第55話 代わりに、お代をいただきます
司祭が、成らぬと告げる。声は震えていたが、言葉は短い。鐘は鳴らない。二百人が、鐘の鳴らない聖堂から一人、また一人と出ていく。
ヴィオレッタは段を降りた。
降りる途中で、ベルトランの横を通る。この男は、まだ祭壇の前から動けずにいた。
すれ違いざま、扇の陰で、ベルトランにだけ届く声を落とす。
◇
「南の町へのお使いは、今夜お出しになりますの」
◇
ベルトランの顔から、色が抜けた。
内側が、悲鳴に近い音を立てる。誰から聞いた。いつから知っている。ほかに何を知っている。問いが次々に湧いて、どれにも答えが出ない。
ヴィオレッタは、答えを置いていかなかった。訊いただけである。訊くのは、嘘ではない。
◇
聖堂の外の階段には、人が溜まっていた。
右の席にいた伯爵の古い友人たちが、伯爵を囲んでいる。三人、四人。どの顔も、婚礼の客の顔ではない。貸した金の行方を案じる顔だ。
持参金を当てにしてモンフォール家が借りを重ねていたことは、王都でも知られた話だった。知られていて、誰も口にしなかった。婚礼が挙がれば、借りは消える。消えるものを口にする者はいない。
挙がらなかったいま、黙っている理由はどこにもない。
遅れて出てきたベルトランに、囲みの一人が声をかけた。古い友人の顔を、もうやめた声で。
「若殿。明日の払いのお話を、今日のうちに伺えますかな」
ベルトランは、返事をしない。できないのだろう。階段の上で足を止めたまま、伯爵の背と、囲む男たちと、左の席から出てきた羊毛の顔役たちの目のあいだで、立ち尽くしている。
◇
ヴィオレッタは、男爵に呼び止められた。
「アルヴェールのお嬢様」
「ヴィオレッタで結構ですわ」
「……ヴィオレッタ様。なんとお礼を申し上げれば」
「お礼は要りませんわ」
◇
「代わりに、お代をいただきます」
◇
男爵が、目を見開く。
「わたくしの口を、お使いになりましたでしょう。お貸しした覚えはございませんけれど」
「……それは」
「お使いになったのでしたら、お代はいただきますわ。商いでございますもの」
男爵の内側で、一瞬、算盤が回る。
回って、すぐに止まった。止まったところで、この男は小さく笑う。市場で、値切られる側が値切る側を気に入ったときの笑い方。
◇
「いかほど」
「布を一反」
「……布」
「羊毛ではなく、南の絹を。仕立ての腕のよい者もつけてくださいまし」
ヴィオレッタは、聖堂の階段の下に目をやった。
マリアンヌが、馬車の脇で待っている。余所行きの、少し古い仕立ての袖。風に、その裾が少しだけ揺れていた。
◇
「どなたの、お召し物で」
「わたくしの侍女の、余所行きでございます。袖が古うございますの」
男爵は、侍女のほうを見た。
見て、それからこちらを見る。品物を検める目で検めて、何を見つけたのかは分からない。ただ、この男は深く頭を下げた。
◇
「承りました」
◇
「それから、ひとつお訊きしても」
「なんなりと」
「男爵のお帳場に、近ごろモンフォール様のお口利きで入った方は、いらっしゃいまして」
◇
男爵の顔が、止まる。
内側の算盤が、今度は止まらなかった。帳場の顔ぶれ。先月入った男の名。その男の推し主。この男の手が、すでに触れた帳簿。一つずつ弾かれて、弾かれるたびに、男爵の顔から笑いが引いていく。
「……おります」
「そうですの」
「お嬢様は、何を」
「お訊きしただけですわ。見たものではございませんもの」
◇
男爵は、しばらく黙っていた。
黙ってから、もう一度頭を下げる。今度は、さっきより深い。
「明日、検めます」
「ご随意に」
ヴィオレッタは、階段を降りていった。
◇
馬車の中で、マリアンヌは何も言わなかった。
言わずに、窓の外を見ている。聖堂の鐘楼が、鳴らないまま遠ざかっていく。
◇
屋敷に着く少し前に、侍女はようやく口を開いた。
「唱えられませんでしたね」
「ええ」
「……絹を、お頼みになりましたね」
「聞こえておりましたの」
「風向きが、よろしゅうございましたので」
「お礼は要りませんわよ」
「申し上げておりません」
「よろしい」
◇
マリアンヌは、窓の外に目を戻す。
戻しながら、古い袖の裾を、指で一度だけ撫でた。
◇
その晩、父に呼ばれた。
父は書斎の椅子に座ったまま、長いこと娘を見ている。内側の勘定は、もう済んでいるらしい。済んで、思っていたより悪くない数字が出たようだ。
◇
「モンフォールの借りが、どれほどあったか知っておるか」
「存じませんわ」
「私も知らなんだ。今日の夕方、三軒から問い合わせが来た。あの家に貸しておったが、そちらは大事ないか、と」
「大事ございませんでしたの」
「……あれが婚礼を挙げておれば、明日は私のところへ来ておった。古い友の家の保証人に、名を出してくれと」
◇
父は、それきり黙る。
黙ってから、もう一度だけ口を開いた。
「顔は、潰れたぞ」
「存じておりますわ」
「……それでよい」
書斎を出るとき、ヴィオレッタは扉のところで振り返った。
「お父様」
「なんだ」
「わたくしが唱えられないことは、ご存じでしたでしょう」
◇
父は、答えない。
答えずに、書類に目を落とした。
落とした目の奥で、勘定とは別の色が、ほんの少しだけ立っている。娘を貸すのは安いと踏んだあの朝、この男は、娘が何を唱え、何を唱えぬかを、どこかで分かっていたのだろう。
◇
分かっていて、貸した。
◇
この家の者は、皆、口の使い方をよく知っている。




