第57話 そちらのほうが、わたくしに似合いますわ
広間の奥に、オデットがいた。
十八になる伯爵家の一人娘である。母に似て背が高く、母に似ず声が小さい。今夜は青い衣で、白鳥の羽を象った仮面をつけていた。母が選んだのであろう。王都の令嬢たちのなかで、いちばん華やかな仮面であった。
オデットの内側は、落ち着かなかった。
◇
――今夜で、終わる。
◇
――お母様が、そう仰った。あの女は、今夜で終わる。
◇
怖れと、期待が半分ずつ混じった色である。母の企みを、この娘は知っていた。知っていて止めず、止めない自分を少しだけ恥じていた。
ヴィオレッタは、まっすぐそちらへ歩いていく。
途中で、何人かの客が道を空けた。空け方が早い。仮面をつけていても、皆、誰が歩いてきたかを知っている。
◇
「ごきげんよう」
オデットの肩が、跳ねた。
「……ごきげん、よう」
「その仮面、たいそうきれいでございますわね」
「お母様が、選んでくださいまして」
「白鳥ですのね。羽の細工が細かいこと」
ヴィオレッタは、扇の先でその羽に触れる。
◇
「わたくし、こちらのほうが好きですわ」
◇
オデットが、扇を取り落としかけた。
◇
「……え」
「わたくしのは百合ですの。百合も悪くはございませんけれど、白鳥のほうが、わたくしに似合いますわ」
「で、ですが」
「取り替えてくださいまし」
◇
近くにいた客が、何人かこちらを向く。
向いて、またか、という顔をする。悪名の令嬢が、気に入ったものを人から取り上げる。王都では見慣れた景色であった。見慣れた景色に、誰も口を挟まない。
オデットの内側が、真っ白になっていた。
◇
――だめ。百合は、だめ。
◇
――でも、断れば。
◇
断る理由が言えない。百合は印です、とは言えない。言えば、母の企みが全部ほどける。ほどけなくても、公爵令嬢の頼みを断った伯爵家の娘、という話が明日の王都を回る。
◇
この娘は、断る口を持っていなかった。
◇
「……鐘が鳴るまで、顔を見せてはならぬ決まりで」
「見せませんわ。取り替えるだけでございます」
ヴィオレッタは、柱の陰を指した。
「あちらで。背を向けて、一度に。誰にも顔は見えませんでしょう」
決まりは、顔を晒すなと言っている。仮面を替えるなとは言っていない。
◇
オデットは、母を探した。
◇
探す目が、広間を二度回った。母はいない。伯爵夫人は、鐘の少し前まで奥の札の間にいることになっている。王都でいちばん言葉の重い老公爵夫人と、ずっと札を打っていた。そういうことにしておくための手はずである。
手はずを組んだのは、母自身であった。
◇
「……かしこまりました」
柱の陰で、二人は背を向け合った。
百合の仮面を外して、後ろ手に渡す。白鳥の仮面が、後ろ手に返ってくる。ほんのひと呼吸のあいだのことであった。
振り返ると、オデットが百合をつけていた。
紫の衣ではない。青い衣に、銀の百合である。ただ、仮面をつけた者を見分けるとき、人は衣より先に顔のまわりを見る。顔のまわりにあるのは、仮面であった。
「よくお似合いですわ」
「……ありがとう、存じます」
「百合は、あなたのほうが似合いますわね。白くて、気高くて」
◇
オデットの唇が、仮面の下で震えた。
ヴィオレッタは、白鳥の羽を指で直す。
右の柱の脇で、赤い羽根の男が動いた。
男の内側は、少しも迷っていない。
◇
――いた。百合だ。
◇
――柱の陰から出てきた。青い衣に着替えたのか。手の込んだことをする。やはり、頭のいい女だ。
◇
男は、広間を横切りはじめた。
◇
まっすぐ、百合のほうへ。
◇
ラウルが百合に声をかけたのは、二曲目のはじまる前である。
ヴィオレッタは、広間の反対側からそれを見ていた。
見ていたのは、二人の顔ではない。顔は仮面の下にある。見ていたのは、二人の内側から立ちのぼる色であった。男のほうは赤く、まっすぐで、迷いがない。娘のほうは白く、細かく震えている。
◇
男は、礼の角度がうまかった。
膝を折りすぎず、頭を下げすぎず、手を差し出す高さもちょうどいい。断る隙を与えない誘い方である。
オデットは、手を引っ込めた。
「わたくしは、あなたがお思いの方ではございません」
声は小さかったが、ヴィオレッタのところまで届いた。届いたのは、娘の内側が同じことを大声で叫んでいたからである。
◇
ラウルは、笑った。
「ええ、存じておりますとも」
「……では」
「そう仰るだろうと、伺っておりました」
オデットの手首を、男の手がやわらかく取った。
取り方に力はない。力はないが、離す気もない。踊りの輪へ導く手つきであった。
◇
――やはり、言い張る。伯爵夫人の仰ったとおりだ。
◇
男の内側は、晴れていた。
娘の言葉が、男の確信を一段ずつ固めていく。わたくしではない、と言えば言うほど、この男には頭のいい令嬢の言い逃れに聞こえる。言い逃れまで先に言い当てておいたのは、娘の母であった。
二曲目のあいだ、オデットは三度、男の腕から逃れようとした。
三度とも、輪の中へ連れ戻される。踊りの途中で輪を抜けるのは、この舞踏会ではひどい無作法とされていた。無作法をして目立てば、百合の仮面に人の目が集まる。目が集まるのは、困る。
◇
二度目に連れ戻されたとき、百合の仮面がこちらを向いた。
広間の反対側にいる白鳥を、娘の目が見つけている。
◇
――たすけて。
◇
細い声であった。内側の、いちばん奥のほうで鳴っている。
口は、開かない。開けば名を言わねばならず、名を言えば決まりを破る。破らずに助けを乞う言葉を、この娘は一つも持っていない。
ヴィオレッタは、扇を半分だけ開く。
開いた扇の陰で、顔をよそへ向けた。
◇
曲が終わると、娘は男の手を振りほどいて広間を出た。
奥の札の間へ向かったのであろう。
ヴィオレッタは、マリアンヌに目で合図をした。
侍女は灰色の仮面のまま、壁際を伝って同じ方向へ消えた。
戻ってきたのは、四半刻ほどあとである。
「札の間の前に、従僕が立っておりました」
「通さなかったのでしょう」
「はい。奥方様のお言いつけで、鐘まではどなたもお通しできぬ、と。あの娘が、奥方様の娘だと申しましても」
「仮面をつけておりましたものね」
◇
「……名乗ることも、なりませぬ決まりで」
「ええ。名を口にしてはならぬ決まりでございますもの」
札の間に人を入れぬよう言いつけたのは、伯爵夫人自身である。手はずがよく出来ていたぶん、娘は母のところまで辿りつけない。
◇
「あの娘は、どちらへ」
「広間へ戻りました。あの男が、廊下で待っておりまして」
ヴィオレッタは、白鳥の羽を指で撫でる。
◇
助ける気は、ない。
◇
あの娘は、今夜の企みを知っていた。知っていて、母を止めていない。止めないで、王太子の婚約者が落ちるのを待っていた。百合を渡されたとき、断る口を持っていなかったのは、あの娘自身の都合である。
それに、腹が立っている。
企まれたことにではない。百合一つで見分けられると思われたことに、である。銀の縁に花を三輪彫れば、悪名の令嬢はそれで済む。済むと踏まれて、仮面を一つ配られた。
◇
安く見られたものであった。
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