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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第1章

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2/10

第1話 静かな場所

 朝が、いちばんうるさい。


 ヴィオレッタ・ド・アルヴェールは寝台から足を下ろし、絨毯に爪先が触れた瞬間、その日一日ぶんの騒音が始まるのを聞いた。


 扉の外に、三人。


 ――まだお目覚めでない。今日は遅い。

 ――昨夜、殿下とお会いになったそうよ。

 ――どうせ長くはもたない。あんな女。


 三つの声が、三つの色を伴って壁を抜けてくる。焦燥の薄黄。好奇の桃。侮蔑の鈍い灰。誰も口を開いていない。開く必要がない。彼女には、閉じた口の中身が聞こえる。


 王城には、二百人の人間が住んでいる。


 二百とおりの嘘が、朝から晩まで、休みなく鳴り続けている。


 ヴィオレッタは洗面台に手をつき、しばらく耐えてから、静かに吐いた。


   ◇


「お加減がすぐれないのでしたら、本日の晩餐は」


「行きますわ」


 女官が差し出した紅茶を、彼女は一口飲んで戻した。


 ――また残された。ぬるかったのかしら。

 ――この方、前の侍女を紅茶の温度で叩き出したというもの。

 ――近づかないほうがいい。


 温度は適切だった。ただ、飲む気にならなかっただけだ。


 訂正する気にはならなかった。人が勝手に作った物語を、いちいち直してやる義理はない。それに、恐れられているほうが静かでいい。


 王城に移って三ヶ月になる。


 公爵邸には温室があった。東向きの、硝子の天井の、誰も入ってこない部屋。ヴィオレッタは幼いころから毎朝そこで本を読んだ。植物は嘘をつかない。何も考えていないからだ。


 あの習慣は、去年の冬に捨てた。


 捨てた理由を、彼女は誰にも話していない。


   ◇


「顔色が悪いな」


 午後、東棟の執務室で、アルベールが言った。


「殿下も、相変わらず美しいお顔でいらっしゃいますこと」


「中身は?」


「氷点下ですわ」


「結構」


 彼は書類から目を離さなかった。


 この男の内側は、いつ視ても同じだった。温度がない。計算だけがある。国益、損得、優先順位。感情の入り込む隙間が一分もない。


 ヴィオレッタは、それをこの城で最も好ましいものだと思っている。


 嘘をつく人間は、心のどこかで自分が嘘をついていることに怯えている。その怯えが濁りになる。アルベールには濁りがない。彼は嘘をつくとき、嘘をついていると承知していて、それを恥じてもいない。


