第49話 騙されたとお思いなら
献上は、年明けの七日であった。
蔵方の広間に、卓が長く二列に並ぶ。片側に王室の役人、片側に王都の家の当主が座った。ヴァスールの絵を買った家が、ひととおり顔を揃えている。ラング伯爵夫人も、三つ向こうの席にいた。
◇
王太子が臨席していた。
本来、御用達の献上に王太子が出ることはない。出たのは、出たかったからであろう。この男は、面白そうなものの前では、たいてい椅子を空けさせる。
「殿下までお越しとは」
ヴァスールが、深く頭を下げた。
「身に余る光栄でございます」
「絵を見に来た」
「はい。ぜひ、ご覧くださいませ」
◇
ヴァスールは、今日のために仕立てた上着を着ていた。
北の織りで、襟が高く、袖に細い銀の糸が入っている。二月前に会ったときの上着より、一段も二段も上等である。上等になったのは、御用達の話が動いてからであった。
◇
広間の空気は、朝から出来上がっていた。
御用達の披露を兼ねた献上である。ここに座っている当主たちは、みな一点か二点を買っている。買ったものが王室の帳に載れば、自分の家の一点も上がる。誰もが、今日は良い日だと思って来ていた。
◇
献上の品は、一点と決まっていた。
アンセルムの板絵。窓辺の女。ヴァスールの手元にあった、いちばん大きな一枚である。布に包まれて、広間の中央の台に置かれていた。
モレルが、立ち上がった。
「では、納めていただく前に」
「はい」
「蔵から、一枚出しております」
◇
広間が、少しだけざわめいた。
蔵から絵が出るのは、めったにないことである。当主たちが身を乗り出した。
「同じ画家の手のものでございます。本日、ちょうどよい折かと存じまして、並べさせていただきました」
「まあ、それは」
◇
ヴァスールの顔が、明るくなった。
内側も、同じであった。
◇
――並ぶ。
◇
――王室の蔵の一枚と、並ぶ。
商人にとって、これ以上の看板はない。王室の真作と同じ場に並べられた絵は、それだけで本物になる。この男は、いま自分が二十年かけて登ってきた階段の、いちばん上に立っていた。
「光栄でございます」
「では、両方とも」
◇
モレルが、手を上げた。
役人が二人、それぞれの布に手をかける。
◇
同時に、外した。
◇
広間が、音を失った。
◇
窓辺の女が、二枚あった。
◇
同じ構図である。
窓の位置も、女の顔の向きも、光が頬で一度止まって首筋へ落ちていく、その落ち方も。片方は板が古く、片方は少し新しい。ただ、離れて見れば、どちらがどちらか分からなかった。
◇
誰も、何も言わない。
言わないまま、広間じゅうの顔がヴァスールを向いた。
ヴァスールの内側が、真っ白になっていた。
◇
――どうして。
◇
――蔵に、あるなんて。
◇
白は、ほんのわずかで消えた。
消えたあとに立ち上がったのは、慣れた色である。この男は、二十年この商売をしている。窮したときの顔は、作りつけであった。
「……これは」
ヴァスールは、蔵の一枚のほうへ一歩寄る。
「なんということでございましょう。私は、騙されておりました」
◇
広間が、ざわめく。
「仕入れの先は、南の商会でございます。北から来た品だと申しまして、私も信じておりました。確かに板は古く、絵具も」
「ヴァスール殿」
モレルの声は、小さかった。
小さいが、広間の端まで届く。四十年、王室の蔵を預かってきた男の声である。
◇
「目録に、こう書いておられましたな。この板は、絵具の下に別の下描きが見える、と」
「……書きました」
「見て、お書きになりましたか」
「見ました」
「裏板の虫食いも、お書きになった」
「書きました」
「これも、ご覧になった」
「……はい」
◇
モレルは、頷いた。
頷いただけである。責めもしない。声も上げない。この蔵方は、疑う目で四十年生きてきた男であった。疑う目を持つ者は、詰めるときに大声を出さない。
「蔵の一枚は、三十年、この蔵にございます。外に出たことは一度もございません」
「……」
「あなたの一枚の来歴には、南の商会を経たとございます。二枚が同じ絵でございますなら、どちらかの来歴は、書いた者が作ったものでございましょう」
◇
ヴァスールの額に、汗が浮いた。
「私は、信じて仕入れました。信じて売りました。それは、罪でございますか」
罪ではない。
◇
騙された者は、罪に問えない。この男は、そこへ逃げ込もうとしている。逃げ込めば、あとは損をして終いである。損は、買った家がかぶる。
◇
ここまで、ヴィオレッタは一言も喋っていない。
喋る必要がなかった。目録を書かせたのはこちらだが、書いたのはあの男である。蔵の絵を出させたのはこちらだが、並べると言ったのはモレルであった。ここまで運んだ手は、どれも自分のものではない。
◇
ヴィオレッタは、そこで立ち上がった。
今日、はじめて口を開く。
◇
「ヴァスールさん」
「……お嬢様」
「騙されたとお思いなら、あの目録は、どなたがお書きになりましたの」
◇
広間が、静まった。
◇
紙は、どこにも出ていない。
◇
