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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第15章

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第67話 わたくしの手からも、出ましたわ

一晩目は、絨毯が灰だらけになった。


 蜜蝋を指で薄くのばし、灰をひとつまみ包む。包んだものを、小指の付け根に挟む。挟んだまま手を握り、握った拍子に潰す。言葉にすればそれだけのことが、ヴィオレッタの指ではどうにも上手くいかない。蝋が厚すぎれば潰れず、薄すぎれば握る前に割れる。割れれば、灰は袖へ落ちる。


   ◇


「お嬢様、袖が」


「見ればわかりますわ」


「洗い場に、何と申しましょう」


「暖炉の掃除を手伝ったとでも、お言いなさい」


「お嬢様が暖炉の掃除をなさったと申して、信じる者は屋敷に一人もおりません」


   ◇


 二晩目に、蝋の厚みが決まった。


 決まったところで、ヴィオレッタは一度しくじっている。湯浴みのあと、髪を拭く間も惜しんで試した一粒である。


 握る。


 開く。


 灰は、こぼれなかった。


   ◇


 掌に、灰色の泥がへばりついている。湯の名残りで湿った指が、潰れた灰をそのまま練ってしまったのである。泥の筋のなかに、黄ばんだ蝋の欠片がひとつ、くっきりと光っていた。


「……お嬢様。それでは、種が丸見えでございます」


「そうね」


 ヴィオレッタは、泥のついた掌をしばらく眺めていた。


 眺めて、手巾で拭うのを、少し遅らせる。


「マリアンヌ。乾いた手でないと、灰は出ませんのね」


「さようでございますね。……それが、何か」


「いいえ。覚えておくだけですわ」


   ◇


 三晩目には、マリアンヌが包むほうを引き受けていた。


 主人の指より、侍女の指のほうが器用である。それを口に出さず、黙って包み始めるあたりが、この侍女の器用さであった。


 夜明け前に、ヴィオレッタは掌を開いた。


 白い灰が、指のあいだから音もなくこぼれる。


「……出ましたわね」


 ヴィオレッタは、こぼれた灰を見下ろした。


「マリアンヌ。あなた、包むのがお上手ね」


「お嬢様が、お下手でいらっしゃるだけでございます」


 言わずにおいたことを、結局は言う。言ってから、マリアンヌは素知らぬ顔で絨毯の灰を掃き始めた。


   ◇


 その朝、ヴィオレッタは一通の返事を書いた。


 ひと月前から文箱に入れたままにしてあった、ヴァランタン侯爵夫人の夜会の招待状である。出るとも出ないとも返していなかったものに、出ますと書いた。


 夜会は、その三日後であった。


   ◇


 夫人は、セラファンの後ろ盾である。下町の説教師を屋敷の広間に招き、王都の夫人たちに灰を見せる。見せて、病人のための献金を集める。集めた金貨は、そのまま説教師の手に渡るのだと聞いていた。


 広場で男が見ていたのは、こういう屋敷であろう。


 広間の奥に、椅子が並べてあった。


 椅子の前に、あの男が立っている。下町と同じ灰色の衣、同じ裸足。磨いた床に裸足の跡が点々と残るのを、夫人たちは有難そうに眺めていた。


   ◇


「病む者のために、祈りましょう」


 男が語りはじめる。


 熱に浮かされる子ども、咳の止まらぬ娘、医者に見放された老人。声は下町よりいっそう柔らかく、広間の夫人たちは扇を止めて聞き入っていた。


   ◇


 ヴィオレッタの前の席で、若い令嬢が一人、扇の陰であくびを噛み殺している。


   ◇


  ――早く終わらないかしら。踊りたいのに。


   ◇


 献金の盆が回ってきたとき、いちばん音を立てて金貨を置いたのが、この令嬢であった。置いて、周りがそれを見たかどうかを確かめている。


 ヴィオレッタは、令嬢の名を覚えた。


   ◇


 リュシーという。翌月から、ヴィオレッタはリュシーのいる卓に一度も着かなかった。着かない理由は、誰にも言っていない。言わなくても、ヴィオレッタの着かない卓に人は寄りつかなくなる。ひと月もしないうちに、その令嬢の招待状は半分に減っていた。


