第60話 わたくしは、あなたのお母様ではございませんわ
宝飾店は、市場の通りの端にある。
ヴィオレッタが馬車を降りたのは、母の形見の指輪の留め金を直させるためであった。月に一度、店のほうから屋敷へ来させてもいいのだが、この店の主人は、来させると仕事が雑になる。雑になるのが気にくわないので、自分の足で来ている。
踏み台に足をかけたところで、膝に何かが当たった。
小さな腕であった。
◇
「おかあさま」
五つか、六つ。痩せた女の子である。髪は乾いた藁の色で、継ぎの当たった服を着ていた。
通りが、一度だけ静かになる。
静かになって、すぐにざわめきが戻った。戻り方が速い。魚屋の女房も、果物売りの男も、パン屋の小僧も、手は止めずに耳だけこちらへ向けている。
◇
――アルヴェールの悪女だ。
――子どもに抱きつかれてる。
――どうする。蹴飛ばすか。
ヴィオレッタは、子どもを見下ろした。
腕に、力がない。巻きついているというより、引っかけているだけであった。顔は膝に押しつけたまま上げない。
内側を、見た。
◇
――言わなきゃ。
◇
――おかあさまって、言わなきゃ。言わないと、かあちゃんのとこに帰れない。
ヴィオレッタは、扇を閉じた。
閉じたまま、通りの人垣を見渡す。見渡すふりをして、色を拾った。驚きと、面白がる色と、気の毒がる色。そのなかに一つだけ、まるで違う色が混じっていた。
果物売りの屋台の脇である。青いリボンを帽子に巻いた女が、こちらを見ないふりをして立っていた。
◇
――さあ。
◇
――突き飛ばせ。悪女らしく。
なるほど、と思った。
この子どもは、母を探してここへ来たのではない。悪名の令嬢の膝へ、投げ込まれたのである。悪名の令嬢は、すがりつく子どもを振り払う。振り払うところを、市場じゅうが見る。見たものは、夕方までに王都じゅうを回る。
◇
そういう筋書きであった。
◇
ヴィオレッタが突き飛ばすと、誰かが決めている。
「お嬢様」
マリアンヌが、後ろから小声で言った。
「人が、見ております」
「見ておりますわね」
ヴィオレッタは、身をかがめた。
膝はつかない。腰を折って、子どもの顎に指をかけ、上を向かせる。子どもの目は、乾いていた。泣いていない子どもが、母を見つけたと言っていた。
◇
「わたくしは、あなたのお母様ではございませんわ」
◇
子どもの唇が、震える。
震えて、それから、もう一度同じことを言った。
「おかあさま」
言いながら、目がほんの一瞬だけ果物の屋台のほうへ流れた。
――ちがうって、言われた。どうしよう。もういっかい言わなきゃ。
「お名前は」
「……」
「お名前を、伺っておりますの」
「……リゼット」
「リゼット。お腹は、すいておりまして」
子どもの目が、まっすぐこちらへ戻った。
戻った目は、さっきまでと違う。言われた台詞を言う目ではない。訊かれたことに、本当のことを答えたい目である。
答える前に、腹のほうが鳴った。
◇
果物売りの男が、こらえきれずに吹き出す。
「マリアンヌ。宝飾店は、あとにいたしますわ」
「……お嬢様。まさか」
「連れて帰りますの」
マリアンヌの顔が、青くなった。
「お母様ではないと、いま仰いました」
「ええ。申しましたわ」
「でしたら、番所にお預けに」
「番所に、この子のお母様はおいでですの」
◇
マリアンヌは、言葉に詰まった。
ヴィオレッタは、子どもの手を取って立たせた。
手が、ひどく冷たい。冷たいうえに、荒れていた。指の節がこすれて赤くなり、爪の際だけが白く浮いている。五つの子どもの手にしては、ずいぶん働いた手であった。
ヴィオレッタは、その手を離さずに、人垣に聞こえるよう声を張った。
「母ではございませんけれど」
◇
「拾ったものは、返しませんの」
◇
通りが、もう一度静まる。
静まったなかを、青いリボンの女が、そっと人垣から離れていった。
離れていく背中の色は、ひどく濁っていた。筋書きが狂った者の色である。狂った筋書きを、どう報せればいいか。報せた先で、どう叱られるか。それを数えている色であった。
ヴィオレッタは、その背中を見送らなかった。
見送る必要がない。あの女がどこへ帰るかは、いずれ分かる。分からせるのは、この子どものほうであった。
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