第6話 悪気はございませんの
夜会は、嘘の見本市だった。
王妃陛下の名で開かれ、二百の蝋燭が焚かれ、二百人が二百とおりの顔をしていた。名目は冬の宴。実態は、妃候補を並べて眺めるための陳列棚である。
ヴィオレッタは、壁際の柱を選んで立った。
――今夜はおとなしいこと。
――誰か一人は泣かされますわ。賭けてもよくてよ。
――ご覧なさいな、エステル様のあの人の輪。
広間の中央に、桃色の光が立っている。
エステル・ド・ヴァレンヌの周りには、いつも人がいた。彼女が集めているのではない。人のほうが、勝手に寄っていく。老侯爵の三度目の武勇伝に頷き、伯爵夫人の孫の名を覚えていて、給仕が皿を落とせば、貴族の中で誰よりも早くしゃがんだ。
その給仕が青ざめて詫びたとき、彼女は言った。
「悪気はございませんの。どうか、お叱りにならないで」
周囲の色が、少しだけ澄んだ。
ヴィオレッタは、それを一時間ばかり眺めていた。
「マリアンヌ」
「はい」
「あれ、疲れませんこと」
「……何がでございましょう」
「一時間、笑い続けておりますのよ。頬が攣りませんの」
侍女は答えなかった。
――この人は、人の褒め方を知らないんだ。
結構な色だ、と思って、聞かなかったことにした。
◇
十時を回ったころ、桃色が広間から消えた。
休憩室へ下がったのだ。ほとんど同時に、三つの色が同じ方向へ動いた。
ヴィオレッタは扇を開いた。
退屈していた。理由はそれだけだった。
◇
休憩室の手前には、東方渡りの衝立が立っている。その裏に回れば、声はよく届いた。
「エステル様は、本当にお優しくていらっしゃるのね」
エレオノール・ド・グラシュー。伯爵令嬢。声の大きな娘だった。
「ええ。何しろ、下々のお気持ちがお分かりになりますもの」
アデル・ド・ボワイエ。子爵令嬢。笑い役である。
もう一人、ジュリエット・ド・メルシエがいた。侯爵令嬢。何も言わない。
ヴィオレッタは、三人の内側を順に覗いた。
――さあ、崩れなさい。
――一度でいいから、あの顔が歪むのを見たいわ。
――泣くかしら。それとも怒るかしら。
純度の高い、まっすぐな嗜虐だった。憎悪ですらない。恨みがあるなら、まだ理屈がある。これは、綺麗なものを指で押してみたいというだけの色だ。
悪くない、とヴィオレッタは思った。この手の色は嫌いではない。
「エステル様。伺ってもよろしくて?」
エレオノールが言った。
「ヴァレンヌ侯爵家には、十年前まで娘御はいらっしゃらなかったと聞きましたわ。……不思議なこともあるものですわね」
「はい」
エステルの声は、いつもと同じだった。
「わたくしは、七つのときに引き取っていただきました」
「あら。ではそれまでは、どちらに」
「同じ屋敷におりました」
衝立の裏で、ヴィオレッタは扇を止めた。
「母が、奉公しておりましたので」
三つの色が、一斉に濃くなった。
「まあ」
アデルが口元を押さえた。
「では、お母様は今も」
「はい。おります」
「同じお屋敷に? ……使用人として?」
「はい」
沈黙が落ちた。三人は、待っていた。次に何が出てくるかを。
エステルは、微笑んだ。
「母は、幸せにしております。わたくしが引き取っていただいたおかげで、いまも同じ屋根の下におられるのですから」
言葉が、一拍だけ速かった。
それから、右手が左の手首を押さえた。何かを確かめるように、袖の上から、一度だけ。
ヴィオレッタは、その内側を読んだ。
感謝の色があった。澄んでいた。嘘は一片もなかった。
だから彼女は、それ以上考えなかった。読むものが何もないところに、考えるものもないはずだった。
◇
「――お話し中、失礼いたしますわ」
衝立の裏から出たとき、三人の顔が同時に固まった。
エレオノールの色が、白く抜けた。
――なぜ。なぜここに。
「グラシュー様」
「……ヴィオレッタ様。ごきげんよう」
「ご機嫌よろしゅう。ひとつお訊きしてよろしくて?」
ヴィオレッタは扇を畳んだ。
「お宅は毎年、南の第七教区へ十二ポンドをお納めですわね。父の帳簿で拝見しておりますの。……ご領地でも、ご縁者でもない土地へ、何のお金でございますの」
伯爵令嬢の中で、悲鳴が上がった。
――知っている。
――父の子。厩番の女に産ませた。母が金で黙らせて、南へやった。
――なぜ、この女が。
当たりましたわね、とヴィオレッタは思った。
いつもの手だった。
「まあ、ご立派なこと。喜捨でございましたのね」
「……ええ」
「では、ボワイエ様」
アデルが、びくりと肩を跳ね上げた。
「お宅の紋章、金の縁取りが新しゅうございますわね。叙爵はお祖父様の代でいらして?」
「そ、それが何か」
「いいえ。ただ、お祖母様の旧姓を存じませんものですから。家系図には何とお書きに?」
――やめて。
――やめて、やめて。商家の娘だなんて、誰も知らないのに。
「……ご無礼を申し上げましたわ。存じませんの、わたくし」
ヴィオレッタは、そのまま三人目を見た。
