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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第15章

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第68話 今日は、出ませんでしたわね

聖堂は、朝から人で埋まっていた。


 王都の夫人たちがいる。下町から歩いてきた者たちもいる。悪女の灰と説教師の灰と、どちらが神のものか。それを見に来た顔が、身廊の端から端まで並んでいた。


 前のほうに、蝋燭屋の女房の姿がある。前掛けは外していたが、指先に黄色い蝋の跡が残っていた。


 少し離れて、ジルベールが帽子を握っている。


 ヴァランタン侯爵夫人は、最前列の真ん中に座っていた。夜会で献金を出した夫人たちが、その左右を固めている。


   ◇


 祭壇の前に、ユベール司教が立っていた。


 白い髭の、背の低い老人である。目だけが若い。その目が、ヴィオレッタとセラファンを順に見た。


「作法を申します」


 司教の声は、乾いていた。


「神の前で問いを受ける者は、聖水で手を清める。身につけた指輪は外し、祭壇に置く。神の前で、己のものを何ひとつ握らぬために」


   ◇


 セラファンの内側が、一度だけ揺れた。


  ――指輪。……いい。袖に三つ入れてある。


 揺れは、すぐに収まった。この男は、指輪を外せと言われることまでは考えていたらしい。


 聖水のほうは、耳を素通りしていた。村の礼拝堂にも、水はある。入口で指先を濡らして、額に触れて終わる水である。この男の中で、聖水とはその程度のものであった。


「問いを受ける者から。ヴィオレッタ・ド・アルヴェール」


   ◇


 ヴィオレッタは、祭壇の前へ進み出た。


 左の薬指から、指輪を外す。


 母の形見である。外すのは、湯浴みのときと眠るときだけであった。それを、祭壇の白い布の上に置く。指が、ひどく軽くなった。


 聖水盤に、両手を沈める。


 水は冷たい。手首まで浸して、引き上げる。指の先から、雫が落ちた。


 拭う布は、差し出されない。濡れた手のまま問いを受けるのが、大聖堂の作法である。


   ◇


「掌を」


 ヴィオレッタは、右手を胸の高さに上げた。


 握る。


 開く。


 何も、出なかった。


   ◇


「出ませんわ」


 身廊が、どっと沸いた。


 沸いたなかに、安堵の声と嘲りの声が混じっている。悪魔の灰だった。神の家では出なかった。悪女の手は、やはり。


 ヴァランタン侯爵夫人が、扇の陰で口の端を上げていた。


  ――これで、終わり。


 マリアンヌが、柱の陰で両手を握りしめている。握りしめた指が、白い。三晩、灰を包んだ指である。


   ◇


「次。セラファン」


 男が、進み出た。


 灰色の衣の裾を引いて、ゆっくりと祭壇に歩み寄る。右の薬指の指輪を外して、ヴィオレッタの指輪の隣に置いた。置く手つきに、迷いはない。


 すれ違うとき、男の内側がこちらを向いた。


  ――出せなかったか。出したところで、同じことだったがな。


 聖水盤に、両手を沈める。


   ◇


  ――水。


 内側に、小さな声が立った。


 立って、すぐに消える。男は手を引き上げた。濡れた両手を胸の前で合わせ、祈るように目を閉じている。合わせた手が、袖口にほんの一瞬だけ触れた。


 右手を、高く掲げる。


 握る。


 開く。


   ◇


 灰は、こぼれなかった。


 掌に、灰色のものがへばりついている。濡れた指で潰された灰は、粉にならずに練れていた。泥のような筋が、指のあいだに一本、二本。


 身廊が、静まり返った。


   ◇


 男の内側は、もう言葉になっていない。


 三つの村で三度、男は乾いた手で握っていた。手首まで水に浸せと言う司教は、どの村にもいなかったのである。この男は、そのことに今はじめて気づいていた。


「掌を、こちらへ」


 司教が、男の手首を取った。


   ◇


 取って、掌を返す。


 灰の泥のなかに、薄く黄ばんだ欠片が光っていた。司教はそれを指先でつまみ、明かり取りの窓のほうへかざす。


「これは、何であろう」


 誰も答えなかった。


 答えたのは、前のほうに立っていた女である。


「……蜜蝋でございます」


   ◇


 蝋燭屋の女房が、前に出ていた。


 出てから、自分の声の大きさに気づいたらしい。それでも、下がらなかった。


「うちの店の、蜜蝋です。この色は、うちの窯の色ですから。蝋燭を切ったあとの端切れを、あの人が、月に一度、買いに来ます。祈りの灯に使うと、言って」


   ◇


 女房の手が、震えていた。