 祈りの最中にあくびをするのは構わない。あくびを隠して、金貨の音だけ大きくするのが気にくわなかった。


   ◇


 男が、右手を掲げた。


 左の親指が、薬指の指輪を撫でる。握る。開く。


 白い灰が、こぼれ落ちた。


 広間が、ため息で満ちる。満ちたため息のなかで、ヴァランタン侯爵夫人が、ゆっくりとこちらを振り返った。


「ヴィオレッタ様も、お試しになりませんこと」


   ◇


 夫人の声は、甘い。


 甘い声の内側が、ひどく尖っていた。


  ――悪名高い公爵令嬢の手から、灰が出るはずがない。出なければ、神に見放された女だと、皆が見る。


 広間の目が、一斉にこちらへ集まった。


 セラファンは、穏やかに微笑んでいる。微笑んでいる男の内側も、夫人と同じことを考えていた。


 立ち上がる口実を、どう作ろうかと思っていたところである。その手間が、向こうから省けた。


   ◇


「試してもよろしゅうございますの」


「ええ、ぜひ」


「どうか、ご無理はなさいませぬよう。神は、誰の手にも灰をお授けになるわけではございませんから」


 セラファンが、柔らかく言い添えた。


   ◇


 ヴィオレッタは立ち上がり、広間の真ん中へ出た。


 右の手袋を外す。外して、素手の掌を広間に向けた。何も持っていない手である。裏も返して見せた。指輪は左の薬指に一つ。母の形見であった。


 外した手袋を、左手に持ち替える。持ち替える一瞬に、手袋の折り返しから小指の付け根へ、蝋の粒が移った。三晩、絨毯を汚して覚えた動きである。


   ◇


 右手を、胸の高さに上げる。


 握る。


 開く。


 白い灰が、指のあいだからこぼれ落ちた。


   ◇


 広間から、音が消える。


 扇を開く音も、衣擦れも、誰かの息も、すべて止まっている。床に落ちた灰だけが、燭台の光のなかで、かすかに舞っていた。


「出ましたわ」


 ヴィオレッタは、それだけ言った。


   ◇


「……奇跡、ですの」


 誰かが、震える声で訊いた。


 ヴィオレッタは、灰のついた掌を手巾で拭っている。拭う手巾のなかに、潰れた蝋の皮も一緒にくるみ込んだ。


「わたくし、奇跡だとは申しておりませんわ」


 拭い終えて、手袋をはめ直した。


「出ました、と申し上げただけでございます」


   ◇


 セラファンの顔から、微笑みが消えている。


 消えた顔の内側が、ばらばらに散っていた。


  ――同じ手だ。どこで見た。誰が教えた。


  ――種だと言えば、こっちの種も割れる。言えない。


 この男には、言えることが一つしか残っていない。


   ◇


「それは、神の灰ではありません」


 男の声は、もう柔らかくなかった。


「王都に名の知れた悪女の掌に、神が灰を降らせるはずがない。それは、悪魔の灰です」


 広間が、ざわめく。


 ざわめきが、さっきとは逆の方向へ流れていった。悪女の手から出た灰。悪魔の灰。王太子殿下の婚約者が、悪魔の業を。


「悪魔の業ならば、神の家では出ますまい」


   ◇


 男は、広間の夫人たちを見渡した。


「わたしの灰は、神の家でも降ります。神の家でこそ、降ります。どちらの灰が神のものか、司教様の前で、確かめていただきたい」


  ――村の礼拝堂でも、やった。三つの村で、三度。どこでも同じだ。


 内側が、少しだけ落ち着きを取り戻していた。


   ◇


 この男は、教会の中で灰を出したことがある。出せた覚えがあるから、神の家と言えたのである。言えた自分を、もう一度信じ直していた。


  ――あの女が出さなければ、悪魔の灰。出したら、悪魔が神の家まで入り込んだと言えばいい。


  ――どっちに転んでも、俺の灰は神の灰だ。


 勘定は、よくできている。


 ただ一つ、自分の手から出なかったらという行だけが、この男の勘定には一度も立っていなかった。


   ◇


「よろしいでしょう」


 ヴァランタン侯爵夫人が、扇を閉じる。


「わたくしから、ユベール司教様にお願い申し上げますわ。異端の疑いがあるのなら、確かめていただかなくては。ヴィオレッタ様も、それでよろしいわね」


「結構でございますわ」


 帰りの馬車で、マリアンヌの顔は紙のように白かった。


「お嬢様。異端の審問でございますよ」


「存じておりますわ」


「殿下の婚約者が、異端の疑いで審問を受けるなど。もし、悪魔の業と決まれば」


「決めるのは、わたくしではございませんわ」


   ◇


「……お嬢様」


「神の家で、と言い出したのは、あの男ですもの」


 決まりませんわ、とは言わなかった。先のことを請け合う言葉を、ヴィオレッタは六つの年から口にしていない。


 マリアンヌは、膝の上で両手を握りしめている。握りしめた手の甲が、白い。


「……せめて、殿下にお知らせを」


「いりませんわ。殿下がお出ましになれば、審問ではなく、ただのもみ消しになりますもの」


   ◇


 屋敷に戻ると、ヴィオレッタはユベール司教に宛てて書状をしたためた。


 短い書状である。灰の種には一言も触れていない。


   ◇


 ――神の家にて、と、あの説教師は申しました。ですから、審問は大聖堂にてお願い申し上げます。


 二日後に、返書が来た。


 返書は、もっと短い。


 ――大聖堂にて。作法どおりに。


   ◇


「作法、と申しますと」


 覗き込んだマリアンヌが、首をかしげた。


「大聖堂の作法ですわ」


 ヴィオレッタは、返書を畳んで、文箱の底にしまった。


「あの男は、村の礼拝堂しか知らないのでしょうけれど」


 マリアンヌは、それ以上は訊かなかった。


 訊かずに、主人の右手を見ている。三晩目の夜明け前、灰がこぼれた手である。その前の晩、泥のついた掌をなかなか拭わなかった手でもあった。


 作法どおりに、と書いてある。それで足りた。


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