番外編 灰だらけでございました 〜侍女マリアンヌの手記〜
あの方の不器用を帳面に書くのは、はじめてである。
帳をご覧になれば、執事より早く間違いを見つけておしまいになる。客を断るのも、人を切るのも、扇ひとつで済む。
指先だけが、からきしである。
◇
まず、蝋燭のことを書く。
礼拝堂の蜜蝋を、一本くすねた。
くすねた、と書くほかない。燭台係のエミールじいさんは、蝋燭の長さを毎朝指で測る。一本足りなければ執事に言いに行く。執事は、蜜蝋の値段をそらで言える。
◇
抜いたあとに、自分の部屋の獣脂の蝋燭を立てておいた。
翌朝、エミールじいさんは燭台の前で長いこと首をかしげていた。匂いを嗅いで、何も言わずに去っていく。
言えば、毎朝ちゃんと測っていなかったことになる。
あの者には、すまないことをした。
◇
一晩目のことを書く。
あの方は蜜蝋を指でのばし、暖炉の灰を包もうとなさった。のばしすぎて破れる。破れたところから灰がこぼれる。こぼれた灰を、袖でお払いになる。
「お嬢様、袖が」
「見ればわかりますわ」
あの方は、袖をしばらくご覧になった。
「……白いのですけれど」
「灰色でございます」
◇
絨毯は、もっとひどい。
亡き奥様のお選びになった、深い葡萄色である。葡萄色に灰は、よく目立つ。私は夜中に這いつくばり、刷毛で一粒ずつ掃いた。
あの方は、そのあいだも寝台の端で蝋をのばしておいでだった。
「お嬢様。今夜は、もう」
「もう一つだけですわ」
◇
もう一つ、が九つ続いた。
九つとも、割れている。
◇
明け方、袖を洗い場へ持っていった。
暖炉の掃除をお手伝いなさった、と言った。屋敷に信じる者は一人もいない、と前の晩にあの方へ申し上げたばかりの言い訳である。
誰も信じなかった。
信じないまま、誰も何も訊かない。公爵家の洗い場の女たちは、訊かぬほうがよいことを心得ている。
黙って袖を洗い、黙って私の顔を見た。
少しだけ、気の毒そうな顔であった。
◇
二晩目に、厚みが決まる。
決めたのは、あの方ではない。爪の厚みくらいでございます、と私が横から申し上げた。妹たちの髪を結うとき、髪油を手のひらにのばす厚みが、ちょうどそのくらいである。
あの方は、私の顔をしばらくご覧になってから、爪の厚みにのばされた。
一つ、割れずに残った。
◇
その晩、あの方は湯浴みからお戻りになったばかりである。
髪を拭く間も惜しんで、湿った手のまま握られる。
開く。
灰は、出なかった。掌に、泥がへばりついている。
◇
「出ませんわね」
「出ておりません」
「出ておりますわよ。貼りついているだけですわ」
「それは、出ていないと申します」
◇
あの方は、それきり黙って、泥の掌をご覧になっていた。
長かった。
手巾をお渡ししても、すぐにはお取りにならない。
「乾いた手でないと、出ませんのね」
「さようでございますね。……それが、何か」
「いいえ。覚えておくだけですわ」
そう仰って、ようやく手を洗いにいかれた。
私は、その「覚えておく」を帳面に書いた。何を覚えておかれるのかは、書いていない。分からなかったからである。
◇
三晩目は、私が包んだ。
手を出すなと言われる前に、出してしまう。妹たちで覚えたやり方である。
あの方が手を洗っておいでのあいだに、蝋をのばし、灰を包み、小皿に七つ並べておいた。
あの方は、何も仰らなかった。手を念入りにお拭きになって、一つを取り、小指の付け根に挟まれる。
◇
私は、あの方より指が器用である。
妹が三人いる。三人ぶんの髪を結い、三人ぶんの綻びを繕い、三人ぶんの泣き言を聞いてきた。指と耳は、それで鍛えられた。
あの方は、どなたかの髪を結ってさしあげたことがない。
◇
夜明け前に、あの方は掌を開かれた。
白い灰が、音もなくこぼれた。
「……出ましたわね」
「マリアンヌ。あなた、包むのがお上手ね」
「お嬢様が、お下手でいらっしゃるだけでございます」
言うまいと決めていたことである。
言いながら、私はもう絨毯を掃いていた。
◇
掃きながら、いまのお言葉を宮廷の物差しに当ててみた。
布地をお褒めになるのが、最上級。よくお仕立てになりましたこと、は縫い代が足りないという意味である。
包むのがお上手ね、は、どちらにも載っていない。
載っていないものは、測れない。測れないので、帳面には言葉だけを写しておいた。
◇
小皿の粒を数えておく。
七つ包んで、夜明けに一つ使った。六つ。
◇
夜会のことを書く。
私は広間の壁際にいた。
侯爵夫人が「お試しになりませんこと」と言ったとき、私は、あの方の右手ではなく天井の燭台を見ていた。
壁際の侍女の目が動けば、誰かがそちらを見る。だから見ない。
手袋の粒は、私が包んだものである。
◇
広間から、音が消えた。
消えたので、出たのだと分かった。
燭台から目を下ろすと、あの方の足もとに、白い灰が少し舞っている。
五つ。
◇
大聖堂の朝、小皿から一つを取って、お渡ししようとした。
「要りませんわ」
「ですが、出なければ」
「出しませんのよ。今日は」
◇
そこで、二晩目の泥の掌を思い出した。
はじめからそのおつもりだったのかどうか、私は知らない。訊いていない。
訊けば、たぶん答えが返ってきてしまう。
◇
聖堂で、あの方の手からは何も出なかった。
あの男の手からは、泥が出た。
二晩目に、あの方の掌にへばりついていたのと、同じ泥である。
◇
柱の陰で、私は両手を握っていた。
あの方の「出ませんわ」から、あの男の掌が開くまで、ずいぶん長かった。
どのくらい長かったかは、感想なので書かない。
◇
屋敷に戻ってから、あの方は残りの粒を捨てるよう仰った。
「全部ですわよ」
「かしこまりました」
◇
その晩、厨に菓子の注文が出た。
七つである。
落ちたのは、あの男と侯爵夫人の二人。二人でも、七つは七つのままであった。
◇
五つのうち、四つは暖炉にくべた。蜜の匂いが、少し部屋に残る。
一つは、私の小箱に入っている。
◇
あの方は、数えておいでではない。
残りは捨てたかとお訊きになったら、捨てましたと申し上げるつもりである。
私は、嘘のつけるほうの女なので。
◇
最後に、これを書く。
三晩目の夜明けの「出ましたわね」は、いつもより少しだけ声が高かった。
見たものではなく聞いたものだが、帳面には書いておく。
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