第56話 百合なら、見違えまい
デュフレーヌ伯爵家の仮面舞踏会は、王都の冬の名物である。
◇
決まりが三つある。
一つ、客は仮面をつけて入る。二つ、真夜中の鐘が鳴るまで、誰も名を口にしてはならない。三つ、鐘が鳴るまで、素顔を人に見せてはならない。
破った者は、その場で帰らねばならない。
百年続く決まりで、破った者は一人もいないという。
◇
「今年は、仮面を伯爵夫人がお配りになるそうでございます」
マリアンヌが、招待状を卓に置きながら言った。
「お配りに」
「はい。主だったお客様には、お一人ずつ、お屋敷へお届けになるとか」
「ずいぶん、手間をおかけになること」
手間をかけるには、かけるだけの理由がある。
伯爵夫人が公爵家に来たのは、三日後の午後であった。
デュフレーヌ伯爵夫人は、五十に近い。背が高く、声がやわらかく、笑うときに必ず扇を半分だけ開く。夫を早くに亡くし、一人娘のオデットを育てながら、伯爵家を切り盛りしてきた女である。
◇
「今年は、趣向を変えてみましたの」
夫人は、侍女に持たせてきた箱を自分の手で開けた。
「お客様の仮面を、わたくしが選ばせていただいて」
中に、銀の仮面があった。
目元を覆う形で、縁に細かな百合の彫りが入っている。百合は三輪。真ん中の一輪だけが、ほかより少し大きい。
◇
「まあ、きれい」
「お気に召すとよろしいのですけれど」
「三輪でございますのね」
「ええ。真ん中の一輪は、職人に大きめに彫らせましたの。遠くからでも、よく見えますように」
「遠くから」
「仮面は、遠くから眺めていただくものでございましょう」
「ヴィオレッタ様のお顔には、百合がよくお似合いかと存じまして」
「百合を、わたくしに」
「ええ。白くて、気高くて」
◇
ヴィオレッタは、夫人の内側を見た。
◇
――百合なら、ラウルも見誤るまい。
◇
はっきりと、そう聞こえた。
声は、続いている。
真夜中の鐘の前に、東の小部屋。人目のない場所に、男と二人。鐘が鳴って仮面が外れたとき、そこにいるのが王太子の婚約者であれば、婚約はもたない。もたなければ、次に名が挙がるのは家柄の釣り合う娘で、王都でいまいちばん釣り合うのは、デュフレーヌのオデットであった。
◇
夫人の顔は、やわらかく笑ったままである。
「お気に召しまして」
「ええ。よく出来ておりますわ」
「よかった。当日は、ぜひそれで」
「ぜひ、これで参りますわ」
夫人が帰ったあと、ヴィオレッタは仮面を手に取った。
裏を返すと、内張りの絹に小さな刺繍がある。デュフレーヌ家の紋であった。配った仮面には、全部これが入っているのであろう。誰に何を渡したか、夫人だけが知っている。
ヴィオレッタは、仮面を窓辺まで持っていき、腕をいっぱいに伸ばしてかざしてみる。
縁の百合が、三つ並んで白く光った。真ん中の一輪だけが、ひとまわり大きい。部屋の端からでも、それと分かる。
「マリアンヌ。扉のところから、これが何に見えまして」
「……百合でございます」
「何輪」
「三輪。真ん中が、大きゅうございます」
「そうでしょうね」
広間の端から、男が一人でこれを探す。探しやすいように、真ん中を大きく彫らせてある。遠くから眺めていただくもの、とは、よく言ったものであった。
◇
証は、どこにもない。
◇
百合の仮面を配られた。それだけである。ラウルという男も、東の小部屋も、夫人の口からは一言も出ていない。出ていないものを訴えても、仮面にけちをつけた悪名の女、で終わる。
「お嬢様。当日は、それをおつけになるのですか」
「つけますわ。いただいたのですもの」
「……よくお似合いになると存じます」
「そうでしょうね。百合は、わたくしに似合うよう選ばれておりますもの」
◇
「伯爵夫人は、オデット様にもお選びになったのでしょうか」
