第52話 杯 ――お信じにならなかったのは、あなただけ(前編)
晩餐の客は、七人であった。
ボーモン伯爵夫人と、その娘クラリス。マルソー侯爵夫人と、その妹。老いた男爵夫妻がひと組。それから末席に、医者のギヨーム。
公爵は領地へ出ていて留守である。長い卓の上座には、ヴィオレッタがひとりで座っている。壁際にはマリアンヌが控え、給仕の采配はベルナールが執っていた。
燭台は十二。秋の晩餐にしては、少し明るすぎる。明るくしておけと言ったのはヴィオレッタで、理由は誰にも言っていない。
七人ぶんの腹の内が、スープの湯気と一緒に卓の上を漂っている。
――公爵様のお留守に、仲直りの晩餐ですって。
――あの方が、よくクラリス嬢をお許しになったこと。
――早く帰りたいものだ。膝が冷える。
「まあ、お医者様まで」
マルソー侯爵夫人が、スープの皿越しに声を上げた。
「公爵家では、晩餐にお医者様をお呼びになるのが近ごろの流行りですの?」
「先生は、父の古いお友達でございますの。父の留守に、お席を埋めていただきましたわ」
ギヨームは白い髭の下で、困ったように笑った。なぜ呼ばれたのか、本人にもまだ分かっていない。
マルソー侯爵夫人は、それからも皿が替わるたびに何か言った。魚の小ささには触れなかったが、魚の話はした。スープの塩の話もした。燭台の数まで数えている。
――この方は、次からお名前を外しましょう。
ヴィオレッタはそれだけ決めて、あとは夫人の話を聞いていない。
◇
クラリスは、ほとんど食べていなかった。
皿に手はつけている。ナイフも動かしている。けれど口へ運ぶ量が少ない。目だけが、ときどき酒棚のほうへ滑っていく。
そのたびに、赤黒い色が立つ。
――まだ。まだ出てこない。
――肉のあとか。肉のあとに出すと言っていた。
隣の伯爵夫人は、娘の様子にまるで気づいていない。ひと月ぶりに外へ連れ出せたのが嬉しいのだろう。男爵夫人を相手に、娘が小さいころ庭の池へ落ちた話をしている。
母親のまわりには、色がひとつも立っていなかった。この方は、本当に何もご存じない。
肉の皿が下げられた。
ベルナールが、銀の盆に瓶を一本のせて入ってくる。埃は払ってあるが、封蝋はそのまま。ボーモン家の紋が、燭台の火を受けて鈍く光った。
「ボーモン伯爵家のクラリス様より、お嬢様へ頂戴いたしました品でございます」
執事が客の前で封を切った。蝋が割れ、栓が抜かれる。
クラリスの肩から、目に見えて力が抜けていった。
――開いた。
――あとは注がせて、飲むのを見ればいい。
伯爵夫人が、娘の手にそっと自分の手を重ねた。
「この子ったら、ずっと気にしておりましたのよ。あの夜のことで、ヴィオレッタ様にお嫌われしたのではないかと」
「クラリス様がお気になさることでは、ございませんわ」
ヴィオレッタは微笑んだ。
嫌っていないとは、ひと言も言っていない。
ベルナールが杯に酒を注ぐ。杯はひとつだけ。深い赤が、燭台の下で黒く見えた。
執事は盆を持ったまま、上座へ歩きかけた。
「ベルナール」
「は」
「その杯は、クラリス様の前へ」
◇
卓の上の腹の内が、一斉に止まる。
それから、一斉に鳴りはじめた。
――え?
――毒見をさせるおつもり? まさか。
――からかっておいでなのよ。あの方らしいこと。
クラリスの顔から、血の気が引いていく。
「あの、ヴィオレッタ様。わたくしは、お酒が」
「存じておりますわ。お弱いのでしょう」
ヴィオレッタは扇を開いた。
「それから、あなたがわたくしを恨んでおいでなことも、存じております」
老いた男爵夫人が、フォークを皿に落とした。
誰も拾わない。夜会の葡萄酒の一件も、ランベール家の断りの書状も、この卓の全員が知っている。
「恨まれる覚えは、ございますもの。ですから、恨んでおいでの方からいただいたものを、わたくしが先にいただくわけにはまいりませんの。お持ちになった方が、先にひと口。昔からの作法でございましょう」
「そんな……わたくし、恨んでなど」
「では、なおのこと、お飲みになれますわね」
クラリスの指が、卓の縁を掴んだ。
「……何か、入っているとでもおっしゃいますの」
「何も入っておりませんわ」
ヴィオレッタは、まっすぐに答えた。
嘘をつかない女だということは、王都の誰もが知っている。この女が「入っていない」と言うなら、入っていないのである。
卓の客たちの肩から、少しずつ力が抜けていく。マルソー侯爵夫人など、もう笑いかけていた。
ただひとり、クラリスだけが抜けなかった。
――入っていない?
――そんなはずはない。わたしが、この手で。
――替えられた? いつ。封は、いま目の前で切った。紋も、年も、同じ。
色が、見たこともないほど濃くなる。
信じれば、二十日かけて組み立てたものが、もうどこかで崩れていることになる。信じなければ、この杯には毒がある。どちらを選んでも、飲めば終わりだと思っている顔である。
ヴィオレッタは、その色をゆっくり眺めた。
怯えの色は、眺めていて飽きない。人がいちばん正直になるのは、こういうときだ。夜会で杯を傾けた娘の腹の内は、あの夜、愉快そうに揺れていた。いまは、震えている。
「クラリス」
伯爵夫人が、小声で娘をつついた。
「頂戴なさい。ひと口だけでいいのよ。せっかくのお心遣いなんですから」
母親は、何も知らない。
クラリスは杯を持った。手が震えて、縁から赤いものが一筋、白い卓布へ落ちる。
ひと月前、藤色の絹の上を走ったのと、同じ色だった。
飲んだ。
ひと口ではなく、ふた口。杯を置いたとき、中身は半分に減っていた。
お読みいただき、ありがとうございました!
皆様にお願いです
ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に
応援していただけますと励みになります! よろしくお願いいたします(^^♪




