第69話 真珠が、一粒ずつ
湯が、熱い。
ヴィオレッタは、浴槽の縁に指をかけたまま、足を入れなかった。
三日続けてである。一日目は、たまたまだろうと思った。二日目は、薪の質でも変えたのかと考える。三日目になって、ようやく思い当たった。この三日、湯を張っているのはマリアンヌひとりである。
「マリアンヌ」
「はい」
「湯が、熱いのですけれど」
◇
衝立の向こうで、侍女が息を呑んだ。
「……申し訳ございません。すぐに、水を」
「水はよろしいわ。三日続けて熱い理由を、お言いなさい」
◇
この侍女の気持ちは、湯の温度に出る。怒っていればぬるく、浮かれていれば熱い。ちょうどよい湯の日は、何も起きていない日である。
◇
三日続けて熱いのは、浮かれているからではない。湯を張りながら、別のことを考えている。考えているうちに、薪をくべすぎるのだ。
腹の内を覗けば、一日目に分かったことだった。覗かなかったのは、侍女の悩みごとまでいちいち拾うほど、ヴィオレッタが暇ではないからである。
いまさら覗くまでもない。覗けば、妹たちの顔が並んでいるはずだ。
◇
「……母が」
マリアンヌは、衝立の陰から出てこない。
「母が、真珠の会というものに、入りまして」
「真珠の会」
◇
「王都の夫人たちのあいだで、近ごろ流行っております。南の海に真珠の採れる浅瀬があって、会に入るときに納めた金貨で、潜り手と船を雇うのだそうでございます。そのかわり、浅瀬の実りを分けてもらえる、と」
「分けてもらえるのは、いつ」
「新しく二人を誘えば、真珠が一粒届きます。誘った相手がまた二人を誘えば、もう一粒」
「それで」
「母は、セリーヌの持参金を、納めてしまいました」
◇
セリーヌは、マリアンヌのすぐ下の妹である。十七で、この秋に縁談がまとまりかけていた。
◇
「真珠が増えれば、持参金も増える。母は、そう申しておりまして」
「増えましたの」
「一粒、届いたそうでございます。二人を誘って」
「それから」
「それから、母が誘える者が、もう、おりません。子爵家の付き合いなど、知れたものでございますから」
◇
ヴィオレッタは、湯に指を浸した。
やはり、熱い。
「マリアンヌ」
「はい」
「その会の主は、誰」
衝立の向こうで、侍女の気配が止まった。
◇
主人がそれを訊くとき、何が起きるのか。この侍女は、もうよく知っている。
◇
真珠の会の主は、ラサール夫人という未亡人であった。
亡き夫は南の港の商人で、南の海に真珠の採れる浅瀬を持っていたという。会の金貨でその浅瀬に船を出し、実りを夫人たちに分けている。それが、会の言い分である。
三日後、ヴィオレッタはラサール夫人のサロンを訪ねた。
◇
招かれたのではない。こちらから、会に入りたいと書き送ったのだ。返書は、その日のうちに届いた。
◇
サロンは、真珠色の絹で壁を張った部屋だった。
夫人たちが、十人ほど集まっている。誰の首にも、耳にも、指にも、真珠が一粒か二粒ついていた。会の印である。印をつけていることは誇らしいのに、つけている粒の数は、誰も口にしない。
◇
ラサール夫人は、五十がらみの、ふくよかな女であった。
「まあ、ヴィオレッタ様。ようこそ、おいでくださいました」
両手を広げて出迎える。指に、大粒の真珠が三つ並んでいた。
◇
笑顔のまわりに、色が立つ。歓迎の言葉の下で、腹の内がまるで別の算段をしている色だ。
――公爵令嬢が入れば、王都じゅうが入る。
――冬至の船までに、あとひと回り。
◇
ヴィオレッタは、扇を開いた。
南の浅瀬で真珠を待つ者の色ではない。港で船を待つ者の色である。
◇
「見事な粒ですこと」
扇の先で、夫人の指を示す。
「南の浅瀬のものでございますわ。穴も、港の古い職人に開けさせておりますの」
――南の職人なんて、顔も知らない。ルグランの箱は、穴まで揃っていて助かる。
色が、ひときわ濃くなった。
「そう」
ヴィオレッタは、それだけ言った。
◇
夫人が、小さな札を差し出す。
厚紙に、金の縁取り。表に真珠の絵が描いてあり、裏には、細かな字で会の決まりが並んでいる。
入るときに、金貨を納めること。新しく二人を誘えば、真珠を一粒受け取ること。誘われた者がまた二人を誘えば、誘った者にもう一粒。
そして、最後の一行。
『真珠の数は、会の内でも外でも、口にせぬこと。慎みは、会の誉れである』
◇
「この最後の決まりは」
「ああ、それは」
ラサール夫人は、ころころと笑った。
「貴婦人の嗜みでございますわ。真珠の数を比べるなど、はしたないことでございましょう。数えるのは、ご自分の箪笥の中だけで十分」
――誰も、隣の女に真珠の数を訊かない。訊くのは下品だから。
◇
色は立っている。それなのに、波ひとつない。同じ嘘を何十回と口にしてきた者の色だった。
◇
この女は、王都の夫人たちをよく知っている。
知っているから、この決まりを最後に置いた。金の話を人前でしないのが、貴婦人の作法である。作法を守る者ほど、隣の女が真珠を何粒持っているかを知らない。知らなければ、自分の一粒がどこから来たのかも考えない。
考えないまま、冬至まで待たせておけばいい。冬至の船が出るまで。
◇
「よく分かりましたわ」
ヴィオレッタは、札を胸元にしまった。
「入りますわ。金貨は、明日、執事に届けさせます」
サロンの夫人たちが、顔を見合わせる。
見合わせた顔が、どれも明るい。公爵令嬢が入る。王太子殿下の婚約者が入る。それだけで、自分の一粒の値打ちが少しだけ上がったように思える顔である。
◇
入口の近くに、若い令嬢がひとり座っていた。
ヴィオレッタがサロンに入ったとき、この令嬢だけが立たなかった。立たずに、ヴィオレッタの後ろのマリアンヌを、上から下まで眺めている。
――子爵家の娘が侍女なんて。あの家、よほど困ってるのね。
◇
帰り際に、ヴィオレッタはその令嬢の前で足を止めた。
「お名前は」
「……ドーヴィル子爵家の、カミーユでございます」
「そう」
それだけ言って、通り過ぎる。
◇
翌週、王都でいちばんの仕立屋が、ドーヴィル子爵家の春の衣装の注文を断った。公爵家の出入りの店である。断るように、とだけ言い、理由は仕立屋にも言っていない。仕立屋のほうも、訊かなかった。
◇
帰りの馬車で、マリアンヌは膝の上で手を握っていた。
「お嬢様。お入りになるのですか、本当に」
「入ると申しましたわ」
「ですが、あれは」
「あれは、何ですの」
マリアンヌは、言葉を探している。
◇
探して、見つからない。見つからないのは、この侍女にも、あれが何なのか、まだひと言では言えないからである。母が持参金を納めた会。真珠が届く会。届かなくなった会。
「……お嬢様は、誰をお誘いになりますの」
ヴィオレッタは、胸元の札に指先で触れた。
「全員ですわ」
「……全員」
「わたくしの茶会においでになる方を、全員。一度に」
マリアンヌの顔が、ゆっくりと青くなっていく。
◇
その晩の湯は、ぬるかった。
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