第59話 どちらへお帰りになるのか
鐘が鳴った。
◇
一つ。二つ。
東の小部屋の扉は、三つ目で開けられた。
開けたのは、伯爵夫人である。
中には、男と娘がいた。娘は窓際に背を押しつけて立ち、男はその前に片膝をついていた。手を取ってはいない。取ろうとした手を、娘が払ったところであった。
鐘が、十二まで鳴り終えた。
◇
廊下の客たちが、一斉に仮面を外した。
小部屋の中の二人も、決まりに従って仮面を外す。
男の下から出てきたのは、男爵家の三男の顔であった。
◇
百合の下から出てきたのは、伯爵家の一人娘の顔であった。
◇
廊下が、音を失う。
伯爵夫人は、扉の把手を握ったまま立っていた。
広間の真ん中にいても、東の廊下の奥で色が一つ、白く弾けたのが分かった。白のなかで、いくつもの言葉が同時に崩れていく。百合。東の小部屋。ラウル。札の間。従僕への言いつけ。どれもが、伯爵夫人が自分の手で組んだものである。
◇
ラウルが、立ち上がった。
男も、仮面の下から出てきた顔を見ていた。見て、うろたえていた。うろたえた者は、いちばん言ってはならないことから口にする。
◇
「……伯爵夫人」
男は、扉のほうを見る。
「この方は、ずっと、自分は違うと仰っていました。奥方様の仰ったとおりに」
廊下の客たちが、伯爵夫人を見た。
「仰ったとおり、とは」
声を上げたのは、老公爵夫人であった。
ラウルは、答えない。
答えなかったが、もう遅い。札の間で一緒に札を打っていた夫人たちが、互いの顔を見ている。今夜、伯爵夫人は、何度か窓のほうを気にしていた。鐘の少し前に急に席を立った。立って、女中から聞いたと言って、名を口にした。
◇
女中から聞いたというのなら、どの女中か。
鐘の前に、なぜ百合の下が王太子の婚約者だと分かったのか。
仮面を配ったのは、誰であったか。
ヴィオレッタは、そのとき広間の真ん中で仮面を外していた。
白鳥の羽が、指のあいだで軽く揺れる。隣で、黒い仮面も外されていた。外れた下から出てきた顔を見て、広間に残っていた給仕たちが、持っていた盆を取り落としそうになった。
◇
王太子が、婚約者と踊っていたのである。
◇
廊下から戻ってきた客たちが、それを見た。
見て、それから、東の小部屋のほうを振り返った。振り返った先には、百合の仮面を手に立ち尽くす伯爵家の娘と、扉の把手から手を離せずにいる母親がいる。
誰も、何も言わない。
◇
言わなくても、一つの話がもう出来上がっていた。鐘の前に名を呼ばれた令嬢は、鐘が鳴ったとき、王太子と広間の真ん中にいた。東の小部屋にいたのは、呼んだ女の娘であった。
◇
老公爵夫人が、伯爵夫人の前に立つ。
◇
「この家の決まりでは、破った者は帰ることになっておりますわね」
◇
伯爵夫人は、答えない。
「ここは、あなたのお家でございましょう」
老いた声は、静かであった。
「どちらへお帰りになるのか、わたくしには存じませんけれど」
伯爵夫人の膝が、ゆっくりと落ちた。
ラウルが王都を出たのは、その月のうちである。
残りの金は、受け取れなかった。前金のほうも、男爵家が全部返した。返したうえで、三男を北の親類へ預けた。預けた先で何をしているかは、王都の誰も知らない。
◇
伯爵夫人は、その冬のうちに王都の屋敷を閉めた。
閉めて、南の領地へ下っている。老公爵夫人のサロンでも、どの家の茶会でも、それきりあの家の名は上がらない。誰も上げないことが、王都でいちばん重い罰である。
◇
デュフレーヌ家の仮面舞踏会は、翌年から開かれなくなった。
◇
百年続いた決まりは、破られた年に終わった。
◇
オデットが公爵家に来たのは、年が明けてからである。
百合の仮面を返しに来た、と取次ぎは言った。応接の間で会うと、娘は百合の仮面の入った箱を卓に置いた。
「こちらを、お返しいたします」
「百合は、わたくしのものではございませんわ」
「……母が、ヴィオレッタ様にお贈りしたものでございます」
「お贈りいただいたものを、あの晩あなたに差し上げましたの。差し上げたものは、わたくしのものではございませんわ」
◇
オデットは、箱を見下ろしている。
「あの晩、わたくしは、お断りすればよかったのでしょうか」
「お断りになれましたの」
「……いいえ」
「では、そういうことですわ」
ヴィオレッタは、マリアンヌに白鳥の仮面の箱を持ってこさせ、娘の前へ置く。
「こちらもお持ち帰りなさいまし。わたくしには似合いませんでしたもの」
「……似合うと、仰いました」
「あの晩だけ、似合いましたの」
◇
オデットは、二つの箱を抱えて帰っていった。
帰る背の内側は、恨みでも恥でもなかった。ただ、一つのことを繰り返している。断る口を持っていなかった。それだけであった。
その晩、マリアンヌが髪をほどきながら言う。
「殿下は、なぜあの晩おいでになったのでしょう」
「わたくしが、お呼びしたからですわ」
「何をなさるか、お伝えになったのですか」
「いいえ。見つけます、とだけ」
◇
「それで、おいでになったのですね」
「見つけられるものなら、と仰いましたもの。見つけられたかどうか、ご自分の目でお確かめになりたかったのでしょう」
マリアンヌは、櫛を置く。
「殿下は、お嬢様を見つけられたでしょうか」
ヴィオレッタは、鏡の中の自分を見る。
白鳥の仮面をつけて広間を歩いたとき、黒い仮面の男は、一度もこちらを探す目をしなかった。探さずに、窓際で待っている。来ると分かっている者を待つ立ち方であった。
◇
「さあ」
◇
「仮面の下までは、殿下には見えませんもの」
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