第3話 塔
北の塔は、静かだった。
人が、一人しかいないからだ。
螺旋階段を上りながら、ヴィオレッタは肺が楽になるのを感じていた。王城には二百人が住んでいる。二百とおりの嘘が、朝から晩まで休みなく鳴っている。ここには一人ぶんしかない。一人ぶんの嘘は、嘘ではなく風景のようなものだ。
妙な話ですこと、と彼女は思った。
牢が、この国でいちばん静かな場所だなんて。
◇
面会の許可は、三ヶ月かかった。
王城に移った日から求め続け、アルベールは三ヶ月のあいだ渋り、そして昨日ようやく書状に署名した。ただし一度きり、と添え書きがあった。
「二度目はない」
彼はそう言った。書類から目を離さずに。
「なぜですの」
「君が、二度行きたくなる女だからだ」
◇
鉄の扉が開いた。
独房は、思っていたより広かった。寝台と、卓と、燭台がひとつ。窓には格子が入っているが、硝子は嵌まっている。北向きの部屋にしては、寒くない。
卓に向かって、女が座っていた。
栗色の髪。鹿のような目。九ヶ月前と、ほとんど何も変わっていなかった。
痩せてもいない。汚れてもいない。爪も髪も、きちんと整えられている。教会が完全には切り捨てていない証拠だ。あるいは、切り捨てたことを見られたくないだけか。
「あら」
セシリアが顔を上げた。
「来ると思ってた」
言葉が、平らだった。
この国の言葉ではある。意味は通る。だが響きが違う。抑揚が違う。一年あまり前、庭園の円卓で初めて聞いたときと同じ、耳慣れない平坦さ。
あのときは、心の声だけがそうだった。
今は、口に出す言葉まで同じ調子になっている。取り繕うのをやめたのだ、とヴィオレッタは理解した。
「ごきげんよう、聖女殿」
「その呼び方、やめてくれない?」
「では、なんとお呼びすれば」
「セシリアでいい」
彼女は肩をすくめた。
「もう、なんでもいいの」
◇
ヴィオレッタは、卓を挟んだ椅子に腰を下ろした。
内側を覗く。
九ヶ月前は、鈍く粘つく緑だった。焦りと、渇きと、自分を憐れむ色。
今は、澄んでいた。
――やっと来た。
――九ヶ月。長かった。
諦めの色ではなかった。反省の色でも、恨みの色でもない。
待っていた人間の色だった。
「ひとつ、お訊きしてよろしくて」
「どうぞ」
「あなた、反省しておられないでしょう」
セシリアは、きょとんとした。
それから、笑った。
「なんで反省するの?」
◇
その声には、一片の嘘もなかった。
「わたし、悪いことしてないもん」
「毒を盛りましたわね。自分の杯に」
「うん」
「ドレスを裂きましたわね。自分の手で」
「うん」
「階段から落ちましたわね。自分から」
「そう」
セシリアは頷いた。三度とも、あっさりと。
「だって、そういう話だったんだもの」
彼女は卓の上で指を組んだ。
「毒殺未遂があって、ドレスが裂かれて、階段から突き落とされて、それで冬の建国祭で断罪される。決まってたの。ぜんぶ、あなたがやるはずだった」
「わたくしが」
「そう。あなたが。悪役令嬢ヴィオレッタ・ド・アルヴェールが」
セシリアは、まっすぐにこちらを見た。
「なのに、あなた、何もしなかった」
――だから、こうなった。
――あの女が動かなかったのが悪い。
――わたしのせいじゃない。
澄んでいた。どこまでも。
ヴィオレッタは、感心した。
この娘は、侍女を一人差し出し、同じ屋根の下の令嬢を騙して情報を吐かせ、それが露見したときには真っ先にその侍女を売った。それを全部やった上で、いま本気で、自分は被害者だと思っている。
美しい、とすら思った。人間の自己弁護が、ここまで澄んだ形になることは滅多にない。
「あなた、わたしが階段から落ちるの、見てたでしょう」
「ええ」
「助けなかったよね」
「ええ」
「ひどい人」
「まあ」
ヴィオレッタは扇を開いた。
「お前に殺されてやる義理は、どこにもございませんの」
セシリアの眉が、ぴくりと動いた。
「それ、あのときも言った」
「よく覚えていらっしゃること」
「忘れないよ。……あれ、言われた側は結構こたえるんだから」
◇
「セシリア」
「なに」
「本題に入ってよろしくて」
「いいよ」
ヴィオレッタは、扇を畳んだ。
「この世界は、なんですの」
女の目が、細くなった。
――来た。
「それ、安いほうの質問だね」
「安い」
「うん。だから、教えてあげる。ただで」
セシリアは、燭台の火を見た。
「ここ、物語なの」
「物語」
「本。読み物。……わたし、読んだことがあるの。ここに来る前に、別のところで」
ヴィオレッタは、その内側を凝視した。
嘘がない。狂気の色もない。この娘は、心の底からそう信じている。
