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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第11章

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第50話 瓶 ――葡萄酒のお詫びに、葡萄酒を(前編)

毒の入った葡萄酒は、青い紙に包まれて届いた。


届けに来たのは、ボーモン伯爵家の令嬢クラリス本人である。


秋の終わりの午後、アルヴェール公爵家の小さな客間。窓の外では庭師が落ち葉を掃いていて、竹箒の音だけが途切れずに続いている。


「先だっての夜会では、とんだ粗相をいたしました」


クラリスは膝の上に包みを抱えたまま、深く頭を下げた。


十九になったばかりの伯爵令嬢。亜麻色の髪をきちんと結い上げ、襟元には飾りひとつない。このひと月、どの夜会にも出ていないと聞いている。


「粗相、でございますか」


ヴィオレッタは茶器に手を伸ばさずに言った。


「どの粗相のことを、おっしゃっておいでですの」


「わたくしが、足をもつれさせまして。ヴィオレッタ様のお召し物を」


クラリスの顔のまわりに、色がひとつ立った。


薄く濁った黄色。口と腹の内が食い違うときにだけ、人のまわりに滲むものである。


 ――もつれてなどいない。わかっているくせに。


声は細い糸のように、詫びの言葉の下を途切れずに流れていた。


この目のことは、誰も知らない。父も、執事も、壁際で茶を注いでいる侍女も知らぬ。気づいているのは王太子アルベールただひとりである。


見えたところで、証にはならぬ。「視えました」と言って通る場所は、この国のどこにもないのだから。


   ◇


ひと月前の、王妃陛下の夜会のことだった。


大広間に二百人。二百の口が上品に笑い、二百の腹の内が勝手に喋る。ヴィオレッタにとって、夜会とはそういう音のする場所である。誰がどこで何を思っているのか、いちいち聞き分けていては身がもたない。だから、たいていは聞き流している。


その夜も、聞き流していた。


右の肩のうしろで、誰かがよろけた。


 ――今。裾に。


声が届いたのは、杯が傾いたあとである。


赤い葡萄酒が、淡い藤色の絹の上を、胸もとから裾まで一筋に走った。


「まあ、ごめんなさい。足がもつれてしまって」


クラリスが、空になった杯を胸に抱えて立っていた。


まわりの腹の内が、一斉に鳴った。


 ――わざとだわ。


 ――あの方に、よくもまあ。


 ――見ものね。どうなさるかしら。


ヴィオレッタは、ドレスを見下ろした。仕立て屋に三月待たされた一着である。


それから、クラリスの顔を見た。詫びの形をした口もとの奥で、愉快そうな色がまだ揺れている。


その夜、ヴィオレッタは何も言わずに広間を下がった。


   ◇


口を開いたのは、七日後の茶会である。


ランベール子爵夫人が、同じ卓についている。クラリスの婚約者の母親で、息子の縁談を自慢にしている婦人だった。


「ヴィオレッタ様は、クラリス嬢とは親しくしていただいておりますの?」


夫人は、にこやかに訊く。


ヴィオレッタは、茶器を置いた。


「葡萄酒を一杯、いただきましたわ。ドレスの上に」


卓が、静かになった。


それ以上のことを、ヴィオレッタは何も言っていない。わざとだったとも、許さないとも言わなかった。言わなくても、子爵夫人の腹の内は勝手に勘定を始めている。


 ――王太子殿下のご婚約者に。


 ――そんな娘を、うちの嫁に。


縁談は、その月のうちに流れた。ランベール家から先に断りの書状が出たと聞く。王太子の婚約者と揉めた娘を家に入れて、公爵家に睨まれるのを恐れたのだろう。


藤色のドレスは、染み抜きに出すまでもなく捨てさせた。


ヴィオレッタは詫びていない。詫びる理由が、どこにも見当たらなかった。


   ◇


「お詫びのしるしに、これを」


包みが卓に置かれた。


青い紙を解くと、中から埃をかぶった瓶が出てくる。封蝋にはボーモン家の紋。貼り紙には、四十年前の年が記されている。


「あの夜の葡萄酒のお詫びに、葡萄酒を。祖父が蔵に寝かせておいたものでございます。この年のものは、もう家にも数本しか残っておりませんの」


クラリスが、瓶の首にそっと指を添えた。


その瞬間、色が変わった。


黄色が、熟れすぎた果実の皮のような赤黒さへ沈んでいく。同時に、声がした。


 ――十日。十日もすれば熱が出る。医者は流行り病だと言う。


 ――あの夜は裾だった。今度は、腹の中。


クラリスの口もとは、穏やかに微笑んだままである。


ヴィオレッタは瓶を見た。


封蝋の縁が、ほんのわずかに波打っているように見える。気のせいかもしれぬ。この目に映るのは人の腹の内だけで、物の中身までは視えない。


「お祖父様のお蔵から、あなたがご自分でお選びになりましたの」


「ええ。父に頼んで、鍵を借りまして」


 ――ひとりで下りた。ひとりで封を溶かした。誰にも見られていない。


「まあ。ご自分で」


「お詫びですもの。人の手に任せては、心がこもりませんでしょう」


色が、また濃くなった。


心がこもっているのは本当なのだろう。こもっているものが、詫びではないというだけで。


「来月の晩餐に、わたくしもお招きいただけましたら」


クラリスが顔を上げた。


「その席で、開けていただきたいのです。お口に合うかどうか、この目で見とうございますの」


 ――目の前で飲ませる。見届けて帰る。瓶は空になって、何も残らない。


「あなたもお飲みになりますの」


「わたくしは、お酒が弱くて。ひと口で顔が赤くなってしまいますの。ですから、これはヴィオレッタ様おひとりに」


今度は、色が動かない。酒に弱いのは本当らしい。


本当のことと嘘とを、上手に綯い交ぜにする娘である。夜会で杯を傾けたときより、よほど賢い。


ほう、とヴィオレッタは思った。悪くない。


 ――捨てるのは簡単ですわ。


 ――けれど捨てれば、この方はまた別の瓶をお持ちになる。次は、わたくしの知らない瓶を。


泳がせておくことにした。


「では、晩餐にいらしてくださいませ。お母様もご一緒に」


「まあ。よろしいのですか」


「ええ。この瓶は、その席で開けますわ」


クラリスの頬が、はじめて本当に緩んだ。色が消える。喜びには、ずれがない。



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