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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第14章

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第65話 ほら、ごらんなさい

「かあちゃん」


   ◇


 リゼットが、ヴィオレッタの裾を離した。


 離して、走った。


 小広間の真ん中を、王妃の前を、女官たちの裾のあいだを、まっすぐに走っていく。誰も止めなかった。止める者がいるはずもない。五つの子どもが、母のほうへ走っていた。


「かあちゃん、かあちゃん」


 マルトが、膝をつく。


 膝をついて、両腕を広げる。子どもは、その腕の中へ飛び込んだ。飛び込んで、首にしがみついて、それから、はじめて泣いた。


 市場で、一度も泣かなかった子である。


 公爵家に来てからも、泣いていない。泣かない子だと、ヴィオレッタは思っていた。泣く相手がいなかっただけであった。


   ◇


 小広間の誰も、口をきかない。


 口をきかなくても、皆、同じことを聞いていた。


   ◇


 市場で、この子は「おかあさま」と言った。


   ◇


 いま、この子は「かあちゃん」と言っている。


   ◇


 言わされた言葉と、自分の口から出た言葉は、同じ母を呼んでいない。誰が聞いても、それは分かる。


   ◇


「……あの女です」


   ◇


 マルトが、子どもを抱いたまま顔を上げた。


 涙で濡れた目が、まっすぐに一点を見ている。伯爵夫人の後ろの、灰色の服の侍女である。


「あの女が、娘を借りに来ました。青いリボンの帽子で。七日だけ、慈善の芝居に、と」


 灰色の侍女の顔が、白くなった。


「わ、わたくしは」


「銀貨を、三枚くださいました。七日で返すと。返ってこないから、わたし、毎日、水門の前で」


 マルトは、そこで言葉を詰まらせる。


 詰まらせて、子どもの髪に顔を埋めた。


   ◇


 壁際の男が、帽子を落とす。


 落として、拾わずに、扉のほうへ一歩下がった。下がったところで、王妃付きの廷臣が男の前に立つ。男は、それ以上下がれなかった。


「ドルヴィエ夫人」


 王妃の声は、低い。


「この男は、この子の叔父だと申しましたね。母は去年の冬に死んだ、と」


「……はい。そのように、わたくしも聞いておりまして」


「この子は、この男を見て、ヴィオレッタの裾を握りました」


   ◇


「母のほうへは、走りました」


   ◇


 伯爵夫人は、答えられなかった。


 扇を握る手が、震えている。震えたまま、後ろの侍女を振り返った。振り返った顔は、この女の始末をどうつけるか、それだけを考えている顔である。


「陛下。わたくしは、存じませんでした。この者が、勝手に」


「勝手に、子を借りて、男を雇い、あなたのもとへ連れてきたと」


「……さようで」


   ◇


「では、あなたは、勝手に借りてこられた子と男を、この母の前に、証として連れておいでになったのですね」


 伯爵夫人の口が、閉じる。


 閉じた口は、それきり開かなかった。


 ヴィオレッタは、伯爵夫人の前に立った。


 立って、扇を開く。開いて、夫人にだけ聞こえる声で言った。


「市場で、わたくしがあの子を突き飛ばすと、お決めになりましたのね」


 夫人の内側が、跳ねた。


「わたくしの悪名を、お使いになりましたのでしょう。悪女なら、すがりつく子どもを振り払う。振り払うところを、皆に見せればいい、と」


   ◇


「悪名は、お貸しした覚えがございませんの」


   ◇


「それに、使い方をお間違えですわ」


 夫人は、何も言わなかった。


 言えることがない。悪名の令嬢がどう振る舞うかを、この女は誰よりよく知っているつもりでいた。知っているつもりで、筋書きを書いた。書いた筋書きのどこにも、子どもを連れて帰る悪女はいなかった。


 後援の任は、その日のうちに済んだ。


 王妃は、ヴィオレッタに一言だけ言う。


「あなた、市場で、あの子を置いて帰ることもできましたね」


「できましたわ」


「なぜ、そうしなかったのです」


「置いて帰れば、あの子は、あの女の手に戻りましたもの」


   ◇


「それだけですか」


「それだけでございます」


 王妃が、少しだけ笑う。


「孤児院の子らにも、そのようにしてやってちょうだい」


「かしこまりましたわ。ただし、優しくはいたしませんわよ」


「優しい方は、もう十年も通っておられましたからね」


 小広間を出ると、廊下でマルトとリゼットが待っていた。


 マルトは、また膝をつこうとする。


「おやめなさいと、申しましたでしょう」


「……ですが、お嬢様。なんとお礼を」


「お礼は要りませんわ」


「その代わり、明日から公爵家の洗い場においでなさい」


   ◇


 マルトが、目を見開く。


「洗い場の者が、敷布の角を揃えるのが下手ですの。この子に聞きましたら、あなたが教えたと」


「……娘が、そんなことを」


「ええ。上手に畳みますのよ。王太子殿下の婚約者の敷布が、下手な畳み方では困りますもの」


 給金の話は、ベルナールにさせた。


 川の洗い場の倍ほどである。冬を越す薪代を、子どもを貸さずに払える額であった。マルトは、額を聞いて、また泣いた。泣き虫の母娘である。


 ベルナールは、帳を閉じながら、一度だけ天井を見た。洗い場の人数は足りている。足りているのを、この執事はいちばんよく知っていた。知っていて、何も言わなかった。


   ◇


 リゼットが、ヴィオレッタの前に立った。


 母の手を握ったまま、こちらを見上げている。紺の上着の袖が、少しだけ長い。


「おかあさまじゃ、なかった」


 ヴィオレッタは、身をかがめた。


 市場で、そうしたように。腰を折って、子どもの顔の高さまで目を下ろす。


   ◇


「ほら、ごらんなさい」


   ◇


「わたくしは、あなたのお母様ではございませんでしたでしょう」


 リゼットは、少し考えてから、うなずいた。


 うなずいて、上着のポケットから何かを取り出す。四つに畳んだ、小さな手巾であった。角が、指で押さえたように、きちんと揃っている。


「あげる」


 ヴィオレッタは、それを受け取った。


 受け取って、立ち上がる。礼は言わなかった。言えば、この子はまた、はいと言わねばならないと思う。


「明日から、わたくしの敷布もお願いしますわ」


「……うん」


   ◇


 今度も、口は押さえなかった。



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