「今夜の晩餐だが」


「教会の慈善晩餐でございましょう」


「フェリクス司教が来る」


「まあ、光栄ですこと」


「ヴィオレッタ」


 彼はようやく顔を上げた。


「あまり、人を壊すな」


「善処いたしますわ」


 ――しない気だな。


 心の声のほうが、正確だった。


   ◇


 晩餐は、退屈だった。


 長卓に四十人。教会への献金額に応じて席次が決まる、上品な名前をつけた売買の場だ。誰もが慈愛について語り、誰の内側も帳簿で埋まっていた。


 ヴィオレッタは末席近くに座り、料理をつつきながら、四十人ぶんの本音を浴びていた。


 ――今年は五百ポンド出した。来年は司教の紹介で息子を。

 ――隣の伯爵夫人、また同じ話を三度目だ。

 ――早く終わってくれ。腰が痛い。


 その中で、ひとつだけ、妙に必死な色があった。


 斜向かいのバルテル男爵夫人。四十がらみの、地味な、感じのいい婦人だった。彼女は献金の話題になるたびに笑顔で頷き、心の中で同じ数字を繰り返していた。


 ――八十ポンド。あと八十ポンド足りない。

 ――家名だけは、守らなくては。


 なるほど、とヴィオレッタは思った。この夫人の家は、傾いている。


 彼女は、夫人の首元に目を留めた。


 青い石の首飾り。バルテル家に三代伝わる品だと、いつか誰かに聞いた覚えがある。


 ――先月の舞踏会。


 記憶が、ひとつ引っかかった。


 ドリュエ伯爵夫人が、よく似たものをつけていた。あのときは似ているだけだと思った。だが、八十ポンド。この夫人の頭の中で、さっきから同じ数字が回り続けている。


 確証はなかった。


 だから、投げてみることにした。


「バルテル夫人」


「はい?」


「その首飾り、お見事ですわね。ご当家に伝わるお品でございましょう」


 夫人が微笑んだ。


「まあ。よくご存じで」


「ええ。……ですから、先月の舞踏会で、ドリュエ伯爵夫人が同じものをつけていらしたときは、目を疑いましたの」


 長卓の会話が、止まった。


 誰も何も言わない。だが四十人の内側が、一斉に同じ方向を向いた。


 ――売ったのか。

 ――では、今その首にあるのは。

 ――硝子だな。


 夫人の顔から血の気が引いた。首筋まで白くなった。


 ――なぜ。


 ――なぜ、この方が。誰にも知られぬよう、仲買を三人はさんだのに。


 当たりましたわね、とヴィオレッタは思った。


 彼女の目は、人の中身を映す。だが、他人の家の家財のありかまでは教えてくれない。あれは推量だった。読めたのは、投げたあとに返ってきた悲鳴のほうだ。


 ――わたくしが、この方に何をしたというの。


 何もしていない。ヴィオレッタは、そう思う。


 この夫人は自分に一度も無礼を働いていないし、恨む理由も憎む理由もない。ただ、必死な色をしていた。必死な人間は隙だらけで、隙のあるものを突くのは、彼女にとって呼吸のようなものだった。


「まあ、失礼を」


 ヴィオレッタは扇を開いた。


「よく似た品というのは、あるものですわね」


   ◇


 その様子を、上座から見ていた男がいた。


 デザートが下げられたころ、フェリクス司教が立ち上がり、杯を掲げた。恰幅のよい、白髪の、いかにも聖職者然とした男だった。


「本日は、皆さまの厚きご喜捨に、心より感謝申し上げます」


 拍手。


「されど――」


 司教の視線が、ゆっくりと下座へ落ちた。


「教会が案じておりますのは、金子ではございませぬ。この国の未来を担われる方が、いかなる心をお持ちであるか。それだけにございます」


 誰もが、それが誰に向けられた言葉かを理解した。


「王家の慈愛を体現なさる御方に、いささか、陰の多い噂が届いております。……老いた身の、余計な心配でございましょうか」


 四十人の首が、下座を向いた。


 ――言われた。

 ――さあ、どう出る。

 ――泣くか、怒るか。


 ヴィオレッタは、司教の内側を覗いた。


 金子、と自分で口にした瞬間に、この男の頭が勝手に動いた。


 数字が、南へ折れた。教会に集まった献金の一部が、細い流れになって別のところへ向かっている。南街区の、庭のある家。そこに住む娘の顔が、浮かんで、すぐに消えた。


 慈愛を語れば、囲っている女を思い出す。そういう作りの頭なのだ。


 彼女は立ち上がり、優雅に礼をした。


「司教様。ご心配、痛み入りますわ」


 声は澄んでいた。


「わたくしのような者にまでお心を配ってくださるとは、まことに、教会の慈愛は広うございます」


 拍手が起きかけた。


「――ところで、司教様」


 彼女は顔を上げた。


「南街区の別邸のお庭、この時季は薔薇が見事でございましょうね」


   ◇


 誰も、何も分からなかった。


 四十人の内側は、揃って白い困惑に染まった。何の話だ。庭? 薔薇?


 ただ一人。


 上座で杯を持った男の指が、痙攣したように震えた。


 ――なぜ。

 ――なぜ、知っている。


 ヴィオレッタは、その色を心ゆくまで味わった。


 恐怖という色は、いつ見ても悪くない。人間が最も正直になる瞬間の色だ。


「失礼いたしました。花の話などいたしまして」


 彼女は席に着いた。


 司教は、それきり一言も発しなかった。


   ◇


 馬車の中で、ヴィオレッタはようやく息を吐いた。


 四十人ぶんの声が遠ざかっていく。車輪の音だけになるまで、あと少し。


 窓の外は雪だった。


 彼女は、告発するつもりはなかった。


 あの男を潰しても、何ひとつ面白くない。潰れる姿を見るより、いつ潰されるか分からずに震えている姿を見るほうが、ずっと長く楽しめる。


 バルテル夫人のことも、明日には忘れるだろう。


 ――わたくしは、性格が悪いんですの。


 幼いころから、そう言って生きてきた。


 嘘ではなかった。彼女は本当に性格が悪い。ただ、それを言葉にする人間が、この世に自分しかいないだけだった。


 二百人が二百とおりの嘘をつく城で、彼女だけが、自分の醜さに正確な名前をつけている。


 だから彼女は、誰のことも恐れない。


   ◇


 自室に戻ると、見知らぬ侍女が扉の内側に立っていた。


 頭を下げたまま、動かない。


 その内側から、真っ赤な色が飛んできた。


 ――どうして。

 ――どうしてわたくしが、この人の下に。


 ヴィオレッタは、扉を閉めた。


 久しぶりだった。この城に来てから、こんなにまっすぐな憎悪を向けられたのは。


「顔をお上げなさい」


 顔が上がった。


 二年にわたって嘲笑い、扇で指し、幾度も泣かせた娘の顔が、そこにあった。



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