第50話 瓶 ――葡萄酒のお詫びに、葡萄酒を(前編)
毒の入った葡萄酒は、青い紙に包まれて届いた。
届けに来たのは、ボーモン伯爵家の令嬢クラリス本人である。
秋の終わりの午後、アルヴェール公爵家の小さな客間。窓の外では庭師が落ち葉を掃いていて、竹箒の音だけが途切れずに続いている。
「先だっての夜会では、とんだ粗相をいたしました」
クラリスは膝の上に包みを抱えたまま、深く頭を下げた。
十九になったばかりの伯爵令嬢。亜麻色の髪をきちんと結い上げ、襟元には飾りひとつない。このひと月、どの夜会にも出ていないと聞いている。
「粗相、でございますか」
ヴィオレッタは茶器に手を伸ばさずに言った。
「どの粗相のことを、おっしゃっておいでですの」
「わたくしが、足をもつれさせまして。ヴィオレッタ様のお召し物を」
クラリスの顔のまわりに、色がひとつ立った。
薄く濁った黄色。口と腹の内が食い違うときにだけ、人のまわりに滲むものである。
――もつれてなどいない。わかっているくせに。
声は細い糸のように、詫びの言葉の下を途切れずに流れていた。
この目のことは、誰も知らない。父も、執事も、壁際で茶を注いでいる侍女も知らぬ。気づいているのは王太子アルベールただひとりである。
見えたところで、証にはならぬ。「視えました」と言って通る場所は、この国のどこにもないのだから。
◇
ひと月前の、王妃陛下の夜会のことだった。
大広間に二百人。二百の口が上品に笑い、二百の腹の内が勝手に喋る。ヴィオレッタにとって、夜会とはそういう音のする場所である。誰がどこで何を思っているのか、いちいち聞き分けていては身がもたない。だから、たいていは聞き流している。
その夜も、聞き流していた。
右の肩のうしろで、誰かがよろけた。
――今。裾に。
声が届いたのは、杯が傾いたあとである。
赤い葡萄酒が、淡い藤色の絹の上を、胸もとから裾まで一筋に走った。
「まあ、ごめんなさい。足がもつれてしまって」
クラリスが、空になった杯を胸に抱えて立っていた。
まわりの腹の内が、一斉に鳴った。
――わざとだわ。
――あの方に、よくもまあ。
――見ものね。どうなさるかしら。
ヴィオレッタは、ドレスを見下ろした。仕立て屋に三月待たされた一着である。
それから、クラリスの顔を見た。詫びの形をした口もとの奥で、愉快そうな色がまだ揺れている。
その夜、ヴィオレッタは何も言わずに広間を下がった。
◇
口を開いたのは、七日後の茶会である。
ランベール子爵夫人が、同じ卓についている。クラリスの婚約者の母親で、息子の縁談を自慢にしている婦人だった。
「ヴィオレッタ様は、クラリス嬢とは親しくしていただいておりますの?」
夫人は、にこやかに訊く。
ヴィオレッタは、茶器を置いた。
「葡萄酒を一杯、いただきましたわ。ドレスの上に」
卓が、静かになった。
それ以上のことを、ヴィオレッタは何も言っていない。わざとだったとも、許さないとも言わなかった。言わなくても、子爵夫人の腹の内は勝手に勘定を始めている。
――王太子殿下のご婚約者に。
――そんな娘を、うちの嫁に。
縁談は、その月のうちに流れた。ランベール家から先に断りの書状が出たと聞く。王太子の婚約者と揉めた娘を家に入れて、公爵家に睨まれるのを恐れたのだろう。
藤色のドレスは、染み抜きに出すまでもなく捨てさせた。
ヴィオレッタは詫びていない。詫びる理由が、どこにも見当たらなかった。
◇
「お詫びのしるしに、これを」
包みが卓に置かれた。
青い紙を解くと、中から埃をかぶった瓶が出てくる。封蝋にはボーモン家の紋。貼り紙には、四十年前の年が記されている。
「あの夜の葡萄酒のお詫びに、葡萄酒を。祖父が蔵に寝かせておいたものでございます。この年のものは、もう家にも数本しか残っておりませんの」
クラリスが、瓶の首にそっと指を添えた。
その瞬間、色が変わった。
黄色が、熟れすぎた果実の皮のような赤黒さへ沈んでいく。同時に、声がした。
――十日。十日もすれば熱が出る。医者は流行り病だと言う。
――あの夜は裾だった。今度は、腹の中。
クラリスの口もとは、穏やかに微笑んだままである。
ヴィオレッタは瓶を見た。
封蝋の縁が、ほんのわずかに波打っているように見える。気のせいかもしれぬ。この目に映るのは人の腹の内だけで、物の中身までは視えない。
「お祖父様のお蔵から、あなたがご自分でお選びになりましたの」
「ええ。父に頼んで、鍵を借りまして」
――ひとりで下りた。ひとりで封を溶かした。誰にも見られていない。
「まあ。ご自分で」
「お詫びですもの。人の手に任せては、心がこもりませんでしょう」
色が、また濃くなった。
心がこもっているのは本当なのだろう。こもっているものが、詫びではないというだけで。
「来月の晩餐に、わたくしもお招きいただけましたら」
クラリスが顔を上げた。
「その席で、開けていただきたいのです。お口に合うかどうか、この目で見とうございますの」
――目の前で飲ませる。見届けて帰る。瓶は空になって、何も残らない。
「あなたもお飲みになりますの」
「わたくしは、お酒が弱くて。ひと口で顔が赤くなってしまいますの。ですから、これはヴィオレッタ様おひとりに」
今度は、色が動かない。酒に弱いのは本当らしい。
本当のことと嘘とを、上手に綯い交ぜにする娘である。夜会で杯を傾けたときより、よほど賢い。
ほう、とヴィオレッタは思った。悪くない。
――捨てるのは簡単ですわ。
――けれど捨てれば、この方はまた別の瓶をお持ちになる。次は、わたくしの知らない瓶を。
泳がせておくことにした。
「では、晩餐にいらしてくださいませ。お母様もご一緒に」
「まあ。よろしいのですか」
「ええ。この瓶は、その席で開けますわ」
クラリスの頬が、はじめて本当に緩んだ。色が消える。喜びには、ずれがない。
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