第51話 瓶 ――葡萄酒のお 詫びに、葡萄酒を(後編)
客が帰ったあと、マリアンヌが茶器を下げに来た。
この侍女が主人を嫌っていることは、主人のほうがよく知っている。腹の内は、いつ覗いても真っ赤である。それでいて、口に出す言葉に嘘がひとつもない。だからそばに置いている。
「マリアンヌ」
「はい」
「お前、いまのお客をどう見ましたの」
侍女は、茶器を盆に移す手を止めなかった。
「瓶をお渡しになるまで、一度も指をお離しになりませんでした」
「それで」
「詫びの品を持ってくる者は、たいてい先に手放します。早く渡して、早く帰りたいものですから。……あの方は、帰りたいお顔をしておいでではございませんでした」
ヴィオレッタは、扇の陰で笑った。
心の読めない娘が、外側だけを見て、同じところへたどり着いている。
「よく見ておりますこと」
――褒められても、嬉しくなんかない。
赤い色の端に、そう書いてあった。
「それから、申し上げてよろしいですか」
「嘘でなければ」
「あの方が恨んでおいでなのは、当然でございます。縁談をひとつ、あなた様が一言で潰されたのですから」
「葡萄酒をかけたのは、あちらですわ」
「ドレスは、洗えば落ちましたでしょう」
「ええ。ですから、捨てさせましたの」
マリアンヌは答えなかった。盆を抱えて、扉を閉めて出ていった。
――最低。
閉じた扉の向こうから、色だけが遅れて届いた。いい色ですこと、とヴィオレッタは思った。
◇
呼び鈴を二度鳴らすと、ほどなくベルナールが顔を出す。
「この瓶と同じ年の、同じ家の酒が、うちの蔵にありまして?」
執事は瓶を手に取らず、貼り紙だけを眺めた。二十年この家の金を見てきた男は、酒を値で覚えている。
「ございます。先代様がボーモン家から買い上げたものが、蔵に三本。ひと瓶で、若い馬が一頭買えます」
「一本、食堂の酒棚へ出しておきなさい。晩餐の日に開けますわ」
「承知いたしました。それで、こちらは」
「封を切らずに、鍵のかかる棚へ。晩餐の日まで、誰の手にも触れさせないこと」
ベルナールは何も訊かなかった。訊かぬほうが早いことを、この執事はよく心得ている。
ただ、瓶を持ち上げるとき、封蝋の縁を親指の腹でなぞった。
「一度、溶かしてございますな」
「そう見えまして」
「蝋が二重になっております。蔵で寝かせた酒に、こういう封はいたしません」
ヴィオレッタは答えなかった。答えずとも、執事はもう瓶を布で包みはじめている。
「それから、今日の給仕の若い者。茶器の把手を、わたくしの左に向けて置きましたわ」
「……は」
「明日から、表に出さないこと」
「承知いたしました。廚の薪割りに回します」
若い給仕が何をしくじったのか、ベルナールには分からなかったはずである。分からぬまま、ただ頭を下げている。
「もうひとつ。ギヨーム先生を、晩餐にお招きなさい。お客として」
執事の手が、はじめて止まった。
「どこか、お加減が」
「いいえ。お席が、ひとつ空いておりますの」
◇
晩餐までの二十日、クラリスからは短い手紙が二度届いた。
一度目は、招きへの礼。二度目は、母が楽しみにしているという知らせ。どちらにも、瓶のことは書かれていない。
ヴィオレッタは二通とも暖炉にくべた。返事は出していない。
あの娘の算段は、よくできている。
瓶は公爵家の食堂で開けられ、公爵家の執事が注ぎ、公爵家の娘が飲む。熱が出るのは十日の後。そのころには瓶は洗われて、酒の味を覚えている者もいない。流行り病で死んだ公爵令嬢を、誰がひと月前の詫びの酒と結びつけるだろう。
自分は酒に弱いと言って、一滴も口にしない。母親まで連れてきて、仲直りの席を見届けさせる。
――よく考えましたわね。
――あなたの声が、わたくしの耳に届かなければ。
鍵の棚には、封の二重になった瓶が一本しまわれている。
食堂の酒棚には、同じ紋、同じ年の瓶が一本並んでいる。
違いを知っているのは、この家にふたりしかいない。
毒を入れた当の本人は、自分の瓶がもう棚の奥で眠っていることも知らぬまま、晩餐の日を指折り数えている。
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