第51話 杯 ――お信じにならなかったのは、あなただけ(後編)
クラリスが立ち上がったのは、それからすぐのことである。
椅子が後ろへ倒れた。客のひとりが短く声を上げる。クラリスは壁際の水差しの台まで駆けていき、その縁に両手をついて、自分の指を喉の奥へ差し入れた。
えずく音が、食堂じゅうに響く。
一度で出ない。二度目も出ない。
先に動いたのは、マリアンヌだった。
主人は何も言いつけていない。侍女は壁際から離れ、盥を台から下ろして、クラリスの胸の下に差し入れた。もう片方の手で、乱れた亜麻色の髪を押さえる。
三度目に、ようやく赤いものが盥へ落ちた。それでもクラリスは指を抜かなかった。
「クラリス! 何を、あなた、何を」
伯爵夫人が駆け寄って、娘の背を掴んだ。
「お医者を……!」
娘の声が、泡と一緒に漏れる。
「早く、吐かせて。水を。全部、出さないと、十日で」
言いかけて、クラリスは自分の口を押さえた。
もう遅い。
食堂の誰ひとり、毒とは口にしていない。先に言ったのは、クラリス本人である。
――十日?
――いま、十日と。
――では、あの杯に。
卓の腹の内が、いっせいに同じところへ流れていった。マルソー侯爵夫人の笑みが、顔の上で固まったまま動かなくなる。
ギヨームが席を立ちかけた。
「先生」
ヴィオレッタは、医者を呼び止めた。
「お診せしたいのは、その方ではございませんの。ベルナール」
執事が、布に包んだものを抱えて戻ってきた。いつの間に下がっていたのか、誰も気づいていない。
布が解かれる。
中から出てきたのは、同じ紋、同じ年の瓶であった。封は切られていない。
「二十日前、クラリス様から頂戴いたしました瓶でございます」
ベルナールが、医者の前に瓶を置いた。
「お預かりしたときから、封蝋が二重になっておりました。一度溶かして、もう一度かぶせてございます。蔵で寝かせた酒に、こういう封はいたしません」
「では、いま開けたのは」
伯爵夫人が、娘の背を掴んだまま振り返った。
「うちの蔵の酒でございます。先代様が、ボーモン家から買い上げたもので」
◇
ギヨームは、しばらく瓶を眺めていた。
それから小刀で封蝋を削り、栓を抜く。鼻を近づけ、眉を寄せる。指先を一滴だけ濡らして舌に乗せ、すぐに手巾へ吐き出して、水で口をすすいだ。
「……舌が痺れますな」
老いた医者は、低い声で言った。
「北の湿地に生える草の根を煮詰めたものでございましょう。薬にも使いますが、これほど濃くしたものは見たことがない。杯ひとつで、十日ほどで熱が出る。熱病と見分けはつきません」
誰も口をきかない。
燭台の火だけが揺れている。明るすぎる晩餐の理由を、客たちはいまになって知った。
盥の縁にすがったまま、クラリスが顔を上げた。唇の端が汚れている。その髪を、マリアンヌがまだ押さえていた。
「どうして」
かすれた声である。
「どうして、瓶を……わたくしは、何も」
「わたくしを恨んでおいでの方からの贈り物を、そのままいただくとお思いでしたの」
ヴィオレッタは扇を閉じた。
それ以上のことは、何も言わない。言う必要がない。瓶は執事が出し、封は執事が読み、中身は医者が確かめた。毒の話を口にしたのは、毒を入れた当人だけである。
「では、わたくしが、いま飲んだのは」
「うちの蔵の酒ですわ。同じ年の、同じ家の」
クラリスの膝が折れた。伯爵夫人が支えきれずに、母娘ともども床へ座り込む。
ヴィオレッタは、上座から見下ろした。
「何も入っておりませんと、申しましたのに」
扇の先で、半分残った杯を指す。
「お信じにならなかったのは、あなただけですわ」
◇
伯爵夫人は、帰りしなに一度だけ振り返った。
「ヴィオレッタ様。どうか、どうか、このことは内々に」
「内々になさりたいのでしたら」
ヴィオレッタは、見送りに立ちもしなかった。
「瓶は、ご自分のお屋敷でお開けになればよろしかったのに」
瓶は、その晩のうちにギヨームの書付を添えて王宮へ送られた。
◇
客がみな帰ったあと、マリアンヌが寝室の灯りを整えにやって来る。
袖口が、まだ少し濡れている。盥を押さえていたときのものだろう。
侍女は黙って燭の芯を切り、それから一度だけ手を止めた。
「瓶から指をお離しにならなかったのは、そういうことでございましたか」
「お前の見たとおりでしたわね」
「……はい」
マリアンヌは、それ以上何も訊かなかった。
――いつから知っていて、二十日、黙って。
――……この人は、いつか、こういうことで死ぬ。
赤い色の奥に、もうひとつ別の色が細く混じっている。ヴィオレッタは、それを聞かなかったことにした。
侍女は灯りをひとつ落として、静かに下がっていく。
ボーモン伯爵家の令嬢が北の修道院へ入ったと聞いたのは、ひと月ほど後のことである。付き添う侍女もなく、見送りもなかったという。
◇
「二十日、毒の瓶と同じ屋根の下にいたな」
王太子アルベールは、書き物の手を止めずに言った。
ギヨームの書付は、この机にも回ってきたらしい。
「ええ。鍵の棚に」
「いつ視た」
「瓶が届いた日に」
ペンの音が、そこで止まった。
「なぜ私に言わなかった」
「訊かれませんでしたもの」
アルベールは顔を上げた。氷点下の目である。
「では、次からは訊く」
彼は、またペンを取った。
「差し引きを言え」
「伯爵家の令嬢がおひとり、修道院へ。わたくしのドレスが一枚。……得でございますわ」
「ドレスを勘定に入れるな」
「三月待った一着でしたのよ」
返事はなかった。ペンの音だけが、また規則正しく続いている。
――次は、言え。
心の声のほうは、命令の形をしていた。
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