第5話 帳簿と慈愛
妃教育は、その週から二人一緒に行われることになった。
卓が二つ、同じ向きに並べられている。同じ教材、同じ時間、同じ教育係。
――比べるための机ですわね。
ヴィオレッタは、そう理解して腰を下ろした。理解した上で、何も感じなかった。比べられるのは初めてではない。母と比べられ、姉の墓標と比べられ、他家の令嬢と比べられて17年生きてきた。
教育係の老女官が、二人の前に立った。
「本日より、三科目をご一緒に修めていただきます。作法、家政、そして慈善接遇にございます」
――さて、どちらが勝つか。
老女官の内側は、平坦だった。この老人は勝敗に興味がない。ただ、自分の教え方が正しく採点されるかだけを気にしている。ヴィオレッタは、その手の人間が嫌いではなかった。
◇
作法は、半日で終わった。
二十七の型を通し、歩幅と扇の角度を検められ、二人とも一度も咎められなかった。
――互角でございますな。
老女官はそう記録した。
ヴィオレッタは、それを正確な評価だと思わなかった。
自分の作法は写しである。心にもないことを美しくやる技術。彼女は生まれてから17年、それしかしていない。
隣の娘の礼は、写しではなかった。頭を下げるとき、本当に下げていた。
◇
二科目めで、卓の上に分厚い帳簿が置かれた。
「架空の領地にございます。年の決算にございますので、お目通しの上、お気づきの点を」
ヴィオレッタは、表紙をめくった。
この能力は、紙には効かない。帳簿は嘘をついても濁らないし、悲鳴も上げない。ここにあるのは数字だけだ。
だから彼女は、この作業が好きだった。
一時間ののち、彼女は羽根ペンを置いた。
「三つですわ」
老女官の眉が動いた。
「まず、石炭」
彼女は頁を開いて指した。
「1袋7シリング半。王都の相場は6シリングですの。父の帳簿で毎月見ておりますもの。……18年、同じ商会と契約なさっていますわね。年に二百袋も焚けば、この一項だけで十五ポンド」
「……続けて」
「小麦。納入が九月に千二百袋。ですけれど、この領地の倉は八百袋しか入りませんわ。三頁前に修繕の記録がございますもの、寸法が書いてございます」
「……」
「三つめは橋ですわね。同じ橋を、五月と十一月に架け直していらっしゃる。半年で流れる橋なら、その川に橋は要りません。渡し守を雇うほうが安うございましてよ」
老女官が、羽根ペンを取り落とした。
――一時間で。
――なぜ、この女が。
ヴィオレッタは、その色を静かに味わった。
悪くない。この老人は嘘をつかない。驚いたときは、正直に驚く。
◇
「エステル様は」
老女官が、隣の卓に向き直った。
エステルの帳簿は、ほとんど頁が進んでいなかった。
「……申し訳ございません」
彼女は、まっすぐに顔を上げて言った。
「一つも、わかりませんでした」
言い訳をしなかった。数字は苦手ですの、とも、初めて拝見しますので、とも言わなかった。
ヴィオレッタは、その内側を覗いた。
――恥ずかしい。
――でも、ここで取り繕っても意味がないわ。
濁りが、ない。
悔しさすら、ほとんどなかった。あるのはただ、事実を事実として置いた者の、静かな平らさだった。
「まあ」
ヴィオレッタは扇を開いた。
「ご心配には及びませんわ。数字は覚えれば済むことですもの」
「……はい。教えていただけますか」
「よろしくてよ」
言ってから、彼女は妙な気分になった。
教えてやる、と言った。この自分が。
◇
休憩に、茶が運ばれてきた。
同席していた侍女頭が、盆を置いて、下がりかけて、足を止めた。
「エステル様」
「はい」
「……三年前の慈善会でのご無礼、お詫び申し上げます」
腰を折った。侍女の礼ではなかった。
「まあ」
エステルは、微笑んだ。
「忘れましたわ」
ヴィオレッタは、その内側を見ていた。
嘘が、なかった。
この娘は本当に、何を言われたかを覚えていない。恨みも、痼りも、内側のどこにも見当たらない。
だから彼女は、鎌をかけた。
「三年前の慈善会と申しますと、いつのことですの」
「十一月の九日でございます」
即答だった。
「午後の会で、朝から雨でした。夕方には霙になって、皆さま馬車をお待たせになって……」
そこで、言葉が止まった。
エステルは、少し笑った。
「あら。日にちだけは、覚えておりますのね」
◇
ヴィオレッタは、扇の陰でその言葉を転がした。
中身は忘れて、日付と天候は覚えている。
妙ですこと、と思った。それ以上は思わなかった。
人には癖がある。数字に強い人間もいれば、雨の日を覚えている人間もいる。彼女自身、一年あまり前の紅茶の温度を覚えている。
内側に恨みがないことを、彼女はもう三度確かめていた。
三度とも、なかった。
◇
午後は、想定問答だった。
「王妃となられれば、必ず問われますことがございます」
老女官が言った。
「ご出自にございます」
ヴィオレッタは、隣を見なかった。見なくても、色は届く。
