第61話 お母様を、探しておりますの
馬車の中で、リゼットは一言も喋らなかった。
座席の端に、膝を抱えて座っている。窓の外を見るでもなく、こちらを見るでもない。ただ、時々、自分の手のひらを見ていた。何かを握っていたのを、思い出そうとしているような目つきである。
◇
「何を、持っていらしたの」
リゼットは、手のひらを閉じた。
「……あめ」
「飴」
「なくなった」
「食べてしまわれたのね」
「……うん」
うん、と言ってから、子どもは慌てて口を押さえる。
はい、と言わねばならないと、誰かに教えられていたのであろう。教えたのは、飴をくれた者である。
◇
マリアンヌが、子どもの向かいに座っていた。
膝の上で手を組み、子どもの足元を見ている。この侍女は、子爵家の長女で、下に妹が三人いる。子どもの扱いは、主人よりよほど慣れていた。慣れているから、余計なことを言わない。
◇
「お嬢様。屋敷に着きましたら」
「湯に入れて、食べさせて、寝かせてちょうだい」
「……それから」
「それからのことは、それから考えますわ」
噂は、馬車より先に屋敷に着いていた。
ただし、中身が違う。
アルヴェールの悪女が、市場で子どもを攫った。母を探して泣いている子を、母ではないと突き放しておきながら、そのまま馬車に押し込んで連れ去った。何に使うつもりかは、誰も知らない。
◇
筋書きを狂わされた者は、筋書きを書き直すのが早い。
突き飛ばさなかったのなら、攫ったことにすればいい。悪女が子どもを抱えて帰った。それだけで、王都は勝手に続きを考える。
ベルナールが、玄関で待っていた。
待っていた、というのは正しくない。二十年この家の財布を握ってきた執事は、玄関の真ん中で、立ったまま顔色を失っていた。
◇
「お嬢様」
「ただいま戻りましたわ」
「……旦那様が、書斎で」
「存じておりますわ」
父は、机の前に立っていた。
「何を考えておる」
「子どもを一人、拾ってまいりましたの」
「拾った、で済むか。王都じゅうが、攫ったと申しておる」
◇
父の内側は、勘定の音でいっぱいであった。
十日後に、王妃の御前で、王立孤児院の後援の任が決まる。王太子の婚約者が最初に務める慈善で、断る筋のものではない。断る筋のものではない席に、子どもを攫ったという噂を抱えた娘を座らせる。父の頭の中で、その数字がどうしても合わなかった。
◇
「ドルヴィエ伯爵夫人が、黙っておるまい」
「黙っておいでになりませんでしょうね」
ドルヴィエ伯爵夫人は、王妃の遠縁である。
王立孤児院には、もう十年も寄進を続けている。寄進を続けた分だけ、後援の任は自分のものだと思っていた。そこへ、王太子の婚約者というだけで、寄進を一度もしたことのない悪名の令嬢が座る。
◇
「なぜ、連れて帰った」
「置いてくれば、あの子は青いリボンの女のところへ戻りましたもの」
「……リボン」
「市場で、あの子を見張っておりましたの」
父は、眉を寄せた。
この男は、娘が何を見ているのかを知らない。知らないが、娘の言うことが当たるのは知っている。当たるのは知っていて、なぜ当たるのかは、訊かないことにしていた。
◇
「おまえの子ではないな」
「ございませんわ。わたくし、まだ十八でございますもの」
「では、誰の子だ」
「探しておりますの」
「探す」
「ええ。この子には、お母様がおいでですわ。そのお母様を、探しております」
「……見つからなかったら」
「見つかりますわ」
◇
見つかる根拠は、口にしなかった。
口にすれば、子どもの内側で聞いたと言わねばならない。聞いたものは、証にならない。証にならないものを、父の前に置いても仕方がなかった。
夕方に、王城から使いが来た。
封の中には、一行だけ書いてある。
◇
子どもを拾ったそうだな。一つ残らず出せ。
ヴィオレッタは、その下に一行だけ書いて返した。
お母様を探しております。見つかりましたら、一つ残らずお出しいたしますわ。
書斎を出ると、廊下の端でリゼットが待っていた。
◇
マリアンヌに手を引かれて、厨のほうから戻ってきたところである。湯に入ったらしく、藁の色の髪がしっとりと濡れていた。口の端に、パンの粉がついている。片手に、食べかけの林檎を握っていた。
子どもは、ヴィオレッタを見上げる。
◇
見上げて、口を開きかけて、やめた。
おかあさま、とは言わない。
ここには、人垣がない。青いリボンの女もいない。台詞を言う相手が、誰もいなかった。
内側は、静かであった。
◇
――りんご、おいしい。
◇
それだけである。
「林檎は、おいしゅうございまして」
「……うん」
◇
今度は、口を押さえなかった。




