第63話 お母様にしか、お返しいたしませんわ
マリアンヌが出かけているあいだに、もう一日が過ぎた。
王妃の御前で孤児院の後援が決まるのは、十日目である。残りは、四日になっていた。
六日目の朝に、男が来た。
門番が通したのは、男がリゼットの名を出したからである。応接の間に入ってきたのは、五十がらみの、くたびれた上着の男であった。帽子を両手で持ち、腰を低くしている。
◇
「あの子の叔父でございます」
内側を見るまでもなかった。
男の色は、薄く、平らで、どこにも引っかかりがない。自分の言葉を、自分の言葉だと思っていない者の色である。頼まれて、覚えて、運んできた。運んできたものの中身に、この男は何の思い入れも持っていなかった。
◇
男は、すらすらと喋った。
覚えてきた言葉の喋り方である。どこで切るか、どこで声を落とすかまで、きちんと決まっていた。
「母親は、去年の冬に亡くなりまして。手前が引き取って育てておりましたところ、市場ではぐれまして。それを、お嬢様がお連れになったと伺いました」
「お連れいたしましたわ」
「でしたら、お返しを願えますか。……王都では、その、お嬢様が攫ったなどと申す者もおりまして。お返しくだされば、手前から、そうではないと申して回ります」
◇
――返してくれれば、それで済む。子どもさえ連れて帰れば、あとは奥方様が。
◇
ヴィオレッタは、茶を一口飲んだ。
なるほど、と思う。
噂はもう、王都を一周した。一周すれば、子どもは要らない。要らない子どもを手元に置かれていると、困るのはあちらであった。いつ、どこで、何を口にするか分からない。今のうちに引き取って、王都から消してしまいたい。
◇
しかも、返さなければ、攫ったことになる。
叔父だと名乗る者が引き取りに来て、公爵家がそれを追い返した。その話が明日の王都を回れば、市場の噂は噂でなくなる。返せば子どもは消え、返さなければ悪女が残る。どちらを選んでも、あちらの損にはならない。
◇
よくできた手であった。
「一つ、伺ってもよろしゅうございますか」
「なんなりと」
「あの子は、市場で、わたくしに何と申しましたかしら」
男の口が、止まった。
「……おかあさま、と」
「ええ。おかあさま、と申しましたの」
◇
「ですから、わたくしは、あの子をお母様にお返しいたしますわ」
「母親は、死んだと」
「伺いましたわ」
「でしたら」
「では、お墓を教えてくださいまし。お参りいたしますわ」
男は、答えられない。
墓はない。ないものの在り処は、教えようがなかった。教えたところで、行けば分かる。分かれば、この男は帰る家を失う。
◇
内側が、ぐらぐらと揺れていた。
◇
――墓。そんなことまで、聞いてない。
◇
「あなたは、あの子の叔父でございますのね」
「……さようで」
「では、あの子は、あなたを見て、叔父さまと呼びますわね」
ヴィオレッタは、マリアンヌの代わりに控えていた若い侍女に目で合図をした。
侍女が、廊下へ出る。ほどなくして戻ってきたとき、侍女の後ろの扉の陰に、藁の色の髪が少しだけ見えていた。
◇
リゼットは、扉の陰から男を見ていた。
見て、それから、扉の向こうへ消えた。走って遠ざかる足音が、廊下に残る。
男を叔父と呼ぶ声は、どこからも聞こえなかった。
「人見知りのお子でございますのね」
ヴィオレッタは、茶碗を置く。
「叔父さまにも、人見知りをなさるなんて」
◇
男の額に、汗が浮いていた。
「わたくしは、あの子の母ではございません」
「ですから、あの子は、あの子のお母様にお返しいたします。お母様にしか、お返しいたしませんわ。お母様がおいでになるまで、わたくしがお預かりいたします」
◇
「それまで、どなたにもお渡しいたしませんの」
◇
男は、帽子を握りしめたまま帰っていった。
門を出ていく背中を、二階の窓からリゼットが見ている。見ていて、窓枠を握る手に力が入っていた。
◇
――あのひと、しらない。
◇
子どもの内側は、それだけを繰り返していた。
男が帰ったあと、ヴィオレッタはしばらく応接の間を出なかった。
窓の外で、門の前の野次馬が、帰っていく男を目で追っている。男が何をしに来たかは、夕方までに王都じゅうに伝わるであろう。叔父が引き取りに来て、追い返された。それで十分であった。中身を確かめる者はいない。
◇
マリアンヌが戻ってきたのは、その日の夕方である。
裾が泥で汚れていた。川沿いの洗い場を、北の橋から南の水門まで、本当に全部回ってきたのであろう。息が上がっている。
「おりました」
「どちらに」
「南の水門の手前でございます。マルトという洗濯女で、十日ほど前から娘の姿が見えぬと」
「探しておいででしたの」
「探しておりました。ただ、番所には届けておらぬと」
「なぜ」
◇
マリアンヌは、少し言いよどんだ。
「……貸したのだそうでございます」
「貸した」
「はい。青いリボンの帽子の女が来て、娘を七日だけ貸せと。お屋敷の慈善の芝居に子役が要る、七日で返す、銀貨を三枚やる、と」
「それで、お貸しになった」
「冬を越す薪代が、ございませんで」
◇
ヴィオレッタは、窓のほうを見た。
七日で返すはずであった。八日目に、子どもは公爵家にいた。母のもとへ戻す手はずを狂わせたのは、市場で子どもを連れて帰った自分である。
「マルトは、いまどちらに」
「……門の外に、おります」
「お連れしたの」
「お連れしようとしたのですが、入らぬと申しまして。娘を金で貸した母親が、公爵様のお屋敷の門をくぐれるものか、と」
◇
ヴィオレッタは、立ち上がった。
階段を下り、玄関を出て、門まで歩く。日が落ちかけていて、石畳が冷たい。門の外の野次馬は、夕餉の頃合いで、もうまばらになっていた。
門の脇に、女が一人立っていた。
痩せた女である。手が赤い。指の節が太く、爪の際が白かった。リゼットと同じ手であった。
◇
内側を見るまでもない。見れば、震えている。娘を貸した恥と、娘に会いたい気持ちとが、同じ強さで震えていた。
女は、ヴィオレッタを見て、膝をつこうとした。
「おやめなさい」
女の膝が、途中で止まる。
「あなたが、あの子のお母様ですの」
「……はい」
「でしたら、膝をおつきになる必要はございませんわ。わたくしは、あの子をお預かりしているだけですもの」
◇
女の目から、涙が落ちる。
「返して、いただけますので」
「お返しいたしますわ」
「ただし、明後日まで、お待ちくださいまし」
女が、顔を上げた。
「明後日、王妃陛下の御前で、あの子を攫ったかどうかを問われる場がございますの」
◇
「そこへ、あなたにおいでいただきます」
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