「登場人物も、筋書きも、結末も、全部書いてあった。わたしはそれを覚えてた。だから知ってたの、これから何が起きるか」
「予言でございますわね」
「違うって、あなたが言ったんじゃない」
セシリアは、少しだけ苦い顔をした。
「計画、でしょ」
「ええ。よく覚えていらっしゃること」
◇
「ですけれど、妙ですわね」
ヴィオレッタは首を傾げた。
「その本には、わたくしが何もしないことは書いてございませんでしたの?」
「書いてない」
「では、その本は間違っておりましたのね」
「間違ってない」
即答だった。
「あなたが、間違ったの」
◇
なるほど、とヴィオレッタは思った。
この娘は、自分の記憶のほうを正典としている。現実が食い違えば、現実が誤っている。
それは信仰である。信仰は、彼女の目では崩せない。読めるのは、本人が嘘だと知っている嘘だけだ。本人が本気で信じているものは、内側にも同じ色でしか映らない。
その規則を、ヴィオレッタはこのとき、まだ言葉にしていなかった。
◇
「では、高いほうを伺いますわ」
「どうぞ」
「なぜ、あなたの言葉は響きが違いますの」
セシリアの指が、止まった。
――それを訊くんだ。
――やっぱりこの人、そこに引っかかってたんだ。
「それ、高いよ」
「値をおっしゃい」
「手紙を一通、出してほしいの」
ヴィオレッタは、片方の眉を上げた。
「宛先は」
「言わない」
「中身は」
「読ませない」
「まあ」
彼女は笑った。
「ずいぶんな商いですこと」
「あなた、払うでしょ」
セシリアも笑った。
「だって、知りたいんだもん。そういう顔してる」
◇
ヴィオレッタは、女の内側を覗いた。
覗いて、そして――何も出てこないことに気がついた。
宛先がない。名前がない。文面もない。
あるのは、数だけだった。
――ひゃく、きゅうじゅうきゅう、きゅうじゅうはち、きゅうじゅうなな。
整然と、数が下っていく。淀みなく。
「……お前」
「ふふ」
セシリアは、心底嬉しそうにした。
「九ヶ月、練習したの」
――この人の前では、考えなければいい。
――考えてないことは、読めないんでしょ?
「あなたに負けたの、悔しかったから。ずっと考えてたんだ、どうすればよかったんだろうって」
彼女は数を数えながら、喋っていた。
「本には書いてなかったよ。あなたが人の心を読むなんて、一行も」
ヴィオレッタは答えなかった。
「でも、それしかないでしょ。あの夜あなたが知ってたことの説明が、他につかないもの」
「……それで、九ヶ月」
「うん。答えはひとつだった。あなたに読ませなければいい。それだけ」
ヴィオレッタは、静かに息を吸った。
この城に来てから、自分の目が届かない場所に立っている人間を見るのは、初めてだった。
悪くない、と思った。
思おうとした。
「よろしくてよ」
彼女は言った。
「一通だけですわ。封は切りません。中身も訊きませんわ」
「ありがとう」
「礼は結構。……で、響きの話は」
「ああ、それ」
セシリアは、あっさりと言った。
「わたし、ここの生まれじゃないの。ぜんぶ、それだけの話」
◇
鉄の扉の前まで来て、ヴィオレッタは足を止めた。
訊いておくべきことが、もうひとつあった。
昨日届いた告示に、名前がひとつ載っていた。エステル・ド・ヴァレンヌ。聞いたことのない侯爵令嬢。教会が第二の候補として立てた娘。
訊けば、この女は値をつけるだろう。
――やめておきますわ。
教会の駒に、手紙一通は高すぎる。
彼女は、そう判断した。
「ヴィオレッタ様」
背中に、声がかかった。
「ねえ」
振り返ると、セシリアが卓の向こうで首を傾げていた。
「あなた、まだ一人も『同じ声』を聞いてないの?」
◇
帰りの馬車で、ヴィオレッタは一言も喋らなかった。
同じ声。
あの女と同じ響きを持つ人間が、他にもいるということだ。この城に。あるいは、この国に。
馬鹿げている、と思った。
思いながら、指が扇の骨をなぞっていた。
彼女の目は、この世の醜さを残らず映す。17年、それだけを頼りに生きてきた。読めないものはない。読めない人間はいない。
今日、数を数える女に一度も届かなかった。
――練習すれば、防げますのね。
城門をくぐったとき、マリアンヌが小さく言った。
「お帰りなさいませ。……本日、正午にご到着でございます」
「誰が」
「エステル・ド・ヴァレンヌ様が」
ヴィオレッタは、窓の外を見た。
雪が、降り始めていた。
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