ジュリエット・ド・メルシエは、一言も発していない。
だから、いちばん濃かった。
「メルシエ様。先月、ヴァレンヌ侯爵家の洗濯女が一人、お暇を頂きましたわ」
侯爵令嬢の唇が、わずかに開いた。
「行き先は、あなた様のご実家でしたわね。お給金は、前の倍だとか。……ずいぶん洗濯のお上手な方だったのでしょうね」
――買った。
――八ポンド。八ポンドで、あの女の生まれを買った。
――言っていない。誰にも言っていない。エレオノールにも、話の出所は明かしていない。
ヴィオレッタは微笑んだ。心の底から、楽しそうに。
「今夜のお話、ずいぶんお詳しくていらっしゃるので、感心しておりましたのよ。どちらでお聞きになりましたの」
ジュリエットは、答えられなかった。
答えれば嘘になり、黙れば、他の二人が勝手に読む。
現に、エレオノールの色が、隣の娘へ向いて濁り始めていた。
◇
誤解のないように言っておくと、ヴィオレッタは怒ってなどいなかった。
この三人がエステルに何をしようと、彼女には一片の利害もない。庇う義理もない。むしろ、あの女の顔が歪むところは、この場の誰よりも見たかった。
我慢ならなかったのは、別のことだ。
――お前たちに、崩せるとお思いですの。
汚れきった人間が三人集まって、汚れていない人間を、扱いやすいと踏んでいる。指で押せば凹むと思っている。
ヴィオレッタはこの世の醜さに、片端から名前をつけてきた。その彼女が、あの女の中身に名前をつけられずにいる。
それを、この程度の女たちが。
――あれを壊すのなら、わたくしが壊しますわ。
お前たちの手には、余りますのよ。
◇
「ヴィオレッタ様」
背後で、桃色が動いた。
エステルが、アデルのそばに膝を折っていた。子爵令嬢は、いつの間にか泣いていた。
「ありがとうございます」
彼女は顔を上げて言った。まっすぐに。
「……ですが、あの方たちをお責めにならないで」
休憩室の入口に、人が集まり始めていた。広間から流れてきた貴族が、五人、十人と増えていく。
「皆さま、悪気はございませんの」
ヴィオレッタは、その内側を覗いた。
勝利がない。
嘲りがない。三人を出汁に使った痕跡も、人が集まってきたことへの計算も、どこにもない。
あるのは、憐憫と、当惑だけだった。
――どうしましょう。アデル様、震えていらっしゃる。
――お三方とも、明日から広間を歩けなくなってしまうわ。
17年で、初めてだった。
これほど都合のいい台詞が、これほど嘘なしで出てくるのを見たのは。
◇
広間へ戻る道すがら、色は既に一巡していた。
――またあの女が。
――夜会で三人ですって。
――エステル様は、あんな目に遭わされてなお庇っておいでだそうよ。
――ご覧なさい。あれが慈愛というものですわ。
誰も、三人が何をしていたかは言わなかった。
当然だ。あの三人が何を喋ったかは誰も聞いていない。人が見たのは、公爵令嬢が令嬢を三人泣かせ、侯爵令嬢がそれを許した場面だけである。
ヴィオレッタは、それを面白いと思った。
思おうとした。
◇
自室に戻ると、マリアンヌが湯たんぽを寝台に入れていた。
「マリアンヌ」
「はい」
「お前、あの女をどう見ますの」
侍女は手を止めた。しばらく黙っていた。
「……苦手でございます」
「理由は」
「ございません」
「嘘はお許ししませんわよ」
「嘘ではございません」
マリアンヌは、寝台の皺を伸ばしながら言った。
「……わたくしどもは、人の顔色を読んで育ちますので。あの方は、お礼を仰るとき、こちらの目をご覧になりません」
「まあ。慎み深くていらっしゃること」
「はい。そう申し上げております」
ヴィオレッタは笑った。
――この娘は、僻んでいるのだ。
そう片づけて、髪を解いた。
◇
寝台に入ってから、彼女は自分の胸の内を点検した。
三人を潰した満足があった。これには名前がある。
宮廷の色が全部自分に向いた不快があった。これにも名前がある。
その下に、もうひとつ。
小さな橙色が、消えずに灯っていた。
エステルが膝を折ってアデルを抱え起こしたとき、少しだけ強くなった色だった。憐憫ではない。嫉妬でもない。ヴィオレッタは自分の中身を17年見つめてきたので、たいていの色には見覚えがある。
これだけが、わからなかった。
他人に対して灯ったことが、一度もない色だったからだ。
「……不愉快ですこと」
彼女は毛布を頭からかぶった。
名前のないものが、自分の中に一つある。名前をつけられないものは、扱えない。扱えないものは、恐い。
――恐い?
ヴィオレッタ・ド・アルヴェールは、その夜、朝まで眠らなかった。
◇
翌朝、書状が届いた。
王家の告示。妃選定の慈愛実地について。日取りと、訪問先の孤児院の名。同行する貴族と、教会からの立会人の一覧。
――ようやくですのね。
彼女は書状を畳んだ。
今度は、暖炉に放り込まなかった。
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