第4話 濁りのない人
人の中身には、必ず継ぎ目がある。
表に出している顔と、内側にあるもの。その二つは決して一致しない。ずれているから、そこに色が生まれる。ヴィオレッタが視ているのは心そのものではなく、そのずれのほうだった。
だから、彼女は退屈しなかった。
この世に継ぎ目のない人間はいない。17年、一人もいなかった。
◇
その夕、大広間には二百人が集まっていた。
王妃陛下の御前で、第二の候補が宮廷に披露される。名目は顔合わせ。実態は、値踏みの初日だった。
ヴィオレッタは定位置に立って、いつもの手順で読み流していった。
――どちらが勝つかしら。
――教会の娘ですって。平民に人気があるとか。
――アルヴェール公が黙っておるまい。
――どちらでもよい。負けたほうに縁を作っておけば済む話だ。
上座で、王妃陛下が扇を開いた。
――使えるほうを残せばよい。
その隣で、フェリクス司教が両手を組んでいた。
――この娘なら、叩けぬ。
――誰にも叩けぬ娘だ。
ヴィオレッタは、内心で笑った。
誰にも叩けぬ人間などいない。この老人は先夜、自分の別邸の話を一言されただけで杯を落としかけた。人はみな、叩かれる場所を体のどこかに隠して歩いている。
扉が開いた。
◇
最初に思ったのは、地味な娘だということだった。
装いに金がかかっていない。髪も凝っていない。所作は正確だが、目を引く華やかさはない。並べて見れば、ヴィオレッタのほうが二段は美しかった。
二百人の色が、ざわりと動いた。
――思ったより小さいのね。
――あれが、教会の。
――地味だこと。公爵令嬢と並べるのは酷ですわ。
エステル・ド・ヴァレンヌが、広間の中央で礼をした。
ヴィオレッタは、その内側を覗いた。
◇
何も、来なかった。
最初に思ったのは、遠いのだろうということだった。距離が離れると色は薄くなる。彼女は一歩、前に出た。
同じだった。
次に思ったのは、この娘が何も考えていないのだろうということだった。恐怖で頭が真っ白になる人間は、たまにいる。
だが、違った。
考えてはいるのだ。声も聞こえる。
――足が震えているわ。皆さまに気づかれてしまう。
――王妃陛下のお顔色が、少しお悪いみたい。
――ヴィオレッタ様は、思っていたよりずっとお綺麗な方ね。
聞こえる。鮮明に。
なのに、色がない。
◇
ヴィオレッタは、そこでようやく理解した。
読めないのではない。
ずれが、ないのだ。
この娘は、いま緊張している。緊張した顔をしている。王妃を案じている。案じた顔をしている。こちらを綺麗だと思っている。そういう目でこちらを見ている。
表と内が、寸分違わず同じところに置いてある。
継ぎ目が、どこにもない。
◇
ヴィオレッタは、足を止めた。
生まれて初めてのことだった。
◇
披露の儀は、退屈に進んだ。
王妃陛下が二言三言を賜り、エステルが答え、貴族たちが上品に頷いた。
「ヴァレンヌ侯爵家に入られて、何年になります」
「十年でございます、陛下」
右手が、左の手首に触れた。
袖の上から、一度だけ。何かがそこに在るかを確かめるような、短い動き。すぐに離れた。
癖ですわね、とヴィオレッタは思った。それ以上は思わなかった。
◇
人の輪が崩れたころ、彼女はまっすぐに歩いていった。
周囲の色が一斉に期待に染まるのが分かった。
――始まる。
――潰されるぞ、あの娘。
――どんな顔をなさるかしら。
結構ですわ、とヴィオレッタは思った。存分にご覧なさい。
家名で呼ばないことにした。これから、その家を知らないと言うつもりだったからだ。
「ごきげんよう。エステル様、とおっしゃいましたわね」
「はい」
「ヴァレンヌ侯爵家。……失礼、存じ上げませんの。地方の御家でいらして?」
広間が、静まった。
公爵令嬢が、侯爵家を「知らない」と言った。
下位の者が同じことを言えば、家ごと沈む種類の無礼である。だがこの場に、それを咎められる人間は一人もいなかった。彼女の父は王国に三家しかない公爵の一人で、彼女自身は王太子の婚約者である。
殴り返されない場所から殴る。ヴィオレッタは17年、それを呼吸のようにやってきた。
ヴィオレッタは、じっと待った。
怒りが立つはずだった。屈辱でもいい。作り笑いの下で歯を食いしばる、あの醜い黄色が。それが視えれば、この娘はただの人間になる。
「はい。北の境の、小さな領地でございます」
エステルは、微笑んで答えた。
――ご存じないのは当然ですわ。名の知れた家ではないもの。
色が、ない。
◇
ヴィオレッタは、二の矢を継いだ。
