番外編 よく似た猫でございました 〜侍女マリアンヌの手記〜
お嬢様は、朝が早うございます。
わたくしが起きるより先に、お嬢様の寝台がもう冷えている。そういう朝が、月に何度かございました。
はじめのうちは、気にも留めておりません。眠れない晩もおありだろう、と思っておりました。
気になりはじめたのは、厨の者の話を聞いてからです。
◇
「お嬢様の言いつけでな。前の晩の肉の切れ端を、小皿にとっておくことになっている」
厨の者は、首をひねっておりました。
「朝には、小皿ごと、なくなっている」
何にお使いになるのか、誰も知らない。訊いた者もいない。この家で、お嬢様に理由をお訊ねする者はおりません。
わたくしも、訊きませんでした。
かわりに、ある朝、早く起きたのでございます。
◇
まだ暗いうちに、お嬢様は外套を羽織って、裏庭へお出になりました。
手には、厨の小皿。
わたくしは、物置の陰から見ておりました。
裏庭の、塀の崩れたところ。そこにお嬢様が小皿を置かれると、どこからともなく、猫が出てまいります。
一匹、二匹、三匹。ぜんぶで、五匹。
◇
お嬢様は、しゃがみもなさいません。立ったまま、扇を胸に当てて、猫を見下ろしておいでです。
そして、お呼びになりました。
「オベール。うるさいですわ」
いちばん大きな声で鳴いていた、まだら猫に。
「ルフェーヴル。あなたは、皿が出るときだけ来ますのね」
塀の上から、皿を見るなり飛び降りてきた、痩せた灰色の猫に。
「ペラン。人の皿に顔を突っ込むのはおよしなさい」
ほかの猫を押しのけて、二皿目を狙う太った猫に。
わたくしは、物置の陰で口を押さえました。
どれも、知っている名でございます。
◇
オベール伯爵夫人は、王都でいちばん声の大きい女。
ルフェーヴル男爵は、宴の招きがあるときだけ公爵家に顔を出す男。
ペラン子爵夫人は、茶会の菓子を、自分の皿に取りすぎる女。
よく、似ております。
腹が立つほど、似ております。
◇
見つかったのは、四日目の朝です。
「マリアンヌ」
お嬢様は、こちらをご覧にもならずに仰いました。
「物置の陰は、冷えますでしょう」
出ていくほかございません。
「……猫に、人の名を」
「似ておりますもの」
「似ていれば、よろしいのですか」
「猫は、お世辞を申しませんから」
◇
お嬢様は、小皿を爪先で少し押しやって、太った猫から痩せた猫のほうへ肉を寄せなさいました。
「人の名をつけておけば、人に会ったときに、猫の顔を思い出せますの。オベール伯爵夫人がどれほど大きな声で話しても、あの猫だと思えば、腹も立ちませんわ」
そう仰って、少しだけ、お笑いになった。
お嬢様が笑うのは、たいてい、誰かが損をするときです。誰も損をしないときにお笑いになるのを、わたくしはあの朝、はじめて見ました。
◇
困ったことになったのは、その月の末でございます。
オベール伯爵夫人が、お茶に見えました。
お通ししたのは、庭に面した小さな客間。窓が、少し開いていた。
開いていたのが、いけなかったのです。
まだら猫が、窓から入ってまいりました。
伯爵夫人が、高い声を上げます。
「まあ、可愛らしい。公爵家では、猫をお飼いですの?」
「飼ってはおりませんわ。来るだけですの」
「お名前は?」
わたくしの背中を、冷たいものが走りました。
お嬢様は、嘘をおつきにならない。
◇
「わたくしが勝手に呼んでいる名なら、ございますわ」
「まあ、ぜひ伺いたいわ」
お嬢様は、まだら猫をご覧になって、それから伯爵夫人をご覧になりました。
「オベール、と」
客間が、しんといたしました。
わたくしは、盆を落とさないように、両手に力をこめるのが精いっぱい。
伯爵夫人の顔が、見る見るうちに赤くなってまいります。
怒りの赤では、ございませんでした。
「まあ……! まあ、わたくしの名を? ヴィオレッタ様が、猫に、わたくしの名を?」
喜んでいるのです。
◇
なぜ自分の名なのかを、この女は一度も訊きませんでした。
訊けば、お嬢様はお答えになったでしょう。声の大きいところが、よく似ておりますの、と。
訊かなかったのは、伯爵夫人にとって、たいへんな幸いでございます。
その日のうちに、伯爵夫人は三軒の客間でこの話をしたそうです。王都でいちばん声の大きい女ですから、三軒で済んだのは、むしろ控えめなほうでしょう。
◇
翌週から、困ったことが増えました。
「ヴィオレッタ様。わたくしの名の猫は、まだおりませんの?」
茶会のたびに、夫人たちがお嬢様にそう訊いてくる。
お嬢様は、扇の陰で微笑んで、同じことしか仰いません。
「似た猫が参りましたら」
嘘ではございません。
似た猫が来ないかぎり、名はつかない。そして、似た猫が来たときにどんな理由で名がつくのかを、夫人たちはまだ知らないのです。
◇
最後に、書いておかねばならないことがございます。
裏庭に来る猫は、五匹でした。
オベール、ルフェーヴル、ペラン。あと二匹。
一匹は、片目の白い老猫で、めったに塀から降りてこない。お嬢様は、この猫を「ベルナール」とお呼びになります。皿には寄りつかないのに、ほかの猫が喧嘩を始めると、いつのまにか下りてきて、間に座っている猫です。
これは、少し分かる気がいたしました。
◇
残りの一匹は、黒い雌猫でございます。
毎朝来るのに、決してお嬢様の足もとには寄らない。小皿から少し離れたところに座って、お嬢様をじっと睨んでいる。撫でようと手を伸ばされれば、毛を逆立てて唸る。
それでいて、自分のぶんだけは、きっちり食べて帰っていく。
ある朝、わたくしは、とうとうお訊ねしてしまいました。
「お嬢様。あの黒いのは、何とお呼びに」
お嬢様は扇を閉じて、わたくしをご覧になります。
嘘をおつきにならない方でございます。
「マリアンヌ、と」
◇
わたくしは、あの猫が嫌いです。
今朝も来ておりました。撫でさせはしませんでしたが、皿はきちんと空にしてまいりました。
腹が立つほど、よく似ております。
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