第58話 仮面の下は、存じておりますの
ヴィオレッタは、窓のほうへ歩いていく。
窓際に、黒い仮面の男が一人立っていた。
飾りのない黒で、羽も宝石もついていない。衣も黒く、襟が高い。誰とも話さず、杯も持たず、ただ広間を見渡していた。舞踏会の客にしては、愛想がなさすぎる。
内側は、氷点下であった。
王都で、これほど冷たい色を持つ者は一人しかいない。
◇
「ごきげんよう」
黒い仮面が、こちらを向いた。
「……白鳥か」
「ええ。似合いまして」
「似合わぬ。そなたの好みではなかろう」
「替えましたの」
「誰と」
「伯爵夫人の、娘御と」
黒い仮面の下で、氷がわずかに軋んだ。
「……名は口にしてはならぬ決まりだったな」
「口にしておりませんわ。どなたの娘御とも申しておりません」
「申しておる」
「伯爵夫人とは、申しました。どちらの伯爵夫人かは、申しておりませんわ」
◇
男は、しばらく黙っていた。
「見つけたな」
「見つけましたわ」
「顔も、声も、出しておらぬ。衣もいつもと違う。それで、どうやって」
◇
「仮面の下は、存じておりますの」
◇
黒い仮面が、少しだけ傾いた。
この男は、知っている。ヴィオレッタが人の内側を覗くらしいということを、王都でただ一人、早くから察していた。察していて、言わない。言わないから、こちらも答え合わせをしない。
「殿下の中身は、王都でいちばん冷とうございますもの。間違えようがございませんわ」
「褒めておるのか」
「見分けておりますの」
◇
「見つけられるものなら、と書いた」
「ええ。拝見いたしました」
「見つけられぬと思うておった」
「殿下は、見つからぬようにお立ちでございましたものね」
窓際の、灯のいちばん届かない場所である。黒い衣は壁の影に溶け、仮面も影と同じ色をしている。わざわざ探しにくいところを選んで、この男は立っていた。
「隠れておられましたの」
「試しておった」
「同じことでございますわ」
男の内側で、氷が少しだけ鳴る。笑う手前の音である。
◇
男が、手を差し出した。
「踊れ」
「お誘いに、なっておりませんわ」
「踊ってくれ」
「……よろしゅうございますわ」
三曲目は、広間の真ん中で踊った。
真ん中というのは、いちばん人の目が集まる場所である。白鳥の仮面の女と、黒い仮面の男。名は誰も口にしない。口にしないまま、広間じゅうが二人を見ていた。見て、内側でそれぞれの名を呼んでいる。
◇
――白鳥。あれは、デュフレーヌの。
◇
――では、あの黒は誰だ。
◇
白鳥の仮面は、オデットのものである。衣が違うと気づく者はいても、仮面を見て真っ先に浮かぶのは、白鳥を選んだ家の娘の名であった。人は、衣より先に顔のまわりを見る。
黒い仮面は、誰の名も呼ばせなかった。
「一つ訊く」
踊りながら、男が言う。
「百合の娘を、どうするつもりだ」
「どうもいたしませんわ」
「助けぬのか」
「助けませんわ。助けを求められておりませんもの」
◇
「求められたら」
「お断りいたしますわ」
男の内側で、細い渦が一つ立つ。
面白がる色であった。
◇
三曲目が終わっても、男は手を離さない。
「次も踊るのか」
「ええ。鐘が鳴るまで、ここにおりますわ」
「真ん中にか」
「真ん中に、でございます」
広間の真ん中は、いちばん人の目が集まる。集まった目は、そのまま証になる。鐘が鳴るとき、白鳥の仮面がどこにいて、誰と踊っていたか。百人が見ていれば、百人が覚えている。
男は、それ以上は訊かなかった。
訊かずに、四曲目の輪へ足を向ける。
◇
東の小部屋のほうへ、百合が動いたのは、鐘の少し前である。
マリアンヌが、壁際から目で知らせた。
知らせを受けるまでもない。広間の端で、赤い色と白い色が、絡まるように東の廊下へ消えていくのが見えた。四曲目の終わりの、いちばん人の目がゆるむ頃合いであった。
◇
男は、娘の手を取ったまま歩いていた。
娘は、ついていくしかない。振りほどいて走れば、百合の仮面が廊下じゅうの目を引く。目を引いたまま鐘が鳴れば、外れた仮面の下を全員に見られる。見られるくらいなら、人のいない小部屋のほうがまだましだと、この娘は思ってしまった。
◇
ヴィオレッタは、東の廊下のほうへ目を向けなかった。
向けなくても、色は届く。赤は廊下の奥で止まり、白はそのそばで小さく縮こまっている。小部屋の扉が閉まる音までは、さすがに聞こえない。聞こえないかわりに、奥の札の間のあたりで、別の色が一つ立ち上がった。
◇
――入った。
◇
伯爵夫人の内側である。廊下の女中の合図か何かで、知らせを受けたのであろう。色は落ち着いていて、待っていたものがようやく来た、という温度をしていた。
◇
札の間の扉が開いたのは、それからすぐである。
伯爵夫人が出てきた。
仮面は、紫の羽のついた大ぶりのものである。老公爵夫人の腕を取り、年配の夫人を四人ほど連れて、まっすぐ広間へ入ってきた。札の間で、ずっと一緒に札を打っていた顔ぶれであった。
夫人は、広間の中央で立ち止まる。
◇
立ち止まって、扇を半分だけ開いた。
「皆さま。たったいま、女中から妙な話を聞きましたの」
広間の音が、半分になった。
「東の小部屋に、殿方と二人きりでお入りになったご令嬢がおいでだとか」
ざわめきが、輪のように広がっていく。
夫人は、扇の陰で小さく首を振った。
困ったような、気の毒がるような振り方である。
◇
「まさかとは思いますけれど。……アルヴェールのヴィオレッタ様では、と」
広間が、静まり返った。
静まり返ったのは、中身のせいではない。
◇
名を口にしたからである。
◇
百年続く決まりであった。鐘が鳴るまで、誰も名を口にしてはならない。破った者は一人もいない。その決まりを、主催の家の女主人が、鐘の前に、広間の真ん中で破っていた。
老公爵夫人が、伯爵夫人の腕から手を離す。
「……あなた」
老いた声は小さかったが、広間の端まで届いた。
「いま、お名を」
◇
伯爵夫人の内側が、そこで一度だけ揺れた。
揺れて、すぐに立ち直る。名を口にしたことより、急ぐことのほうが大事であった。鐘はもうすぐ鳴る。鳴る前に、皆を東へ連れていかねばならない。
「お叱りは、あとでいくらでも。ですが、王太子殿下の婚約者のお名に関わることでございますもの。まいりましょう、皆さま」
◇
夫人は、東の廊下へ歩きだした。
年配の夫人たちが続き、若い客たちがそのあとを追った。人の流れが、一本の川のように廊下へ吸い込まれていく。
ヴィオレッタは、広間の真ん中から動かなかった。
黒い仮面の男も、動かない。
二人のまわりだけ、人が引いていた。
マリアンヌが、壁際からそっと寄ってきて、一歩うしろに立つ。
「お嬢様は、お行きにならないのですか」
「名を呼ばれましたもの。呼ばれた者が、のこのこ見に行くものではございませんわ」
「……左様でございますね」
侍女の内側は、少しだけ笑っていた。
お読みいただき、ありがとうございました!
皆様にお願いです
ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に
応援していただけますと励みになります! よろしくお願いいたします(^^♪