「では、あちらのグラシュー伯爵令嬢は」
「はい」
「あの方を、どうお思いになりまして」
先ほどまで、あの娘が何を思っていたかを彼女は知っている。「地味だこと」「並べるのは酷ですわ」――全部、この広間の空気に乗って届いていた。
誰でも、少しは嫌う。それが人間だ。
「明るい方ですわ」
エステルは言った。
「先ほど、わたくしの髪飾りを褒めてくださいましたの」
――お声が大きくて、羨ましいこと。わたくしは人の輪が苦手ですから。
嫌いという言葉が、出てこなかった。
嫌っていて言わないのではない。探しても、その色そのものが内側になかった。
◇
給仕が、盆を差し出した。
エステルはグラスを受け取り、「ありがとう」と言った。
視線は、ヴィオレッタに向いたままだった。
礼を言われた娘は嬉しそうに下がっていった。ヴィオレッタは、何も思わなかった。侍女の顔を見る貴族など、この城に一人もいない。
◇
三の矢を、彼女は自分の側から放った。
「エステル様。ひとつ、教えて差し上げますわ」
「はい」
「わたくし、この宮廷で嫌われておりますのよ。二百人のうち百九十人ほどに。……ご存じでして?」
普通の娘なら、否定する。まさか、そんなことは、と。
そして内側が濁る。その濁りを見れば、この娘の底が知れる。
「はい」
エステルは、あっさりと頷いた。
「存じております」
ヴィオレッタの扇が、止まった。
「たくさん伺いました。恐ろしい方だと。近づいてはならないと」
嘘が、なかった。
彼女は本当に、そう聞いてきたのだ。そして、それを本人の前で口に出した。
◇
「……面白い方ですこと」
ようやく、ヴィオレッタは言った。
「なぜそれを、わたくしに仰いますの」
「訊かれましたから」
当たり前のことのように、エステルは言った。
それから、少しだけ嬉しそうに顔を上げた。
「ヴィオレッタ様も、嘘をおつきにならないと伺いました」
広間の空気が、変わった。
「……お会いするのが、楽しみでしたの」
◇
二百人の色が、一斉に動いた。
――まあ。
――そう来たか。
――なるほど、あの無礼を「正直」と呼び替えたわけね。
――あの方、うまい。
ヴィオレッタは、その動きを満足して眺めた。
この娘は今、自分の唯一の取り柄を、二百人の前で認めた。悪女の無礼を、正直という名前で呼んだ。上等な手だ。宮廷での初日に打つ手としては、悪くない。
――ですけれど、それだけですのよ。
彼女は扇を開いた。
「ええ。嘘だけは、つけませんの」
「存じております」
「……よく、ご存じですこと」
◇
人の輪が離れたあと、アルベールが横に立った。
「どうだ」
ヴィオレッタは、口を開こうとして――止めた。
言うべき言葉が、なかった。
つまらない娘だ、とは言えない。面白い娘だ、とも言えない。読めましたとも、読めませんとも言えない。
彼女は初めて、答えを選んだ。
嘘をつかずに済む答えを、探した。
「……まだ、なんとも」
「そうか」
アルベールは、それ以上訊かなかった。
◇
自室に戻って、ヴィオレッタは暖炉の前に立った。
胸のあたりが、妙に暖かかった。
熱でも出たのかと思って、彼女は自分の内側を点検した。二百人ぶんの色を毎日読んでいる娘にとって、自分の中身を覗くのは、指を折るより容易い。
小さな橙色が、灯っていた。
消えなかった。
憎悪でも、嫉妬でもない。優越でも、警戒でもない。ヴィオレッタは自分の中の醜さに、片端から名前をつけて生きてきた。名前のあるものは、扱える。
これには、名前がなかった。
他人に対して灯ったことが、一度もなかったからだ。
「……気味の悪い」
彼女は暖炉から離れた。
◇
「マリアンヌ」
「はい」
「今夜のこと、どうご覧になりまして」
侍女は、寝台の掛布を整える手を止めた。
――言っていいのかしら。
その色が、珍しく揺れていた。
「お答えなさい。嘘だけは許しませんわよ」
「はい」
マリアンヌは、掛布を置いた。
それから、まっすぐに言った。
「わたくしは、あの方が苦手でございます」
ヴィオレッタは、片眉を上げた。
「理由は」
「ございません」
「ございませんとは」
「ございません」
嘘では、なかった。
この娘の内側には、理由がなかった。ただ、はっきりとした拒絶の色だけが、一本だけ立っていた。
「そう」
ヴィオレッタは、髪を解きにかかった。
「僻んでいるのですわ、お前」
マリアンヌは、答えなかった。
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