第67話 わたくしの手からも、出ましたわ
一晩目は、絨毯が灰だらけになった。
蜜蝋を指で薄くのばし、灰をひとつまみ包む。包んだものを、小指の付け根に挟む。挟んだまま手を握り、握った拍子に潰す。言葉にすればそれだけのことが、ヴィオレッタの指ではどうにも上手くいかない。蝋が厚すぎれば潰れず、薄すぎれば握る前に割れる。割れれば、灰は袖へ落ちる。
◇
「お嬢様、袖が」
「見ればわかりますわ」
「洗い場に、何と申しましょう」
「暖炉の掃除を手伝ったとでも、お言いなさい」
「お嬢様が暖炉の掃除をなさったと申して、信じる者は屋敷に一人もおりません」
◇
二晩目に、蝋の厚みが決まった。
決まったところで、ヴィオレッタは一度しくじっている。湯浴みのあと、髪を拭く間も惜しんで試した一粒である。
握る。
開く。
灰は、こぼれなかった。
◇
掌に、灰色の泥がへばりついている。湯の名残りで湿った指が、潰れた灰をそのまま練ってしまったのである。泥の筋のなかに、黄ばんだ蝋の欠片がひとつ、くっきりと光っていた。
「……お嬢様。それでは、種が丸見えでございます」
「そうね」
ヴィオレッタは、泥のついた掌をしばらく眺めていた。
眺めて、手巾で拭うのを、少し遅らせる。
「マリアンヌ。乾いた手でないと、灰は出ませんのね」
「さようでございますね。……それが、何か」
「いいえ。覚えておくだけですわ」
◇
三晩目には、マリアンヌが包むほうを引き受けていた。
主人の指より、侍女の指のほうが器用である。それを口に出さず、黙って包み始めるあたりが、この侍女の器用さであった。
夜明け前に、ヴィオレッタは掌を開いた。
白い灰が、指のあいだから音もなくこぼれる。
「……出ましたわね」
ヴィオレッタは、こぼれた灰を見下ろした。
「マリアンヌ。あなた、包むのがお上手ね」
「お嬢様が、お下手でいらっしゃるだけでございます」
言わずにおいたことを、結局は言う。言ってから、マリアンヌは素知らぬ顔で絨毯の灰を掃き始めた。
◇
その朝、ヴィオレッタは一通の返事を書いた。
ひと月前から文箱に入れたままにしてあった、ヴァランタン侯爵夫人の夜会の招待状である。出るとも出ないとも返していなかったものに、出ますと書いた。
夜会は、その三日後であった。
◇
夫人は、セラファンの後ろ盾である。下町の説教師を屋敷の広間に招き、王都の夫人たちに灰を見せる。見せて、病人のための献金を集める。集めた金貨は、そのまま説教師の手に渡るのだと聞いていた。
広場で男が見ていたのは、こういう屋敷であろう。
広間の奥に、椅子が並べてあった。
椅子の前に、あの男が立っている。下町と同じ灰色の衣、同じ裸足。磨いた床に裸足の跡が点々と残るのを、夫人たちは有難そうに眺めていた。
◇
「病む者のために、祈りましょう」
男が語りはじめる。
熱に浮かされる子ども、咳の止まらぬ娘、医者に見放された老人。声は下町よりいっそう柔らかく、広間の夫人たちは扇を止めて聞き入っていた。
◇
ヴィオレッタの前の席で、若い令嬢が一人、扇の陰であくびを噛み殺している。
◇
――早く終わらないかしら。踊りたいのに。
◇
献金の盆が回ってきたとき、いちばん音を立てて金貨を置いたのが、この令嬢であった。置いて、周りがそれを見たかどうかを確かめている。
ヴィオレッタは、令嬢の名を覚えた。
◇
リュシーという。翌月から、ヴィオレッタはリュシーのいる卓に一度も着かなかった。着かない理由は、誰にも言っていない。言わなくても、ヴィオレッタの着かない卓に人は寄りつかなくなる。ひと月もしないうちに、その令嬢の招待状は半分に減っていた。
祈りの最中にあくびをするのは構わない。あくびを隠して、金貨の音だけ大きくするのが気にくわなかった。
◇
男が、右手を掲げた。
左の親指が、薬指の指輪を撫でる。握る。開く。
白い灰が、こぼれ落ちた。
広間が、ため息で満ちる。満ちたため息のなかで、ヴァランタン侯爵夫人が、ゆっくりとこちらを振り返った。
「ヴィオレッタ様も、お試しになりませんこと」
◇
夫人の声は、甘い。
甘い声の内側が、ひどく尖っていた。
――悪名高い公爵令嬢の手から、灰が出るはずがない。出なければ、神に見放された女だと、皆が見る。
広間の目が、一斉にこちらへ集まった。
セラファンは、穏やかに微笑んでいる。微笑んでいる男の内側も、夫人と同じことを考えていた。
立ち上がる口実を、どう作ろうかと思っていたところである。その手間が、向こうから省けた。
◇
「試してもよろしゅうございますの」
「ええ、ぜひ」
「どうか、ご無理はなさいませぬよう。神は、誰の手にも灰をお授けになるわけではございませんから」