「お選びになりましたでしょうね。ご自分の娘御のぶんは、いちばん念入りに」
マリアンヌは、それ以上は訊かなかった。
訊かずに、仮面を箱に戻す。戻す手つきが、いつもより少しだけ丁寧であった。
その晩、ヴィオレッタは王城へ短い書状を出した。
デュフレーヌ家の舞踏会に、仮面でおいでくださいまし。わたくしのほうで、お見つけいたします。
◇
返書は、翌朝に来た。一行だけであった。
◇
見つけられるものなら。
◇
「殿下は、なんと」
「見つけてみろ、と」
「……お見つけになれますか」
「仮面の下なら、存じておりますもの」
同じ週に、ヴィオレッタは一つ潰している。
仕立屋の針子頭であった。舞踏会の衣装合わせのとき、この女はマリアンヌに針山を持たせたまま、一刻も立たせておいた。腕を下ろせば、針山の位置が違うと叱る。叱られても、マリアンヌは何も言わない。言わないのを知っていて、立たせていたのである。
◇
――侍女ふぜいが、公爵家の衣に触れて。
◇
針子頭の内側は、そう言っていた。口では、お嬢様のお供の方はお手が器用でいらっしゃる、と笑っている。
ヴィオレッタは、衣の丈を三度直させた。三度とも、針子頭に自分の手で直させる。マリアンヌの腕が下りたのは、そのあとのことである。
◇
翌月から、公爵家の仕立ては別の店に移った。
理由は、店の主人にも言っていない。
◇
舞踏会の夜は、雪が降った。
デュフレーヌ家の屋敷は、王都の北の丘にある。坂の下から見上げると、窓という窓に灯が入っていた。馬車が列を作り、仮面の客が一人また一人と玄関へ吸い込まれていく。
◇
ヴィオレッタは、百合の仮面をつけていた。
衣装は、深い紫である。仮面の銀と、百合の白が、紫の上でよく映えた。玄関で外套を預けると、広間の手前にいた客が何人か、こちらを振り返った。
振り返って、すぐに目を逸らす。
◇
――あれは、アルヴェールの。
◇
名を口にしてはならない決まりである。口にしなくても、内側では皆が名を呼んでいた。仮面で顔を隠しても、背丈と歩き方と、人を見るときの目の高さまでは隠せない。
マリアンヌは、灰色の地味な仮面をつけていた。
侍女は、主人の供として壁際に控える。控えながら、まわりをよく見る。
灰色を選んだのは、マリアンヌ自身である。目立たない色のほうが、人はよく喋る。侍女が後ろに立っていることを、仮面の客たちはすぐに忘れてしまう。
◇
「お嬢様」
広間の入り口で、侍女が扇の陰から言った。
「先日の午後、伯爵夫人とお話しになっていた若い男がおります」
「どちらに」
「右の柱の脇。黒の仮面に、赤い羽根の」
ヴィオレッタは、そちらを見なかった。
見なくても、分かる。
右の柱の脇から、強い色が一本、まっすぐこちらへ伸びてきていた。
◇
――百合だ。
◇
――紫の衣に、銀の百合。真ん中の一輪が大きい。あれだ。
◇
ラウル・ド・サン=ジル。男爵家の三男で、二十三。家督に縁がなく、顔と口と踊りのうまさだけで、王都の夜会を渡り歩いている男である。マリアンヌが見かけたのは、夫人の屋敷の裏口であったという。
男の内側は、続いていた。
前金はもらった。残りは鐘のあと。鐘の前に、東の小部屋へ連れていけばいい。
◇
――女は、別人のふりをするかもしれない。
◇
――伯爵夫人が言っていた。あの令嬢は頭がいい。きっと、自分ではないと言い張る。言い張られても、構うな、と。
◇
なるほど、とヴィオレッタは思った。
よく考えてある。
仮面をつけていれば、相手は顔で見分けられない。だから仮面そのものに印をつけた。印をつけたうえで、相手が言い逃れることまで、先に男へ言い含めてある。用心が二重になっていた。
◇
二重の用心は、どちらか一つが外れると、もう一つが足を引く。
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