第53話 お礼は、まだ早うございますわ
花婿が帰ったあと、マリアンヌが茶器を下げに来た。
「よい方でございますね」
「そう見えまして」
「……お見えになりませんので」
「見えますわ。よい方に」
◇
マリアンヌは、それ以上は訊かない。
訊かずに茶器を盆に載せ、少しだけ主人の顔を見てから下がっていく。この侍女は、主人の言葉の後半を拾うのが上手い。今日拾ったのは、見えますわ、のほう。
◇
証は、どこにもない。
◇
あの男が持参金を何に使うつもりか。南の町に誰を囲っているか。羊毛の商いをどう食うつもりか。全部聞こえたが、聞こえただけである。
この目のことは、誰も知らない。知っているのは王城の書き物机に向かっている男ただ一人で、その男にしても、何が聞こえたかを証すことはできない。
◇
男爵に知らせる手はある。
知らせて、どうなるか。証のない話を持ち込めば、ただの悪口になる。悪名の女が、古い友の家の縁談にけちをつけた。王都はそう言うだろう。男爵は迷い、伯爵は怒り、父は顔を潰される。それで婚礼が止まる見込みは薄い。
◇
降りる手もある。
降りれば、別の誰かが立つ。モンフォール家の縁者か、伯爵の友人か。その誰かは、祭壇の前ですらすらと唱えるはずだ。この婚姻に偽りなし、と。中身を気にせずに。
それで、婚礼は挙がる。
◇
ヴィオレッタは、どちらも取らなかった。
取らない理由は、花嫁のためではない。
会ったこともない羊毛屋の娘を、救ってやる筋はない。救いたいとも思っていない。ただ、あの男はこちらの口を道具に使うつもりでいる。嘘をつかぬという評判を、自分の嘘の箔にするつもりでいる。
◇
口は、貸しておりませんの。
◇
それだけのことだった。
◇
衣装合わせは、その週の終わりにあった。
証人は、婚礼の家から衣装を一枚贈られる習いになっている。モンフォール家の仕立て部屋に通されると、伯爵の妹のオディールが先に来ていた。花婿の叔母にあたる、四十がらみの女だ。
◇
オディールは、マリアンヌの袖を見て笑った。
声は立てない。扇の陰で、口の端だけを上げる。上げたまま、隣の針子に何か囁く。針子も笑う。
マリアンヌの袖は、少し古い仕立てだった。
子爵家の娘が、自分の給金で一枚だけ誂えた余所行き。主人の供で出るとき、いつもそれを着てくる。
◇
ヴィオレッタは、何も言わない。
言わずに衣装を合わせ、礼を言って帰る。
その晩、王妃付きの女官に宛てて、短い手紙を一通書いた。王妃の冬の聖歌の席は、毎年翌月に改まる。オディールが十年座り続けてきた席だが、今年の名簿にその名が載ることはないだろう。代わりに座るのは、南の男爵家の若い娘になる。
◇
理由を知る者は、誰もいないことになる。
マリアンヌにも、知らせる気はない。袖のことで主人が人を落としたと知れば、この侍女は次から余所行きを着てこなくなる。それは困る。
◇
花嫁に会ったのは、婚礼の前の日。
教会で稽古がある。花嫁と花婿が並び、証人が立ち、司祭が段取りを確かめる。明日の本番で誰も迷わぬよう、一度だけ通しておく習いだ。
エレーヌ・ブリュネは、十九になる。
小柄で、色が白く、髪を飾らずに後ろでまとめている。顔立ちは地味で、目だけがよく動く。落ち着きなく、ではない。相手の手元を見て、足元を見て、それから顔を見る。品物を検める者の目つき。
◇
羊毛を見て育った娘の目である。
◇
「証人をお引き受けくださったと、伺いました」
「ええ」
「……ありがとう存じます」
「お礼は、まだ早うございますわ」
「……早い、とは」
「婚礼は明日でございましょう。済んでから、お礼をおっしゃるかどうか、お決めになればよろしいわ」
「済んでから」
「ええ。済みましたら」
◇
エレーヌは、少し首を傾げた。
内側を見る。
静かだ。
静かだが、空っぽではない。この娘は、自分がどういう縁組をさせられているかを、おおよそ分かっている。古い家が金を欲しがり、父は家柄を欲しがっている。自分はその間に置かれた品物にすぎない。
分かっていて、諦めていた。
◇
――父が決めたことだもの。
◇
――断る口は、わたしにはない。
◇
ヴィオレッタは、目を逸らした。
気の毒に思ったからではない。品物を検める目を持った娘が、自分の値札だけは検めずにいる。それが少し、見ていて退屈だった。
◇
稽古は、滞りなく進む。
司祭が誓いの言葉を読み、ベルトランが復唱し、エレーヌが小さな声で続ける。花嫁の側の証人は、男爵の弟。祭壇の前へ出て、慣れた口ぶりで唱える。
この婚姻に偽りなし、と神の御前に申し上げます。
◇
「では、花婿の側の証人殿」
司祭が、こちらを見た。
◇
「明日、申しますわ」
◇
教会の中が、少しだけ静まる。
「……稽古でございますので、一度」
「明日、申しますわ。稽古で申しても、申したことに変わりはございませんもの」
司祭は困った顔で笑った。
悪名の令嬢の気まぐれ、と取ったのだろう。この手の令嬢に逆らっても得はないと、教会の者はよく心得ている。
◇
「では、明日」
「ええ。明日」
ベルトランの内側が、一瞬だけ曇る。曇って、すぐに晴れた。
◇
――気位の高い女だ。稽古で口を開くのが嫌なのだろう。
◇
ちょうどいい読み違いである。
◇
ただ一人、エレーヌだけがこちらを見ていた。
見ているのは、顔ではない。口元だ。稽古で唱えなかった口が、明日は何を言うのか。品物を検める目で、じっと検めている。
◇
その晩、マリアンヌが髪をほどいた。
ほどきながら、一度だけ手を止める。止めて、鏡の中の主人を見た。
「お嬢様」
「なんですの」
「明日、唱えられますので」
ヴィオレッタは、鏡の中の侍女を見返す。
この侍女に、主人の内側は視えない。外しか見ない。ただ、外をよく見る。稽古の場で主人が口を閉じたのを、教会の誰より正しく見ていたのはこの侍女だ。
◇
「唱えられるものなら、唱えますわ」
「……はい」
「そう、お約束いたしましたもの」
◇
マリアンヌは、髪をほどく手をまた動かしはじめる。
動かしながら、小さく言った。
「唱えられないのでございますね」
ヴィオレッタは、答えない。
◇
答えないのが、答えだった。