セラファンが、柔らかく言い添えた。
◇
ヴィオレッタは立ち上がり、広間の真ん中へ出た。
右の手袋を外す。外して、素手の掌を広間に向けた。何も持っていない手である。裏も返して見せた。指輪は左の薬指に一つ。母の形見であった。
外した手袋を、左手に持ち替える。持ち替える一瞬に、手袋の折り返しから小指の付け根へ、蝋の粒が移った。三晩、絨毯を汚して覚えた動きである。
◇
右手を、胸の高さに上げる。
握る。
開く。
白い灰が、指のあいだからこぼれ落ちた。
◇
広間から、音が消える。
扇を開く音も、衣擦れも、誰かの息も、すべて止まっている。床に落ちた灰だけが、燭台の光のなかで、かすかに舞っていた。
「出ましたわ」
ヴィオレッタは、それだけ言った。
◇
「……奇跡、ですの」
誰かが、震える声で訊いた。
ヴィオレッタは、灰のついた掌を手巾で拭っている。拭う手巾のなかに、潰れた蝋の皮も一緒にくるみ込んだ。
「わたくし、奇跡だとは申しておりませんわ」
拭い終えて、手袋をはめ直した。
「出ました、と申し上げただけでございます」
◇
セラファンの顔から、微笑みが消えている。
消えた顔の内側が、ばらばらに散っていた。
――同じ手だ。どこで見た。誰が教えた。
――種だと言えば、こっちの種も割れる。言えない。
この男には、言えることが一つしか残っていない。
◇
「それは、神の灰ではありません」
男の声は、もう柔らかくなかった。
「王都に名の知れた悪女の掌に、神が灰を降らせるはずがない。それは、悪魔の灰です」
広間が、ざわめく。
ざわめきが、さっきとは逆の方向へ流れていった。悪女の手から出た灰。悪魔の灰。王太子殿下の婚約者が、悪魔の業を。
「悪魔の業ならば、神の家では出ますまい」
◇
男は、広間の夫人たちを見渡した。
「わたしの灰は、神の家でも降ります。神の家でこそ、降ります。どちらの灰が神のものか、司教様の前で、確かめていただきたい」
――村の礼拝堂でも、やった。三つの村で、三度。どこでも同じだ。
内側が、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
◇
この男は、教会の中で灰を出したことがある。出せた覚えがあるから、神の家と言えたのである。言えた自分を、もう一度信じ直していた。
――あの女が出さなければ、悪魔の灰。出したら、悪魔が神の家まで入り込んだと言えばいい。
――どっちに転んでも、俺の灰は神の灰だ。
勘定は、よくできている。
ただ一つ、自分の手から出なかったらという行だけが、この男の勘定には一度も立っていなかった。
◇
「よろしいでしょう」
ヴァランタン侯爵夫人が、扇を閉じる。
「わたくしから、ユベール司教様にお願い申し上げますわ。異端の疑いがあるのなら、確かめていただかなくては。ヴィオレッタ様も、それでよろしいわね」
「結構でございますわ」
帰りの馬車で、マリアンヌの顔は紙のように白かった。
「お嬢様。異端の審問でございますよ」
「存じておりますわ」
「殿下の婚約者が、異端の疑いで審問を受けるなど。もし、悪魔の業と決まれば」
「決めるのは、わたくしではございませんわ」
◇
「……お嬢様」
「神の家で、と言い出したのは、あの男ですもの」
決まりませんわ、とは言わなかった。先のことを請け合う言葉を、ヴィオレッタは六つの年から口にしていない。
マリアンヌは、膝の上で両手を握りしめている。握りしめた手の甲が、白い。
「……せめて、殿下にお知らせを」
「いりませんわ。殿下がお出ましになれば、審問ではなく、ただのもみ消しになりますもの」
◇
屋敷に戻ると、ヴィオレッタはユベール司教に宛てて書状をしたためた。
短い書状である。灰の種には一言も触れていない。
◇
――神の家にて、と、あの説教師は申しました。ですから、審問は大聖堂にてお願い申し上げます。
二日後に、返書が来た。
返書は、もっと短い。
――大聖堂にて。作法どおりに。
◇
「作法、と申しますと」
覗き込んだマリアンヌが、首をかしげた。
「大聖堂の作法ですわ」
ヴィオレッタは、返書を畳んで、文箱の底にしまった。
「あの男は、村の礼拝堂しか知らないのでしょうけれど」
マリアンヌは、それ以上は訊かなかった。
訊かずに、主人の右手を見ている。三晩目の夜明け前、灰がこぼれた手である。その前の晩、泥のついた掌をなかなか拭わなかった手でもあった。
作法どおりに、と書いてある。それで足りた。
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