第65話 ほら、ごらんなさい
「かあちゃん」
◇
リゼットが、ヴィオレッタの裾を離した。
離して、走った。
小広間の真ん中を、王妃の前を、女官たちの裾のあいだを、まっすぐに走っていく。誰も止めなかった。止める者がいるはずもない。五つの子どもが、母のほうへ走っていた。
「かあちゃん、かあちゃん」
マルトが、膝をつく。
膝をついて、両腕を広げる。子どもは、その腕の中へ飛び込んだ。飛び込んで、首にしがみついて、それから、はじめて泣いた。
市場で、一度も泣かなかった子である。
公爵家に来てからも、泣いていない。泣かない子だと、ヴィオレッタは思っていた。泣く相手がいなかっただけであった。
◇
小広間の誰も、口をきかない。
口をきかなくても、皆、同じことを聞いていた。
◇
市場で、この子は「おかあさま」と言った。
◇
いま、この子は「かあちゃん」と言っている。
◇
言わされた言葉と、自分の口から出た言葉は、同じ母を呼んでいない。誰が聞いても、それは分かる。
◇
「……あの女です」
◇
マルトが、子どもを抱いたまま顔を上げた。
涙で濡れた目が、まっすぐに一点を見ている。伯爵夫人の後ろの、灰色の服の侍女である。
「あの女が、娘を借りに来ました。青いリボンの帽子で。七日だけ、慈善の芝居に、と」
灰色の侍女の顔が、白くなった。
「わ、わたくしは」
「銀貨を、三枚くださいました。七日で返すと。返ってこないから、わたし、毎日、水門の前で」
マルトは、そこで言葉を詰まらせる。
詰まらせて、子どもの髪に顔を埋めた。
◇
壁際の男が、帽子を落とす。
落として、拾わずに、扉のほうへ一歩下がった。下がったところで、王妃付きの廷臣が男の前に立つ。男は、それ以上下がれなかった。
「ドルヴィエ夫人」
王妃の声は、低い。
「この男は、この子の叔父だと申しましたね。母は去年の冬に死んだ、と」
「……はい。そのように、わたくしも聞いておりまして」
「この子は、この男を見て、ヴィオレッタの裾を握りました」
◇
「母のほうへは、走りました」
◇
伯爵夫人は、答えられなかった。
扇を握る手が、震えている。震えたまま、後ろの侍女を振り返った。振り返った顔は、この女の始末をどうつけるか、それだけを考えている顔である。
「陛下。わたくしは、存じませんでした。この者が、勝手に」
「勝手に、子を借りて、男を雇い、あなたのもとへ連れてきたと」
「……さようで」
◇
「では、あなたは、勝手に借りてこられた子と男を、この母の前に、証として連れておいでになったのですね」
伯爵夫人の口が、閉じる。
閉じた口は、それきり開かなかった。
ヴィオレッタは、伯爵夫人の前に立った。
立って、扇を開く。開いて、夫人にだけ聞こえる声で言った。
「市場で、わたくしがあの子を突き飛ばすと、お決めになりましたのね」
夫人の内側が、跳ねた。
「わたくしの悪名を、お使いになりましたのでしょう。悪女なら、すがりつく子どもを振り払う。振り払うところを、皆に見せればいい、と」
◇
「悪名は、お貸しした覚えがございませんの」
◇
「それに、使い方をお間違えですわ」
夫人は、何も言わなかった。
言えることがない。悪名の令嬢がどう振る舞うかを、この女は誰よりよく知っているつもりでいた。知っているつもりで、筋書きを書いた。書いた筋書きのどこにも、子どもを連れて帰る悪女はいなかった。
後援の任は、その日のうちに済んだ。
王妃は、ヴィオレッタに一言だけ言う。
「あなた、市場で、あの子を置いて帰ることもできましたね」
「できましたわ」
「なぜ、そうしなかったのです」
「置いて帰れば、あの子は、あの女の手に戻りましたもの」
◇
「それだけですか」
「それだけでございます」
王妃が、少しだけ笑う。
「孤児院の子らにも、そのようにしてやってちょうだい」
「かしこまりましたわ。ただし、優しくはいたしませんわよ」
「優しい方は、もう十年も通っておられましたからね」
小広間を出ると、廊下でマルトとリゼットが待っていた。
マルトは、また膝をつこうとする。
「おやめなさいと、申しましたでしょう」
「……ですが、お嬢様。なんとお礼を」
「お礼は要りませんわ」
「その代わり、明日から公爵家の洗い場においでなさい」
◇
マルトが、目を見開く。
「洗い場の者が、敷布の角を揃えるのが下手ですの。この子に聞きましたら、あなたが教えたと」
「……娘が、そんなことを」
「ええ。上手に畳みますのよ。王太子殿下の婚約者の敷布が、下手な畳み方では困りますもの」
給金の話は、ベルナールにさせた。
川の洗い場の倍ほどである。冬を越す薪代を、子どもを貸さずに払える額であった。マルトは、額を聞いて、また泣いた。泣き虫の母娘である。
ベルナールは、帳を閉じながら、一度だけ天井を見た。洗い場の人数は足りている。足りているのを、この執事はいちばんよく知っていた。知っていて、何も言わなかった。
◇
リゼットが、ヴィオレッタの前に立った。
母の手を握ったまま、こちらを見上げている。紺の上着の袖が、少しだけ長い。
「おかあさまじゃ、なかった」
ヴィオレッタは、身をかがめた。
市場で、そうしたように。腰を折って、子どもの顔の高さまで目を下ろす。
◇
「ほら、ごらんなさい」
◇
「わたくしは、あなたのお母様ではございませんでしたでしょう」
リゼットは、少し考えてから、うなずいた。
うなずいて、上着のポケットから何かを取り出す。四つに畳んだ、小さな手巾であった。角が、指で押さえたように、きちんと揃っている。
「あげる」
ヴィオレッタは、それを受け取った。
受け取って、立ち上がる。礼は言わなかった。言えば、この子はまた、はいと言わねばならないと思う。
「明日から、わたくしの敷布もお願いしますわ」
「……うん」
◇
今度も、口は押さえなかった。
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