第52話 唱えられるものなら、唱えますわ
朝の食堂で、父がその話を持ち出す。
卓には父と娘の二人きりで、給仕は壁際に下がっている。父は卵を半分ほど食べてから匙を置き、それから言った。ついでの用を思い出したような口ぶりである。
「モンフォールの息子が、妻を迎える」
「存じておりますわ。ブリュネ男爵家のお嬢様でございましょう」
「証人を、おまえに頼みたいそうだ」
◇
ヴィオレッタは茶碗を持ち上げ、飲まずに置く。
モンフォール伯爵家は、父の古い狩り仲間の家だ。家柄は古く、領地は広く、蔵は空いている。空いた蔵を埋めるため、伯爵は跡取りに金のある嫁を探した。見つけたのが、羊毛で財を成し、一代で男爵の位を買ったブリュネ家の一人娘。
◇
古い家と、新しい金。
王都では珍しくもない縁組である。
◇
「なぜ、わたくしですの」
「男爵が、そう望んだのだ」
「男爵が」
「花婿の側の証人には、人の口に偽りを乗せぬ者を立てよ、と。それが嫁を出す条件だそうだ」
父の内側は、もう決め終えている。
古い友の頼みだ。断れば角が立つ。娘を一日貸すくらいで角が立たずに済むなら安いもので、勘定はそれで片づいていた。
◇
「男爵は、わたくしの悪名をご存じですの」
「知っておる。知っていて、それでもと言うのだ」
「悪名より、口のほうを買われましたのね」
「そうだろうな」
父は茶を一口含んだ。
「それに、おまえに落とされた家は、どこも後になって何かしら出てくる。男爵は商人だ。そういうものは数えておるのだろう」
「わたくしは、気にくわないお家を落としただけですわ」
「知っておる。……だが、数える側から見れば同じことだ。おまえの口は、王都で一番値が張る」
「褒めておいでですの」
「勘定しておる」
◇
「お受けいたしますわ」
「そうか」
「お父様のお顔を、潰すわけにはまいりませんもの」
父はそれきり婚礼の話をしない。
残りの卵を食べ、茶を飲み、執事を呼んで今日の客の名を確かめる。この男にとって、娘の一日はもう済んだ話らしい。
◇
「お嬢様が、証人に」
髪を結いながら、マリアンヌが言う。
「ええ。花婿の側の」
「お引き受けに、なったのですか」
「父の頼みですもの」
「……婚礼の証人は、何をいたしますの」
「祭壇の前で、一言唱えるだけですわ」
「それだけでございますか」
「それだけでございますわ。誰でもできる役ですの」
◇
「誰でもできる役に、なぜお嬢様を」
「そこが、面白いところですわね」
◇
婚礼の証人は、名誉の役とされている。
教会の婚礼には、花嫁の側と花婿の側から一人ずつ証人が立つ。司祭が誓いを受けたあと、証人が順に祭壇の前へ出て、短い言葉を唱える。
この婚姻に偽りなし、と神の御前に申し上げます。
それだけ。
◇
中身を気にする者はいない。
◇
古くからの決まりで、古くからの言い回しで、誰もが一度は聞いたことがある。祈りの最後に「かくあれかし」と言うのと同じく、唱える者も聞く者も、言葉の意味までいちいち考えない。
考えないから、誰が唱えても構わない。
決まりの上では、証人二人の言葉が揃って、はじめて婚姻は神の御前に成る。揃わなければ、成らない。もっとも、揃わなかった例を覚えている者は、司祭の中にもまずいないだろう。唱えるだけの役で、唱えない者などいないからだ。
◇
構わないはずの役に、男爵は条件をつけた。
そこが少しだけ面白い、とヴィオレッタは思う。
◇
花婿が挨拶に来たのは、三日後。
ベルトラン・ド・モンフォール、二十四。伯爵家の一人息子で、背が高く、声がよく通る。茶色の髪を短く刈り、上着の襟をきちんと立てている。見た目に隙のない男だ。
◇
「お引き受けいただき、まことにありがとう存じます」
「父の頼みでございますもの」
「それでも、です。ヴィオレッタ様に立っていただければ、男爵も安心いたします」
「男爵は、何をご心配でしたの」
ベルトランは、少し笑った。困ったような、照れたような笑い方で。
◇
「金を出す側は、出す先を疑うものでございます。ましてや、うちのような古いだけの家に一人娘を出すのですから」
「古いだけ、とご自分で仰いますのね」
「事実でございますので」
ヴィオレッタは、その内側を見た。
◇
――便利な口だ。
◇
はっきりと、そう聞こえる。
◇
――悪名の女でも、嘘をつかぬという評判だけは値打ちがある。あの口で偽りなしと言わせれば、羊毛屋は黙る。
◇
声は続いていく。
持参金の額。それで払う先の名。払い終えたあとに残る、男爵家の羊毛の商い。その帳場には、伯爵家の口利きで先月入れた男が一人いて、いずれ帳簿を預かる段取りになっている。南の町に囲っている女の家の、来月の払い。
花嫁の名は、一度も出てこない。
◇
出てきたのは、羊毛の匂いのする娘、という言い方だけだった。
ヴィオレッタは茶を勧めた。勧めながら、男の顔を見る。顔のほうは相変わらず隙がない。照れたような笑みを口の端に残し、目はまっすぐこちらへ向けている。この男は、内と外をきれいに分けて生きてきたのだろう。分けることに、何の苦労もしていない。
◇
「エレーヌ様は、どのような方ですの」
「おとなしい娘でございます。口数が少なく、よく働く」
「お好きですの」
「……これから、好きになります」
答える前に、ほんのわずか間があった。
間のあいだ、内側は何も探していない。探す必要のない問いを、この男は探すふりだけしてみせる。
◇
「当日は、何をいたせばよろしいの」
「祭壇の前で、一言だけ。司祭がお目をくだされば、それが合図でございます」
「一言」
「この婚姻に偽りなし、と神の御前に申し上げます。それだけでございます」
ベルトランは、その言葉をすらすらと口にする。
口にしながら、内側は少しも動かない。この男にとって、それは意味のある言葉ではなかった。祈りの終わりの「かくあれかし」と変わらない、ただの音にすぎない。
◇
「ヴィオレッタ様」
「なんですの」
「当日、よろしくお願いいたします」
◇
「唱えられるものなら、唱えますわ」
◇
ベルトランは、深く頭を下げた。
下げた先で、内側が満足げに鳴る。
◇
――乗った。
◇
乗ってはいない。
◇
唱えられるものなら、と言っただけのこと。唱えられないものは唱えない。それは嘘でも何でもなかった。
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