 その手で、金貨を一枚、あの男に渡している。渡されて持ち帰った灰は、寝ついた亭主に飲ませていた。


「わたしは、うちの蝋を、金貨で買い戻したんでございますね」


 セラファンは、何も言わなかった。


 身廊のあちこちで、同じ顔が男を見ている。紙に包んだ灰を、金貨で買った顔である。


   ◇


「司教様」


 男が、ようやく声を出した。


「これは、仕組まれたのです。あの悪女が、聖水に何かを」


「この聖水は、今朝、わたしが汲みました」


 司教は、男の手首を放した。


「こちらの令嬢が手を浸したのも、同じ水です。令嬢の手からは何も出ず、あなたの手からは、蝋が出た」


   ◇


「司教様。では、あの女の夜会の灰は」


 最前列から、ヴァランタン侯爵夫人が身を乗り出した。


「あれは、悪魔の」


「侯爵夫人」


 司教の声は、乾いたままであった。


「蝋で出る灰は、神のものでも、悪魔のものでもございません。人の手のものです。悪魔は、蝋燭屋に端切れを買いには参りませんので」


 身廊のどこかで、誰かが噴き出した。噴き出した声は、すぐに咳払いでごまかされる。


「それより、夜会で集めた献金でございますが。病む者のためと伺っております。どちらの施療院へ納められたのか、のちほどお聞かせ願えますかな」


 夫人の扇が、止まった。


  ――納めて、など。


 内側は、それきり黙った。


   ◇


 ヴィオレッタは、祭壇から指輪を取り上げた。


 左の薬指にはめ直す。重みが、指に戻った。


 はめ終えてから、男のほうを振り返る。


「わたくしは、今日、何もいたしておりませんわ。指輪を外して、手を洗っただけでございます」


 男の目が、こちらを見た。


   ◇


「今日は、出ませんでしたわね」


   ◇


「お互いに」


   ◇


 男が衛兵に連れて行かれたあと、司教はヴィオレッタを呼び止めた。


「夜会の灰のことは、訊かずにおきましょう」


「お訊きになっても、申し上げませんわ」


「そうでしょうな」


 司教の目が、少しだけ笑う。


「大聖堂にて、と書いておいでだった。作法を知っていて、そう書かれたのでしょう」


「作法どおりに、とお返事をくださったのは、司教様ですわ」


「さよう。わたしは作法を守っただけです」


   ◇


「神の家で出なかった灰は、神の灰ではない。あの男がそう言い、わたしがそれを確かめた。それで十分です」


 司教は、祭壇のほうへ向き直った。


「ただ、令嬢。神の家で灰を出してみせよと言われたら、あなたはどうなさるおつもりでした」


「出しませんわ」


「出せないのではなく」


「出しませんの」


 司教は、それ以上は訊かなかった。


   ◇


 ヴァランタン侯爵夫人は、いつのまにか身廊から消えていた。


 脇の扉から出たのであろう。誰も、後を追わなかった。夜会で集めた献金が誰の手に渡ったのかは、明日の茶会で、夫人たちが勝手に数えはじめる。数えた夫人たちの扇は、もうあの屋敷のほうへは向かない。


 大聖堂を出ると、石段の下でジルベールが待っていた。


   ◇


 帽子を握りしめて、何度も頭を下げる。


「お嬢様。せがれのことで、お医者を呼んでもらって、ありがとうございます」


「呼んだのはベルナールですわ」


「熱は、下がりかけていると。お医者が、そう言いました。……あの、お嬢様」


   ◇


 庭師は、言いにくそうに口ごもった。


「お嬢様は、嘘をつかないと聞いています。ですから、お嬢様が言ってくれたら、せがれは、よくなるんじゃないかと」


 マリアンヌが、主人の横顔を見た。


 ヴィオレッタは、扇を開かなかった。


   ◇


「存じませんわ」


   ◇


 ジルベールの顔が、くしゃりと歪む。


「医者は、よくなるとは言わなかったでしょう」


「……はい。熱が下がりかけている、とだけ」


「でしたら、それだけをお信じなさい。熱が下がりかけているのは、本当のことですもの」


 ヴィオレッタは、石段を下りた。


 下りる途中で、一度だけ足を止める。


「医者には、熱が引ききるまで通わせなさい。代金は、ベルナールに言えば出ますわ」


 ジルベールは、また頭を下げた。下げた頭が、なかなか上がらない。


   ◇


 石段の下で、馬車の扉に手をかけながら、左の手袋を外して指輪を見る。


 蝋も灰も、入っていない。ただの古い指輪である。


 この指輪をはめていた人に、ヴィオレッタは一度だけ、よくなりますわ、と言った。言った言葉の始末は、まだ終わっていない。


   ◇


 終わらせる気も、なかった。


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