第66話 よくなります
ベルナールが朝のうちに来るときは、金の話である。
「庭師のジルベールが、給金の前借りを願い出ております」
「おいくら」
「金貨を一枚」
ヴィオレッタは、茶碗を置いた。
庭師の給金なら、ふた月ぶんにあたる。
「何に使いますの」
「灰を、買うのだそうでございます」
◇
灰、と繰り返すと、ベルナールはわずかに眉を寄せた。この執事が眉を寄せるのは、金が筋の悪いほうへ流れるときだけである。
「下町の広場に、近ごろ説教師が立っております。セラファンと名乗る男で、掌から白い灰を出すとか。その灰を湯に溶いて飲ませれば、病が退くと」
「ジルベールの家に、病人が」
「息子が、十日ほど熱を出しております」
◇
「医者は」
「呼んでおりませぬ。医者は銀貨で、灰は金貨。高いほうが効くと思うておるようで」
ヴィオレッタは、窓のほうを見た。
◇
庭では、当のジルベールが生け垣を刈っている。鋏を入れる手が、いつもより遅い。刈った枝を拾うのも忘れて、ときどき門のほうを振り返る。下町の家は、門の向こうのずっと先にあった。
「前借りは、お出しなさい」
「……お出しに、なりますので」
「灰の代金としては出しませんわ。医者の代金として出しなさい。医者は、こちらから呼んでおやりなさい」
「ジルベールには、何と」
「何も言わなくてよろしいわ。医者が先に着けば、灰を買いに行く暇もございませんもの」
ベルナールは一礼して下がっていく。
下がる足が、いつもより速い。金の筋が戻ったときの足である。
◇
昼過ぎに、ヴィオレッタは下町へ出た。
「お嬢様。説教師など、ご覧になってどうなさいます」
馬車の中で、マリアンヌが訊いた。
「見るだけですわ」
「見るだけ、でございますか」
「金貨一枚の灰が、どんな顔をしているのか」
◇
広場は、人で埋まっていた。
噴水の縁に、男が一人立っている。四十がらみの、痩せた男。灰色の粗い衣をまとい、足は裸足であった。髪にも髭にも櫛を入れていないのに、不思議と汚くは見えない。汚く見えない汚し方を、心得ている男である。
その前に、列ができている。
◇
赤子を抱いた女、杖をついた老人、咳の止まらない娘。誰もが、手に金貨か銀貨を握っていた。
先頭の女は、前掛けを外し忘れている。前掛けに、黄色い蝋の垂れた跡が点々と残っていた。蝋燭屋の女房であろう。
「うちの人が、もうひと月も寝ついたきりで」
女房は、隣の老人にそう話している。
「お医者は、薬代ばかり取って。でも、灰なら一度で効くって」
◇
「神は、苦しむ者をお見捨てにならない」
男の声は、よく通る。
大きな声ではない。それでいて、広場の端まで柔らかく届く声である。
「この手に灰が降りるのは、わたしが清いからではない。あなたがたの苦しみが、神に届いたからだ」
◇
男が、右手を高く掲げた。
掲げる前に、左の親指が、右手の薬指の指輪を一度だけ撫でる。
◇
掌が、ゆっくりと握られた。握られて、開く。
白い灰が、指のあいだからこぼれ落ちた。
◇
広場が、どよめく。
どよめきのなかで、男は灰を小さな紙に包み、先頭の女に渡した。女は握っていた金貨を差し出す。差し出す手が、震えていた。
「よくなります」
男は、女の手を両手で包んだ。
「必ず、よくなります」
◇
ヴィオレッタの扇が、止まった。
マリアンヌが、主人の横顔を見る。見て、何も言わない。
よくなります。
六つの年に、同じことを言った者がいる。死の床の母に、嘘をつかない娘の口で、よくなりますわ、と。母はそれを信じて、死ぬ支度を全部やめた。やめたまま、死んでいった。
あの言葉に、値などついていない。
◇
