第1話 静かな場所
朝が、いちばんうるさい。
ヴィオレッタ・ド・アルヴェールは寝台から足を下ろし、絨毯に爪先が触れた瞬間、その日一日ぶんの騒音が始まるのを聞いた。
扉の外に、三人。
――まだお目覚めでない。今日は遅い。
――昨夜、殿下とお会いになったそうよ。
――どうせ長くはもたない。あんな女。
三つの声が、三つの色を伴って壁を抜けてくる。焦燥の薄黄。好奇の桃。侮蔑の鈍い灰。誰も口を開いていない。開く必要がない。彼女には、閉じた口の中身が聞こえる。
王城には、二百人の人間が住んでいる。
二百とおりの嘘が、朝から晩まで、休みなく鳴り続けている。
ヴィオレッタは洗面台に手をつき、しばらく耐えてから、静かに吐いた。
◇
「お加減がすぐれないのでしたら、本日の晩餐は」
「行きますわ」
女官が差し出した紅茶を、彼女は一口飲んで戻した。
――また残された。ぬるかったのかしら。
――この方、前の侍女を紅茶の温度で叩き出したというもの。
――近づかないほうがいい。
温度は適切だった。ただ、飲む気にならなかっただけだ。
訂正する気にはならなかった。人が勝手に作った物語を、いちいち直してやる義理はない。それに、恐れられているほうが静かでいい。
王城に移って三ヶ月になる。
公爵邸には温室があった。東向きの、硝子の天井の、誰も入ってこない部屋。ヴィオレッタは幼いころから毎朝そこで本を読んだ。植物は嘘をつかない。何も考えていないからだ。
あの習慣は、去年の冬に捨てた。
捨てた理由を、彼女は誰にも話していない。
◇
「顔色が悪いな」
午後、東棟の執務室で、アルベールが言った。
「殿下も、相変わらず美しいお顔でいらっしゃいますこと」
「中身は?」
「氷点下ですわ」
「結構」
彼は書類から目を離さなかった。
この男の内側は、いつ視ても同じだった。温度がない。計算だけがある。国益、損得、優先順位。感情の入り込む隙間が一分もない。
ヴィオレッタは、それをこの城で最も好ましいものだと思っている。
嘘をつく人間は、心のどこかで自分が嘘をついていることに怯えている。その怯えが濁りになる。アルベールには濁りがない。彼は嘘をつくとき、嘘をついていると承知していて、それを恥じてもいない。
「今夜の晩餐だが」
「教会の慈善晩餐でございましょう」
「フェリクス司教が来る」
「まあ、光栄ですこと」
「ヴィオレッタ」
彼はようやく顔を上げた。
「あまり、人を壊すな」
「善処いたしますわ」
――しない気だな。
心の声のほうが、正確だった。
◇
晩餐は、退屈だった。
長卓に四十人。教会への献金額に応じて席次が決まる、上品な名前をつけた売買の場だ。誰もが慈愛について語り、誰の内側も帳簿で埋まっていた。
ヴィオレッタは末席近くに座り、料理をつつきながら、四十人ぶんの本音を浴びていた。
――今年は五百ポンド出した。来年は司教の紹介で息子を。
――隣の伯爵夫人、また同じ話を三度目だ。
――早く終わってくれ。腰が痛い。
その中で、ひとつだけ、妙に必死な色があった。
斜向かいのバルテル男爵夫人。四十がらみの、地味な、感じのいい婦人だった。彼女は献金の話題になるたびに笑顔で頷き、心の中で同じ数字を繰り返していた。
――八十ポンド。あと八十ポンド足りない。
――家名だけは、守らなくては。
なるほど、とヴィオレッタは思った。この夫人の家は、傾いている。
彼女は、夫人の首元に目を留めた。
青い石の首飾り。バルテル家に三代伝わる品だと、いつか誰かに聞いた覚えがある。
――先月の舞踏会。
記憶が、ひとつ引っかかった。
ドリュエ伯爵夫人が、よく似たものをつけていた。あのときは似ているだけだと思った。だが、八十ポンド。この夫人の頭の中で、さっきから同じ数字が回り続けている。
確証はなかった。
だから、投げてみることにした。
「バルテル夫人」
「はい?」
「その首飾り、お見事ですわね。ご当家に伝わるお品でございましょう」
夫人が微笑んだ。
「まあ。よくご存じで」
「ええ。……ですから、先月の舞踏会で、ドリュエ伯爵夫人が同じものをつけていらしたときは、目を疑いましたの」
長卓の会話が、止まった。
誰も何も言わない。だが四十人の内側が、一斉に同じ方向を向いた。
――売ったのか。
――では、今その首にあるのは。
