第2話 憎まれ役
新しい侍女は、扉の内側で頭を下げたまま、三十秒動かなかった。
マリアンヌ・ド・ロシェ。子爵家の娘。ヴィオレッタが二年にわたって嘲笑い、扇で指し、幾度も泣かせた娘である。
顔を上げさせても、真っ赤な色は少しも薄まらなかった。
「殿下の差配ですって?」
「はい」
「理由をお聞き?」
「伺いました」
マリアンヌの声は、震えていなかった。それだけで、ヴィオレッタは彼女を少し見直した。
◇
その理由は、前日にアルベール自身の口から聞かされていた。
「侍女を一人つける」
「間に合っておりますわ」
「間に合っていない。君の周りの人間は、君に嘘をつく」
彼は書類から目を離さずに言った。
「君は、それを全部見抜いてしまうのだろう。見抜いた上で、平気で使っている。……よくないな。あれは、じわじわ人を壊す」
「まあ。ご心配いただけますの」
「道具の手入れだ」
アルベールはようやく顔を上げた。氷点下の目で。
「君を最も憎んでいる人間を、君の最も近くに置いた。君に嘘をつけない人間が、一人は要るだろう」
◇
「わたくしは」
マリアンヌが、まっすぐに言った。
「あなた様が、大嫌いでございます」
部屋の空気が張り詰めた。控えていた老侍女が息を呑む。
ヴィオレッタは、笑った。
「結構よ。続けなさい」
「……は」
「わたくしのことを、生涯嫌っておいでなさい。詫びも要りませんし、隠す努力も無用ですわ。ただし、ひとつだけ約束していただきますの」
彼女は椅子から立ち上がった。
「嘘だけは、おつきにならないこと」
マリアンヌの心が、揺れた。真っ赤な色の中に、細い困惑の筋が走る。
――なんなの、この人は。
「わたくしが問うたことには、思ったとおりに答えなさい。醜くて結構。無礼で結構。取り繕われるくらいなら、罵られたほうがよほどましですわ」
「……なぜ、そこまで」
「なぜ?」
ヴィオレッタは窓辺に寄った。冬の光が、白い頬を照らした。
「この城には、二百人の人間がおりますの。二百人が、二百とおりの嘘をついておりますのよ。朝から晩まで。休みなく」
彼女は振り返らずに言った。
「一人くらい、正直な人間が側におりませんと。……肩が凝りますでしょう」
◇
その週、宮廷の空気が変わり始めた。
女官たちの心の声が、同じ方向を向いている。
――フェリクス司教様が、また王妃陛下のもとへ。
――今月に入って四度目よ。
――ご婚約に、教会が難色を示していらっしゃるとか。
ヴィオレッタは回廊を歩きながら、それを右から左へ流していた。
興味がなかった。
あの司教の内側は、先夜の晩餐で覗いたばかりだ。献金の一部を南街区の別邸に流し、そこに囲っている女がいる。あの男が自分に手を出せるはずがない。口を開けば終わりだと、あの男自身がいちばんよく知っている。
――泳がせておけばよろしいわ。
ヴィオレッタは、そう思った。
思ったことを、後で何度も思い出すことになる。
◇
評議の間に召集がかかったのは、三日後だった。
円卓には、国王、王妃、アルベール、宰相、そして教会からフェリクス司教。ヴィオレッタは末席に立たされた。座を与えられていない。妃ではあっても、まだ王家の人間ではないからだ。
「畏れながら、陛下」
司教が立ち上がった。恰幅のよい、白髪の、いかにも聖職者然とした男だった。
「王妃の選定について、教会より一案を申し上げたく存じます」
「申せ」
「王妃は、国母にございます。家格のみをもって定めるべきものではございませぬ」
ヴィオレッタは、彼の内側を覗いた。
そして、少し驚いた。
秘密がない。後ろ暗さもない。あの男は今、心の底から正しいことを言っているつもりでいた。
――この女は、人の弱みを掴む。
声が、堂々と響いていた。
――ならば、掴めぬ娘を立てればよい。
――清廉な娘を。誰にも叩けぬ娘を。それこそが、この女に対する唯一の刃だ。
ほう、とヴィオレッタは思った。
悪くない手だ。この男は自分を恐れていて、恐れながら、なお正確に打ってきている。恐怖は人を愚かにするものだが、たまにこうして賢くする。
「よって」
司教は続けた。
「妃選定を、複数の候補による選考とすることをお認めいただきたく」
王妃陛下が扇を閉じた。国王が唸った。アルベールは何も言わなかった。彼の内側では、算盤だけが静かに動いている。
――候補が増えれば、比較ができる。
――比較ができれば、判断材料が増える。
この男も、承認するだろう。ヴィオレッタは確信した。