「エステル様。侯爵家に入られた経緯を、公の場で問われたとお考えくださいませ」
「はい」
エステルは、姿勢を正した。
「七つのときに、父に引き取っていただきました。母は同じ屋敷におります」
速い、とヴィオレッタは思った。
一拍だけ、他の受け答えより速かった。用意してあるのだ。何十回も答えたことのある言葉は、そういう速さになる。
当然ですわね、と彼女は思った。この娘は生涯これを訊かれて生きてきたのだろう。
「よろしゅうございます。……もう少し、お言葉を短く」
「はい」
右手が、左の手首に触れた。
袖の上から、一度だけ。
◇
三科目めが、その翌日だった。
「慈善接遇にございます」
老女官が、白い紙の束を二人の前に置いた。
「来月の孤児院慰問に先立ち、王家より子どもたちへ文をお送りいたします。名簿は十七名。……お一人ずつ、お書きくださいませ」
ヴィオレッタは、羽根ペンを取った。
取って、そのまま止まった。
◇
書き出しは決まっている。作法として型がある。「親愛なる」でも「愛しき子らへ」でもいい。
彼女は、その四文字が書けなかった。
親愛ではないからだ。
――では、事実だけを書けばよろしいのですわ。
彼女はペンを下ろした。来月そちらへ参ります。それは事実だ。
次の一行が書けなかった。
「楽しみにしております」――していない。
「元気でいなさい」――そう願っていない。
「あなたたちのことを想っております」――想っていない。名前すら今日初めて見た。
紙を一枚、脇へ置いた。
新しい紙を引き寄せて、また止まった。
◇
一時間が過ぎた。
ヴィオレッタの手元には、白い紙が七枚積み上がっていた。
隣では、羽根ペンの走る音が止まらなかった。
「――リゼット様は、絵がお好きと伺いましたので、そのことを」
エステルが、老女官に何か訊いていた。
「名簿に、皆さまの年をお書き添えいただけましたので。六つの子には六つの言葉で書きませんと、読めませんでしょう」
ヴィオレッタは顔を上げた。
「名簿を、取り寄せられましたの」
「はい。先月」
用意周到ですこと、と彼女は思った。
それだけを思った。
◇
刻限に、老女官が紙を集めた。
エステルの前には、封をした文が十七通。
ヴィオレッタの前には、白紙が十一枚。
「ヴィオレッタ様」
「はい」
「一通も、お書きになりませんでしたか」
「ええ」
彼女は、扇を開いた。
「書けませんもの」
「……書けぬ、とは」
「わたくしがあの子たちに送れる本当のことは、来月行く、それだけですわ。あとは全部、嘘になりますの」
老女官は、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「ヴィオレッタ様。文とは、そういうものではございません」
「存じております」
「では、なぜ」
「わたくし、嘘だけはつきませんの」
◇
三日後、評価が出た。
老女官は二枚の書付を持って、二人の前に立った。
「作法、互角。家政、ヴィオレッタ様。慈善接遇、エステル様にございます」
彼女は、書付を畳んだ。
「僭越ながら、所感を申し上げます。……ヴィオレッタ様は国を富ませる王妃に、エステル様は国に愛される王妃になられましょう」
エステルが、深く礼をした。
「ヴィオレッタ様のおかげでございます。帳簿を教えていただけることになりましたの」
――本当に、そう思う。
ヴィオレッタは、老女官の内側を覗いた。
――正しい評でございましょう。
――ただ。
――役に立つことと、選ばれることは、別でございますよ。
ほう、と彼女は思った。
この老人は、口では公平を言い、内側で結論を出している。悪くない。人はみなそうだ。
だから彼女は、その言葉を軽く扱った。
軽く扱ったことを、ひと月とたたぬうちに思い出すことになる。
◇
その夜、ヴィオレッタは自室で紙に向かった。
誰にも言わずに、もう一度だけ試すつもりだった。
名簿を一枚めくる。いちばん上の名前を書き写す。年は六つ。絵が好きだと、隣の娘が言っていた。
その先が、書けなかった。
絵が好きだと聞いた。それは事実だ。だから、うまくお描きなさい――と書こうとして、手が止まる。うまく描いてほしいと思っていない。どうでもいい。心の底から、どうでもいい。
この紙を受け取る子どもは、これを本気で読むだろう。
彼女は、紙を暖炉に入れた。
新しい紙を引き寄せる。名前を書き写す。手が止まる。暖炉に入れる。
同じことを、蝋燭が半分になるまで続けた。
最後の一枚が燃え上がるのを見ながら、彼女はぼんやりと数を数えた。
昼と合わせて、二十六枚目だった。
◇
寝台に入ってから、彼女は考えた。
あの娘は十七通書いた。全部、本当のことだけを書いて、十七通書いた。
同じ材料で。同じ一時間で。
――どうやって。
答えは出なかった。
胸のあたりが、また少し暖かかった。
彼女は毛布をかぶって、それを黙殺した。
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