――硝子だな。
夫人の顔から血の気が引いた。首筋まで白くなった。
――なぜ。
――なぜ、この方が。誰にも知られぬよう、仲買を三人はさんだのに。
当たりましたわね、とヴィオレッタは思った。
彼女の目は、人の中身を映す。だが、他人の家の家財のありかまでは教えてくれない。あれは推量だった。読めたのは、投げたあとに返ってきた悲鳴のほうだ。
――わたくしが、この方に何をしたというの。
何もしていない。ヴィオレッタは、そう思う。
この夫人は自分に一度も無礼を働いていないし、恨む理由も憎む理由もない。ただ、必死な色をしていた。必死な人間は隙だらけで、隙のあるものを突くのは、彼女にとって呼吸のようなものだった。
「まあ、失礼を」
ヴィオレッタは扇を開いた。
「よく似た品というのは、あるものですわね」
◇
その様子を、上座から見ていた男がいた。
デザートが下げられたころ、フェリクス司教が立ち上がり、杯を掲げた。恰幅のよい、白髪の、いかにも聖職者然とした男だった。
「本日は、皆さまの厚きご喜捨に、心より感謝申し上げます」
拍手。
「されど――」
司教の視線が、ゆっくりと下座へ落ちた。
「教会が案じておりますのは、金子ではございませぬ。この国の未来を担われる方が、いかなる心をお持ちであるか。それだけにございます」
誰もが、それが誰に向けられた言葉かを理解した。
「王家の慈愛を体現なさる御方に、いささか、陰の多い噂が届いております。……老いた身の、余計な心配でございましょうか」
四十人の首が、下座を向いた。
――言われた。
――さあ、どう出る。
――泣くか、怒るか。
ヴィオレッタは、司教の内側を覗いた。
金子、と自分で口にした瞬間に、この男の頭が勝手に動いた。
数字が、南へ折れた。教会に集まった献金の一部が、細い流れになって別のところへ向かっている。南街区の、庭のある家。そこに住む娘の顔が、浮かんで、すぐに消えた。
慈愛を語れば、囲っている女を思い出す。そういう作りの頭なのだ。
彼女は立ち上がり、優雅に礼をした。
「司教様。ご心配、痛み入りますわ」
声は澄んでいた。
「わたくしのような者にまでお心を配ってくださるとは、まことに、教会の慈愛は広うございます」
拍手が起きかけた。
「――ところで、司教様」
彼女は顔を上げた。
「南街区の別邸のお庭、この時季は薔薇が見事でございましょうね」
◇
誰も、何も分からなかった。
四十人の内側は、揃って白い困惑に染まった。何の話だ。庭? 薔薇?
ただ一人。
上座で杯を持った男の指が、痙攣したように震えた。
――なぜ。
――なぜ、知っている。
ヴィオレッタは、その色を心ゆくまで味わった。
恐怖という色は、いつ見ても悪くない。人間が最も正直になる瞬間の色だ。
「失礼いたしました。花の話などいたしまして」
彼女は席に着いた。
司教は、それきり一言も発しなかった。
◇
馬車の中で、ヴィオレッタはようやく息を吐いた。
四十人ぶんの声が遠ざかっていく。車輪の音だけになるまで、あと少し。
窓の外は雪だった。
彼女は、告発するつもりはなかった。
あの男を潰しても、何ひとつ面白くない。潰れる姿を見るより、いつ潰されるか分からずに震えている姿を見るほうが、ずっと長く楽しめる。
バルテル夫人のことも、明日には忘れるだろう。
――わたくしは、性格が悪いんですの。
幼いころから、そう言って生きてきた。
嘘ではなかった。彼女は本当に性格が悪い。ただ、それを言葉にする人間が、この世に自分しかいないだけだった。
二百人が二百とおりの嘘をつく城で、彼女だけが、自分の醜さに正確な名前をつけている。
だから彼女は、誰のことも恐れない。
◇
自室に戻ると、見知らぬ侍女が扉の内側に立っていた。
頭を下げたまま、動かない。
その内側から、真っ赤な色が飛んできた。
――どうして。
――どうしてわたくしが、この人の下に。
ヴィオレッタは、扉を閉めた。
久しぶりだった。この城に来てから、こんなにまっすぐな憎悪を向けられたのは。
「顔をお上げなさい」
顔が上がった。
二年にわたって嘲笑い、扇で指し、幾度も泣かせた娘の顔が、そこにあった。
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