「もうひとつ、畏れながら」
司教が、声を落とした。
「選考には、慈愛の実地をお加えいただきたく存じます」
「実地とは」
「王領内の施療院、あるいは孤児院への慰問にございます。……書面や作法では、王妃の資質は測れませぬゆえ」
誰も反対しなかった。
反対する理由が、ひとつもなかったからだ。
◇
評議が終わり、貴族たちが散っていった。
ヴィオレッタは、わざと回廊で足を止めて待った。
やがて、重い足音が近づいてくる。フェリクス司教は彼女を見つけて、一瞬止まり、それから何食わぬ顔で通り過ぎようとした。
その内側は、先ほどまでの堂々とした色を失っていた。
――言われるか。
――別邸のことを、ここで言われるか。
「司教様」
足音が止まった。
「……ヴィオレッタ様。何か」
「見事なご提案でございましたわ」
ヴィオレッタは微笑んだ。
「清らかな駒をお立てになるとよろしい。教会が推し、民が愛し、誰にも叩けぬ娘を。……ええ、それがいちばん確実な手ですもの」
「わたくしは、そのような意図では」
「存じておりますわ」
嘘だ、と彼女は思った。この男は今、その意図しか持っていない。
だがそれを言葉にする気は起きなかった。潰すのはいつでもできる。潰してしまえば、この男が何を仕掛けてくるかを見る楽しみが消える。
ヴィオレッタは、司教を見上げた。年上の、位の高い、体格のよい男を、それでもはっきりと見下ろすような目つきで。
「ですけれど、司教様。ひとつだけ申し上げておきますわ」
「……なんでございましょう」
彼女は笑った。生涯でいちばん軽やかに。
「弱みのない人間など、この世におりませんのよ」
司教は答えなかった。
答えられずに、背中を丸めて去っていった。
ヴィオレッタは、その後ろ姿を見送りながら満足していた。
あの男は今夜、眠れないだろう。自分がいつ切られるか分からないまま、朝まで天井を睨むだろう。
そういう夜を人に贈るのが、彼女は昔から好きだった。
◇
妃教育の初日は、その翌朝から始まった。
教育係の老女官は、寸分の隙もない礼で彼女を迎えた。
「ヴィオレッタ様。本日より、わたくしがお仕えいたします。何なりとお申しつけくださいませ」
――成り上がりの悪女が。
――どうせ半年ももつまい。
ヴィオレッタは頷いて、席に着いた。
所作。歩幅。扇の角度。挨拶の順位。二十七の作法が並べられ、彼女はその日のうちに全て覚えた。
「……見事でございます」
老女官は震える声で言った。
――なぜだ。なぜこの女が、こうも完璧に。
ヴィオレッタは何も答えなかった。
答える必要がない。作法とは、心にもないことを美しくやる技術だ。彼女は生まれてから17年、それしかしていない。
◇
夜。
マリアンヌが暖炉に薪をくべていた。ヴィオレッタは寝台の縁に腰かけ、髪を解いていた。
「お訊きしてもよろしいですか」
「なんですの」
「司教様のことでございます」
薪が、ぱちりと鳴った。
「あなた様は、あの方を潰せたのでしょう。回廊での物言いを聞いておりました。何か、握っていらっしゃる」
「ええ」
「なぜ、なさらなかったのですか」
ヴィオレッタは櫛を止めた。
「潰しても、次が来ますもの。教会は一人では動きませんわ」
「それだけですか」
「いいえ」
彼女は笑った。
「ああいう方は、生かしておいたほうが面白いですの。何を仕掛けてこられるか、全部視えますもの。……手の内の見えている敵ほど、退屈しのぎに向いたものはございませんわ」
マリアンヌの手が止まった。
その内側が、ゆっくりと濁っていくのが視えた。憎悪でも、恐怖でもない、もっと得体の知れない色に。
――この人は。
――本当に、誰のことも怖くないんだ。
――……いつか、それで死ぬと思う。
「マリアンヌ」
「はい」
「いい色ですわ、それ」
侍女は答えなかった。薪を一本くべて、扉を閉めて出ていった。
◇
翌朝、二通の書状が届いた。
一通目は、王太子アルベールから。北の塔への面会許可。ただし一度きり、と添えられていた。
二通目は、王家の告示だった。
妃選定は複数候補による選考とする。第二の候補として、以下の者を立てる。
ヴィオレッタは、その名を読んだ。
――エステル・ド・ヴァレンヌ。
聞いたことのない名前だった。
彼女は書状を畳んで、暖炉に放り込んだ。
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