この男は、その言葉に金貨一枚の値をつけている。
ヴィオレッタは、男の内側を見た。
◇
――次は、あの赤子の母親か。銀貨しか持ってないな。
――指輪の蝋、割れてないか。……大丈夫だ。あと二つ。
◇
清い者の色ではない。数える者の色である。客を数え、銀貨と金貨を数え、指輪のなかに残ったものを数えている。
蝋燭屋の女房に向けた「よくなります」にも、重さは何ひとつ乗っていなかった。言い慣れた言葉は、言うほうの舌を少しも重くしないらしい。
◇
ただし、この目は手口を視ない。
指輪のどこかに、蝋がある。分かったのは、それだけであった。どう仕込み、どう潰し、どう灰に変えるのか。そこから先は、この男の頭の中で言葉になっていない。慣れた手順は、内側で喋らない。
男は三人に灰を渡したところで、四人目の前で手を止める。
「今日の灰は、ここまでだ。神は、一日に限りある恵みしかくださらない」
◇
列の後ろから、ため息が漏れた。
漏れたため息のあいだを、男はゆっくりと去っていく。去りかけて、一度だけこちらへ目をやった。
ヴィオレッタの衣の裾と、馬車の紋とを、順に見ている。
◇
――貴族の娘か。……いずれ、ああいう屋敷に呼ばれる。
◇
去り際に、噴水の縁にこぼれた灰を、裸足の踵で払った。払い方が、少しだけ急いでいる。
◇
人が散ってから、ヴィオレッタは噴水の縁まで歩いた。
「お嬢様、お召し物が」
「汚れませんわ」
◇
身をかがめて、石の継ぎ目を見る。
踵が払いきれなかった灰が、わずかに残っていた。指先でつまんでみる。
灰のなかに、小さな粒が混じっていた。米粒の半分ほどの、薄く黄ばんだ欠片である。指で押すと、ぐにゃりと曲がった。爪の先に、獣脂ではない、蜜の匂いが移る。
蝋燭屋の女房の前掛けにあったのと、同じ色であった。
「マリアンヌ」
「はい」
「蜜蝋の蝋燭、屋敷にございましたわね」
◇
「礼拝堂のものでしたら。……ですが、あれは」
「一本で構いませんわ。それと」
ヴィオレッタは、指先の灰を手巾で拭った。
「暖炉の灰を、少し取っておいてちょうだい。いちばん細かいところを」
◇
マリアンヌの顔が、ゆっくりと曇っていく。
「……お嬢様。まさか」
「まさか、何ですの」
「なさるおつもりですか。あれを」
◇
ヴィオレッタは答えずに、馬車へ戻った。
答えないのが、答えである。この侍女は、それをもう知っていた。知っていて、訊かずにはいられない性分でもある。
帰りの馬車で、マリアンヌがもう一度だけ口を開いた。
「ジルベールの息子は、灰を飲まずに済みますのね」
「ベルナールが、医者を呼びますもの」
「では、なぜ、あの男を」
◇
ヴィオレッタは、窓の外を見ていた。
下町の屋根が、夕日に赤い。あの屋根の下のどこかで、さっきの女が灰を湯に溶いている。溶いて、寝ついた亭主に飲ませる。飲ませて、よくなると信じて、医者を呼ばずに待つ。
「気にくわないからですわ」
◇
「あの言葉に値をつけてよいのは、言ったあとの始末を、全部ひとりで引き受ける者だけですの」
「……あの男は、引き受けませんか」
「引き受ける顔に見えまして」
マリアンヌは、それ以上訊かなかった。
膝の上で、空の手巾を畳み直している。畳み直す指が、少しだけ硬い。主人が何をするつもりなのか、半分は分かっている指である。
残りの半分は、今夜、分かる。
お読みいただき、ありがとうございました!
皆様にお願いです
ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に
応援していただけますと励みになります! よろしくお願いいたします(^^♪




