッタ様」
院長が、おずおずと歩み寄ってきた。
「どうか、リゼットをお許しください。あの子は……昨日、エステル様に励まされたものですから」
ヴィオレッタは、ゆっくりと顔を向けた。
「昨日?」
「はい。エステル様が、お一人でいらしてくださって。人見知りの子たちに、こう仰ってくださったのです」
修道女は、心から嬉しそうに微笑んだ。
「――明日いらっしゃる方は、とても正直な方なの。だから、思ったことをそのまま聞いてごらんなさい。きっと、本当のことを答えてくださるわ、と」
◇
帰りの馬車で、誰も口をきかなかった。
ヴィオレッタは膝の上で両手を組み、指の関節が白くなるまで握りしめていた。
彼女は、殴りたかった。
生まれて初めて、本気で、誰かを殴りたいと思った。
その相手を、見つけられなかった。
向かいの席で、エステルが心配そうにこちらを見ている。その内側は今も静かで、澄んでいて、どこにも刃が隠されていない。
――お顔の色が悪いわ。今日はきっと、お疲れになったのね。
悪意がなければ、罪ではない。
罪でなければ、責められない。
責められなければ、この痛みには行き場がない。
名前のあるものは、扱える。彼女は17年、そうやって誰も恐れずに来た。
いま、名前のつかないものが、正面に座っている。
「エステル様」
「はい」
「あなた、わたくしがお嫌いでしょう」
馬車が、石畳の継ぎ目を越えた。
エステルは、きょとんと目を丸くした。それから、少し困ったように笑った。
「まさか」
――まさか。
嘘は、なかった。
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