出す必要がなかった。目録はもう蔵方の帳に貼られていて、この広間の誰もが、先月それが書かれたことを知っている。書いたのはこの男で、署名もこの男のものであった。
「騙された方は、工房の名をご存じありませんわ」
◇
「絵具を溶いたのがどの弟子か、板が二度使われているか、裏板のどこに虫が入っているか。騙された方には、どれも書けませんの」
ヴァスールは、答えない。
「それから、もう一つ」
ヴィオレッタは、自分の四枚が置かれた卓のほうへ目をやった。
◇
「四枚とも、来歴の三行目に、うちの名がございますわ。先々代の年に、アルヴェール公爵家所蔵、と」
◇
「うちには、ございませんの」
◇
モレルが、顔を上げる。
「……一度も」
「一度もでございます。うちの絵の目録は、執事が二十年預かっております。アンセルムの名は、一度も出てまいりません」
広間が、どよめく。
「ございませんものを、どうしてお書きになれましたの」
◇
ヴァスールの口が、開いて、また閉じる。
開いたときに出かかった言葉は、たぶん、公爵家が王室へ献上したという話を耳にした、というものである。言えば、蔵の一枚の出どころを知っていたことになる。知っていた者は、騙されていない。
◇
言わずに閉じたのは、賢明であった。
賢明ではあるが、もう遅い。
「殿下」
モレルが、王太子のほうへ向き直った。
「この目録は、蔵方の帳から外します。御用達の件も、取り下げでよろしゅうございますか」
「よい」
アルベールは、絵のほうを見たまま答える。
◇
「取り下げるだけか」
「……と、申されますと」
「四十点、この王都の家に入っておる。帳から外して済む話ではあるまい」
広間が、動きはじめた。
動いたのは、絵を買った家の当主たちである。
目録には、四十点ぶんの来歴と、四十ぶんの署名がある。本物であると、この男が自分の手で書いた。書いたものが本物でなかったのなら、返してもらうのは買った側の当たり前であった。
◇
ラング伯爵夫人が、卓の三つ向こうで青くなっていた。
夫人の三枚は、先月、目録に入れてもらったばかりである。入れてもらったおかげで、返せるようになった。入っていなければ、ただの見立て違いで終わっていた。
夫人は、そのことにまだ気づいていない。
◇
ヴィオレッタは、教えなかった。
その日のうちに、王都は向きを変えた。
朝には御用達の披露であったものが、昼には目録の取り下げになり、夕方には返金の話になっている。噂というのは、事実より速い。速いぶん、止まるところまで止まらない。
◇
ヴァスールが王都を出たのは、その月の終わりである。
四十点ぶんの金を返しきれず、荷馬車も上着も手放した。北へ戻ったと聞いたが、北のどこへ戻ったのかは誰も知らない。あの男の来歴を書く者は、どこにもいなかった。
◇
ヴィオレッタの四枚は、戻らなかった。
贋物と知って買ったものである。知って買った者は、返せない。返せと言えば、知っていて黙っていたことになる。
「四枚ぶん、お捨てになりましたのね」
ベルナールが、帳を閉じながら言った。
「ええ」
「……お家の名は、戻りましてございます」
「二百年ぶんが、四枚で戻るなら安うございますわ」
◇
執事は、それ以上言わなかった。
言わずに、帳を抱えて下がっていく。下がる背が、いつもより少しだけ速かった。
王城からは、その後しばらく何も言ってこなかった。
言ってきたのは、半月ほどあとである。書き物の手を止めずに、アルベールはこう言った。
◇
「しでかしたな」
「しでかしましたわ」
「一つ残らず出せ」
ヴィオレッタは、一つ残らず出した。
贋物と知って四枚買ったこと。蔵の絵を出させたのが自分であること。目録に自分の四枚を入れさせたこと。伯爵夫人を止めなかったこと。
◇
「止めなかったのか」
「止めませんでしたわ」
「なぜだ」
「止めれば、あの方は助かりますもの」
アルベールは、筆を置いた。
「助けてやる気はないのか」
「ございませんわ。あの方は、得をするつもりで買っておいででした」
「そなたは」
「損をするつもりで買いましたの」
◇
アルベールは、しばらく黙っていた。
「四枚は、どうする」
「掛けておりますわ。南の廊に」
「贋物をか」
「よく描けておりますもの」
嘘ではない。
四枚とも、よく描けている。窓から入る光が、女の頬で一度止まって、首筋へ落ちていく。止め方が巧い。百年前の筆かどうかは、いまでも分からない。分からないが、巧いことだけは分かる。
◇
春の初めに、マリアンヌが南の廊で足を止めた。
「お嬢様。これは、贋物でございますよね」
「ええ」
「……掛けておいて、よろしいのですか」
「よろしいですわ」
ヴィオレッタは、窓辺の女の前に立った。
「この絵をお描きになった方は、贋物を描くには惜しい腕でございますわね」
「……そうでございますか」
「ええ。ずいぶん上手でございますわ」
◇
板の裏には、来歴の紙が貼ってある。
画家の名。描かれた年。持ち主の移り。どこの工房で、どの弟子が絵具を溶いたか。細かに、丁寧に、十行ばかり。
◇
この絵を本当に描いた者の名だけが、どこにも書いていない。




